主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇13篇 タイトル: 神さまとのアイコンタクト 今回緊急事態宣言が解除されましたが、以前のように何も気にせず対面で話せるようになるまでには一体どれだけの時間がかかるのでしょうか。先が不透明すぎて全く見えません。 わたしたちは自粛期間中も、またそれがあけた今も、これまで味わったことのない種類のストレスに見舞われています。これが通常時にすでにかかっていたストレスの上にさらにのしかかってきているのが今の状況と言えるでしょう。 苦しい期間が長く続くと「いつまでなのか」という疑問が湧いてきます。 今日の聖書詩篇13篇もそんな言葉で始まります。 しかも最初の1節2節で4回も「いつまでですか」とダビデは言います。 著者のダビデの心のうちでは何度も何度も「いつまでですか」という質問が繰り返されていたようです。 私たちが置かれている現在の状況に関しても、「いつまでだろうか」という疑問が湧いてきます。 またおそらくこれまでも、いつまでこんな苦しい状況が続くのだろうかと思ったことは何度もあったと思います。 そしてこれからも同じようにこの質問は繰り返されていくことでしょう。 この世界で生きるということはそういうことなのかもしれません。 しかし私たちには常に希望があります。 私たちの「いつまでこの苦しみは続くのか」という疑問は、決して自問自答ではないのです。 常にこれを受け止めてくれる方が共におられるのです。 この世界をつくり、今も統べ治めておられる神が、この私たちの疑問を受け止めてくださいます。 あまりにも苦しくて神に祈ることもできないという時ですら聖霊が私たちと共におられるので、父なる神へとその思いを確実に伝えて下さいます。 今日共にみる詩篇の著者であるダビデも苦しみの只中にある時に、全て言葉に変えて祈っていたかはわかりません。 振り返ってみるとわたしはこのように祈っていたようだ。 あるいは心の中で呻いていたが、あれを言葉にするとこういう祈りだったのだろう。 そのように思い返してこの歌を書いたかもしれません。 これらのことを念頭に置きながら共に詩篇13篇を見ていきましょう。 1 絶望から希望へ "主よいつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。" 詩篇 13篇1節 この詩篇の作者であるダビデは何か大変な苦難の中を歩いていたようです。 これがサウル王に命を狙われていた時期をうたったものなのか、あるいは他の時期のものなのかは定かではありませんが、確かに彼はこの時苦難の中にいました。 「主よいつまでですか」と言っていますが、彼は先が全く見えない霧の中を彷徨い歩きながら、この時がいつ終わるのかと主に叫んでいるようです。 「いつまでですか」と言っていることからもわかるように、ダビデのこの苦しみは相当な期間に及んでいたようです。「早く終わってほしい、早く解放されたい。」そんなダビデの心の声も聞こえてきそうな言葉です。 またダビデは今自分が神に忘れられていると語ったり、神が自分を見てくれていないと言います。 これはどちらも神に見捨てられたという思いを表現している言葉です。 わたしたちも様々な苦難に押さえつけられて、神の助けの印を一つも見つけられないような時、神は私を見捨てられたのではないか。私にはあまり関心がないのではないか。そういう思いが忍び込んでくることがあるのではないでしょうか。 ダビデもこの時苦難の中にあって、神が助けてくださっていることを全く実感できない状態でした。 しかしそんな絶望的なスタートをきるこの詩篇13篇ですが、結論部分をみると、「わたしは主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」となっています。 あしらわれるとは、応対されるということです。 この絶望的な言葉から始まる歌が最終的に行き着く先は、神が豊かに応対してくれたという感激の賛美なのです。 これは私たちにとって大変大きな慰めになります。 いつ終わるともしれない霧の中を歩いているように今もし感じておられたとしても、その不安の中で苦しんでいたとしても、神に見捨てられたと思っているとしても、そんな私たちの行き着く先は神への感謝の賛美なのです。 2 誰もわかってくれない? "いつまで私は自分のたましいのうちで思いはからなければならないのでしょう。私の心には一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上に勝ちおごるのでしょう。" 詩篇 13篇2節 思いはかるとありますが、思い悩む(新改訳2017)ということです。 ダビデは思い悩んでいました。自分のたましいのうちで思い悩んでいました。 自分のたましいの内なので他者は誰も知りません。 思い悩み、主よいつまでですかと叫び続けていますが、それも知りません。 全くの孤独の中をダビデは一人歩んでいるのでしょう。 しかもその悩みは途絶えることがありません。 「一日中」続いています。 そしてそのこともまた誰も知らないのです。 みなさんはこれまで生きてきて最も孤独だった時はいつでしょうか。 その時の経験はこの時のダビデの詩を理解させてくれるはずです。 それはとても苦しい経験だったはずです。 ひょっとすると目の前に誰かがいてくれたかもしれません。 慰めようとしてくれている人がいたかもしれません。 しかしそれでも孤独は埋まることがありませんでした。 たましいの内の思い悩みを言葉にしてみたかもしれません。 でもどうしてもこのたましいの思い悩みはわかってもらえませんでした。 こういう時わたしたちはとてつもない孤独を感じます。 周囲に人がいない時も寂しいものですが、いるのにわかってもらえないこともまた辛いものです。 そんな時たましいの内の悲しみをどこにも持って行くことができず、ただそれを持ったままあちこちを彷徨い歩くしかないのです。 