主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き2章1〜4節 タイトル: バラバラの人々を一つに キリスト教の行事には三大祝祭日というものがあります。 一つはクリスマスで、イエス様がこの地にこられたことを記念する祝祭です。 二つ目はイースターで、イエス様が復活されたことを記念する祝祭です。 そして三つ目がペンテコステです。これは聖霊が降臨されたことを記念する祝祭です。 ペンテコステはギリシャ語で50という意味があります。 イエス様の復活から50日目に聖霊が臨まれたことから、聖霊が降臨された日を50日(ペンテコステ)と呼ぶようになりました。 今日はその聖霊降臨を記念するペンテコステ礼拝です。 今日共に見ていく聖書はその聖霊を神がこの地に送られた場面です。 1 聖霊を待っていた弟子たち 神は弟子たちに約束どおり聖霊を送られました。 この日弟子たちは一つのところに集まっていました。 彼らはイエス様の言葉を忠実に守っていました。 使徒の働き1章3、4節にはこう書いてあります。 「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じされた。エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」 イエス様は復活されて40日間、弟子達の前に現れました。そして天にのぼられました。 聖霊が臨んだのはイエス様の復活の50日後です。 この日に、かつてなかったような聖霊の注ぎがありました。 これ以前もこれ以後も同じ出来事はありませんでした。 弟子たちにとってエルサレムは居心地の良いところではありません。 イエス様が処刑された場所だからです。 復活のイエス様が共におられるときは心強かったでしょうが、天に昇られて10日間は弟子たちだけで生きていたことになります。 もちろんその間も神が守ってくださっていたのは間違いありませんが、それでも弟子たちの側からすると不安になっても仕方がない状況でした。 イエス様が殺されてからまだたった一月しか経っていません。 イエス様を十字架にかけた勢力はまだ健在です。 弟子たちは完全アウエーの中にいました。 しかしエルサレムで待てというイエス様の言葉通りに彼らはエルサレムで待っていました。 そんな彼らに聖霊がいよいよ降る日がやってきます。 2 聖霊降臨 "すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。" 使徒の働き 2章2節 ここには「 天から、突然激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。」とあります。 実際に風が吹いたのではなく、風が吹いたような音がしました。 ヨハネの福音書3章8節でイエス様がこんなことを言っています。 「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 御霊、つまり聖霊を描写するときにイエス様は風を使って説明されました。 ヘブライ語で霊を意味する「ルーアッハ」רוּחַは、「霊」の他に「風」(wind)や「息」(breath)と訳すことができます。 ヘブライ語を使う弟子たちの中では、霊、風、吹くという言葉はセットだったのではないでしょうか。 だから風が吹く音を弟子たちが聞いた時、約束の聖霊が降ったのだと分かったと思うのです。 そしてその音は彼らのいた家全体に響き渡りました。 "また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。" 使徒の働き 2章3節 ここには「炎のような舌が分かれて現れて、一人ひとりの上にとどまった。」とあります。 ここでまず注目していただきたいのは炎です。 聖書で炎や火というのは神の臨在を意味します。 モーセに主が現れたのは柴の中の炎の中でした。(出3:2) 創世記15章でアブラムと契約を結ばれたときも、割いた動物の間を通ったのが、燃えているたいまつでした。(創15章) 炎は神の臨在を象徴するものです。 だから弟子たちは神が来られたと分かったのでしょう。 では「舌」はなにを意味するのでしょうか。 旧約聖書の詩篇にはこんな箇所があります。 "私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう。" 詩篇 35篇28節 "正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。" 詩篇 37篇30節 旧約聖書をよく知っているユダヤ人である弟子たちが舌を見て何を思ったでしょうか。 言葉だと思ったはずです。 弟子たちは炎のような舌を見た時、これは神の臨在と神の言葉を意味するものだと分かったのではないでしょうか。 さらにこの舌が分かれていたことから、この言葉が各地に散らばって行くことをイメージすることができます。 