主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヘブル人への手紙10章1〜14節 タイトル:福音シリーズ② 十字架とその影 先日39の県で緊急事態宣言が解除されました。 東京や大阪など9都道府県は解除されずに残りましたが、もうすぐ解除されそうです。多くの店舗や施設の休業要請は解除されました。 これから気をつけながらできる限り通常の生活に戻っていくことになります。 こうして刻一刻と私たちの周りの状況は変化していきます。 しかし私たちはその状況を注視しながらも、絶対に変わらないものに心を置いて生きていきたいと思います。 ということで今日も絶対に変わることのない福音についてお話しします。 先々週はコリント人への手紙第一15章から福音を聞くことと、それを受け入れることについてお話ししました。 今日はその内容について旧約聖書をなぞりながらお話ししたいと思います。 1 実体と影 "律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。" ヘブル人への手紙 10章1~4節 ここに登場する律法とは、祭儀律法のことです。祭司がどのように主に捧げ物をするのかが規定されていました。 しかしこれはあくまで影であり実体ではありません。 実体がなければ影は存在しません。 影は実体にくっついてそれを暗示的に映し出すに過ぎません。 このように律法は後にくる素晴らしいものを予期させるだけでそれ自体では人を救うことはできないものです。 どれだけ捧げ物をしてもその人は完全にはなれません。ただ年ごとに罪が思い出されるに過ぎません。雄牛とやぎの血は罪を除くことができないからです。 祭儀が影であるなら、実体はなんでしょうか。 それがイエスキリストです。 "ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」" ヘブル人への手紙 10章5~7節 ここに登場する聖書は旧約聖書のことです。 ここでは律法と言っても良いでしょう。 これが何について記されていたかというと、私についてだとイエスキリストが言うのです。律法はイエスキリストについて教えるものだったということです。 つまり旧約聖書を見てイエスキリストについて書かれたところを見れば、よりイエスキリストのことがわかるということができます。 眼鏡やコンタクトレンズの調整に行くと、変わったメガネをかけて少しずつ度数をあわして自分の目にあったレンズにしてくれます。 その時に使う眼鏡が少し特殊で、色々な度数のレンズを入れたり外したり重ねたりしながら視力検査の印に焦点が合うように調節してくれます。 これと同じように旧約聖書に書かれている数々のキリストの影は全てキリストに焦点を合わせるためのものです。 それらを見ていくと、キリストの十字架のイメージが豊かになりはっきり見えてきます。 そこで旧約に現れる主だった捧げ物について今日は共に見ていきたいと思います。 2 アダム、アベル、アブラハム ⑴ アダム "このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。" 創世記 3章7節 この箇所は神の前に罪を犯してしまったアダムとエバの姿が記されています。 最初彼らはイチジクの葉を綴り合わせて腰の覆いを作りましたが、神が見た時それはとても不十分だったようです。 そこで神は彼らのために皮の衣を作って着せてあげました。 "神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。" 創世記 3章21節 皮の衣はどのようにして作られたのでしょうか。 これは動物を殺し作られたものです。 神はあのエデンの園で、この世始まって以来の被造物を殺すという行動をとられたのです。そしてその皮を使ってアダムとエバに着せてあげたのです。 彼らの罪を動物が死んで血を流すことによって覆ったということです。 この時から罪の解決には身代わりの死が必要であることが示され始めました。 ⑵ アベル "ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。" 創世記 4章3~5節 "信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。" ヘブル人への手紙 11章4節 アベルとカインはそれぞれ捧げ物を用意したのですが、アベルは動物を殺して捧げたのに対し、カインは自分が作った穀物を捧げました。 アベルもカインも同じ罪人です だからこの罪を覆ってくれるものが必要だったのです。 アベルは羊を捧げたのでそれによって罪覆われました。 だから神はアベルとその捧げ物を心に留められたのです。 ここから犠牲によってしか、血を注ぎ出す犠牲によってしか、罪は覆われないことがわかります。 ⑶ アブラハム "ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。" 創世記 22章9~14節 これは神がアブラハムに対して、息子イサクを捧げよと言われた時のことです。 この時のイサクは罪によって死を免れ得ない人間を代表する存在と見ることができます。 本来は死ぬべき存在だったということです。 しかし身代わりとして神が雄羊を準備してくださっていました。 ここから救いのためのささげ物は神が準備してくださることがわかります。 誰であれ自分自身の誠実さや、きよさでもって神に義と認められることはありません。 ただ身代わりの犠牲によってしか義と認められることはないのです。 そしてその犠牲すらも私たちの側で準備はできません。 ただ神が準備してくださる世の罪を取り除く神の子羊であるイエスキリストだけが私たちの罪を覆ってくれるのです。 3 イスラエルのささげ物 ⑴ 過ぎ越し "あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。" 出エジプト記 12章5~13節 イスラエルの人々がエジプトで奴隷生活を強いられていた時のことです。 神はイスラエルの人々の叫びをきき、この奴隷生活からの解放をなそうとされました。 モーセを召し出し彼にみことばを与え、エジプトの王パロに解放を迫ります。 これまで9つもの災いがエジプトに下されましたが、パロは頑として聞きません。 このみことばは10個目の災いです。 エジプト全土の初子の命を奪う災いでした。これまでで最もひどい災いでした。エジプトの未来を奪うものでした。 しかしイスラエルの初子は一人として死にませんでした。 あらかじめ神から与えられた言葉に従い羊やヤギを殺し血を取り家の鴨居と門柱に塗ったからです。 その血を見て神はイスラエルの家を過ぎ越しました。 これによりイスラエルの人々の初子は既に死んだものとみなされたのです。 神がわたしたちの罪を見ないのは、私たちがきれいになったからではありません。 わたしたちは罪人ですが、その罪をイエスキリストの血によって覆われ、神はその血を見て裁かれないのです。 「あなたの中にイエスキリストの血がある。私はそれを見た。だからあなたは罪に定めない。あなたは義人だ。」と言われるのです。 少し高い建物から下を見下ろすと、人がたくさん歩いているのが見えます。 雨がポロポロ降ってきます。 すると下に見える人たちの姿が見えなくなります。 傘をさしたからです。 傘の色や柄しか見えません。 その人の髪型や服は見えなくなります。 ある先生がこんな例えを語ってくださいました。 「わたしたちは真っ赤な傘をもらったのです。イエスキリストの血でできた傘を。傘をさしている人を上から見るとその人が見えないように、私たちがイエスキリストの血でできた傘をさすと神様からはイエスキリストの血しか見えません。神様がわたしたちを義人と認められるのは、イエスキリストの血を見たからなのです。」 ⑵ 贖罪日 "アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。" レビ記 16章21~22節 イスラエルには1年に一度贖罪日が定められていました。 その日、大祭司が罪を犯したイスラエルの民を代表してその罪のゆるしのために至聖所に入ります。そしてこの日大祭司はやぎ二頭を選びます。そのうちの一頭は罪のためのいけにえとして捧げられ、もう一頭は大祭司が両手で按手してイスラエルの罪を全て告白しその罪を転嫁した後、荒野の不毛の地へと送ります。このヤギは帰ってこれず死に至ります。 これは犠牲のささげ物の二つのことを教えてくれます。 一つは民の罪が犠牲のささげ物に完全に移されたてなくなったということ、もう一つはその罪を神はもう思い出されないということです。 4 イエスキリストこそ本当のささげ物 イエスキリストの十字架の死は、突然起こったことではなく、はるか昔よりわたしたちの救いのために神が準備されていたこと(エペソ人への手紙1:4、5)でした。これは旧約聖書に記されたキリストの影であるいくつもの犠牲のささげ物を通して知ることができます。また旧約時代も新約時代も罪は必ず死によってその対価を支払わなくてはいけません。しかし神は私たちがその死から逃れる道を用意してくださいました。旧約時代には動物の死によってそれを象徴する影とし、時が満ちてその本体であるイエスキリストが来られ本当のささげ物となられました。 神はこの救いの道をわたしたちの先祖アダムの時代から少しずつ啓示してこられました。 人類の歴史は神の導きによる救いの歴史です。 そしてこれが福音です。 この世界が始まる前からこの世界の創造主が計画しておられた私たちのための救いの道です。 私たちはどんな時もこの福音によって立つものでありたいと思います。 祝福をお祈りいたします。