するとそんなダビデの姿を見て勝ちおごる敵がやってきます。この敵が何を指しているのか、ダビデの個人的な敵対者であったサウルのことなのかわかりませんが、とにかく苦しみ悶えながら彷徨い歩くダビデ にさらに追い討ちをかけるように、その姿を見て勝ちおごる存在があるということでしょう。 この時ダビデはとても惨めな状況に置かれていました。 3 悲しみ痛む段階から請い求める段階へ "私に目を注ぎ私に答えてください。私の神主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。またわたしの敵が、「おれは彼に勝った。」と言わないように。わたしがよろめいた、と言ってわたしの仇が喜ばないように” 詩篇 13篇3、4節 ダビデは神に見てもらえていないと思っています。神がその御顔を隠されている状態だと感じていました。だから神に見て欲しいのです。私に目を注ぎ答えてくださいと懇願しています。 ここからダビデはただ悲しみ痛む段階から神に請い求める段階へと移ります。 「私の目を輝かせてください」とありますが、旧約聖書において「目」というのは活力の尺度です。 苦しみや病そして苦難は目を暗く(ヨブ17:7、詩6:7、38:10、哀5:17)しますが、健康や力、喜びの回復は目を明るく(サムⅠ14:27、29、申34:7、詩19:8、ゼカリヤ9:8)します。 私の目を輝かせてくださいというのは、私に新しい力を与えてくださいと理解することができる言葉です。 ダビデはここから大きく歩を進めて神に請い求め始めました。 今までは現状を嘆き、その苦しみを吐き出すだけでしたが、このままでは自分は死んでしまうという危機感からか、神に力を求め始めます。 ダビデの周りを取り巻く状況は何も変わっていなかったことでしょう。 神が働かれたことがわかるような目に見える印は何一つないようです。 しかしそれでも神にこの目を輝かせてください、つまりは力をくださいと祈り求めるのです。 4 勝利の告白 ”わたしはあなたの恵みにより頼みました。わたしの心はあなたの救いを喜びます。わたしは主に歌を歌います。主がわたしを豊かにあしらわれたゆえ。” 詩篇 13篇5、6節 4節まではまだダビデが必死に神に向かって祈り求めている様子がうかがえます。ある意味まだ祈りの戦いの中にあるようです。 しかし5節からは雰囲気が一変します。 戦いから抜け出し勝利したダビデの信仰告白の場面です。 日本語聖書には5節の前に何も接続詞がありませんが、原文のヘブライ語には「しかし」を意味する言葉が記されています。 ですからまだダビデの周囲の状況は変わってはいません。 敵が命を狙う状況は同じなのです。 しかしダビデは神の恵みにより頼みました。 3節のダビデの祈り、わたしの目を輝かせてくださいという祈りが神に聞かれたのでしょう。 新しい力を得たダビデは相変わらず苦難の中にいるにもかかわらず、恐れと不安を押しやることに成功しています。 そして神の恵みを確信しているのです。 こうしてダビデはこの詩篇の結論部分である豊かに応対して下さる主に向かって賛美を捧げます。 5 神が見ておられない? ところでみなさん。 神は本当にダビデを見ておられなかったのでしょうか。 決してそんなことはないでしょう。 神は片時もダビデから視線を逸らすことはありませんでした。 しかしダビデは神が見ておられないと思いました。 何故でしょうか。 それはダビデの方が神から視線を逸らしたからではないでしょうか。 では何故彼は視線を逸らしてしまったのでしょうか。 それは彼の周囲の状況があまりに苦しみに満ちていたからです。 人はその置かれている状況があまりにひどいと神から視線を逸らしてしまうこともあるのです。 私たちもあまりに苦しいと、そしてそれが長期間に及ぶと、神がちゃんと見てくれていないように思う時があるのではないでしょうか。 私はそれが悪いとは思いません。 わたしたちはとても弱いのです。 だから時に神から視線を外し、自分や家族、その周囲を取り巻く環境に視線が釘付けになります。 そして釘付けになった目から入ってくる情報に縛られ、ある感情が込み上げてきます。 なんて私ってかわいそうなんだろう。 誰も私を助けてくれない。誰も関心を寄せてはくれない。 神様あなただって今私のこと見てくれていないでしょう。 しかしそれでも神は片時も変わることなく、その視線を向けてくれています。 そしてわたしたちがもう一度神に視線を向ける時を待ってくれています。 今日の詩篇はそんな回復の道筋を示してくれているようです。 確かに絶望的な言葉から始まる詩篇ですが、最終的に希望と喜びに満ちた賛美で終わります。 6 アイコンタクト わたしは父親として意識的に子どもに視線を送るようにしています。 すると1日に何度か目が合います。 このアイコンタクトが安心につながるのだそうです。 「お父さんはわたしを見てくれている」という意識を植えてあげることができるのでしょう。 わたしはこの子どもとの関係性から学べることがあると思いました。 神は常にわたしのことを見てくださっていて、視線を送り続けてださっています。 子どもが父親の私を見るように、私も神様に視線を向けるものでありたいです。 きっとこれから先も、わたしは生きている限り、この「いつまでですか」とい疑問を持ち続けるのかもしれません。 そしてそれは決まって環境があまりに辛く、神から視線が逸れてしまっている時でしょう。 しかしそれでも神は私たちにその視線を注ぎ続けてくださっています。 そして神の方へと向き直る時を待っていてくださいます。 再び神とのアイコンタクトが起きた時、それはまた一つわたしたちが神様への信頼を深める時でしょう。 そうかやっぱり神様はずっと見てくれていたのか。 私があの大変な状況にあって、神様私のこと見てくれてないだろうと思っていた時も、周囲の状況に囚われてしまいどうしようもない絶望感に苛まれていた時も、ずっと見てくれていたのかと知る時です。