神の言葉、神の臨在、それが拡散されていくことを意味するものです。 そのことをさらに証明するように、弟子たちは世界各地の言葉を語り出しました。 その内容は神の大きな御業についてでした。 このようにしてイエス様は聖霊を送られ、それを示されました。 まずは音で教え、目で見せ、さらに外国の言葉を語らせるという体験を通して、聖霊が降られたことと、またその役割までも教えられたということです。 ペンテコステの弟子達の異言はとても不思議で特別な現象でした。 創世記11章のバベルの塔の出来事からの回復を宣言しているようです。 3 バベルの塔の出来事からの回復 "さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」 そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。 主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」 主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。" 創世記 11章1~9節 神への反逆の象徴ともいえるバベルの塔を建てようとした時、主は彼らの言葉を乱され、まったく別の言葉を語るようにしてしまったと聖書には記されています。 彼らはそれによりバラバラに散らされてしまったのです。 このようにお話しすると言葉をバラバラにしたから彼らがバラバラになったように感じますが、実のところ神との関係の断絶こそが問題の本質だったとわたしは思っています。 神との関係が壊れていたので既に人との関係も壊れていたのではないでしょうか。 バベルの塔の建設現場は、この世の法則が支配する場所だったことでしょう。上のものが下のものを支配し虐げる場所です。 だから神が言葉を乱された時、呆気なくこの建設計画は頓挫したのではないでしょうか。 そもそも言葉の違いをものともせずに海を渡ってきた人たちが過去にいたことを私たちは知っています。 そして今現在も福音宣教のために海を越えて来る宣教師たちがいます。 言葉の違いは本質的な問題ではありません。 乱された言葉は当時の彼らが既に抱えていた問題を表面化させたにすぎないのです。 ペンテコステの出来事はこのバベルの塔の時とは正反対の出来事でした。 バラバラだった民が一つとなる時でした。 本当の問題であった神との断絶とそれに伴う人との断絶が修復され回復される時でした。 言葉がバラバラになり世界各地に散らばった人々が、一つの言葉であるイエスキリストにより、またその霊である聖霊により一つとなる時がきたのです。 この時、弟子たちは聖霊にあってイエスさまと一つとなりました。 だから他の弟子たちとも一つとなって声を揃えて主の栄光を語ることができました。 周囲にいた外国人たちは驚きました。 自分たちの言葉を知るはずもない人たちが、自分たちの国語で神の栄光を語っていたからです。 ペテロが立ち上がって大胆に語り始めました。 ここで注目していただきたいのは、ペテロは一人で立ち上がったわけではないということです。 ペテロは11人と共に立ち上がりました。 11人とはペテロと共に選ばれた使徒たちのことです。 聖霊が臨む前は、イエスさまの前で見苦しい争いをした使徒たちでした。 弟子の中で誰が一番偉いかを気にしてばかりでした。 またイエスさまと出会うまで、彼らは全く違う人生を歩んでいました。 漁師、取税人、熱心党員。 本来イエスさまなしには仲間になんてなれない人たちです。 しかし聖霊が臨んでその聖霊によって彼らはキリストの力と心をえたのです。 彼らは同じキリストの心を持ち一つとなりました。 そしてペテロと共に立ち上がったのです。 その内容は非常に素晴らしいものでした。旧約聖書の預言と絡めながら、イエスが救い主であり約束された聖霊が今臨んだのだということを大胆に証ししました。 ペテロはキリストの福音を伝えるものに変えられていました。 また共に立ち上がった使徒たちも同じです。 彼らも聖霊が共におられたのでキリストを共に証しすることができたのです。 私たちも同じです。 聖霊によって信仰が与えられたからこそ、今こうして共にいるのです。 キリストを信じ証しするものとして共に生きているのです。 イエス様なしでどうしてこのようなことがありえるでしょうか。 私たちは今同じ聖霊によって同じ希望を持って生きているのです。。 私たちは今同じ方向を向いて歩いている共同体です。 聖霊が送られたことを記念するペンテコステ。 この意味は外国語を突然話す奇跡がおきたことを記念するものではありません。 私たちに聖霊がのぞみ、イエスキリストを信じる心が与えられたこと。そしてそれによりキリストと一体となったことを記念する日です。 キリストと一体となった私たちは、同じキリストの心をもち、同じ希望を持って、同じ方向を向いて共に歩む者となりました。 ペンテコステは私たちが家族になった日であり、キリスト教会が誕生した日です。