主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書19章29、30節 タイトル: 罪と死の解決は成し遂げられた 今日の聖書箇所、ヨハネの福音書19章30節にはイエスキリストが十字架上で語られた7つの言葉の中の6つ目の言葉が記されています。 "イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。" ヨハネの福音書 19章30節 「完了した」 この言葉は死の問題の解決を完了したと見てもよいところですが、そうだとするとイエスキリストはどのようにしてこの死の問題を解決されたのでしょうか。 ローマ人への手紙 6章23節には "罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。"とあるように死の問題の解決は罪の問題を解決することにあります。 イエスキリストはこの罪の問題を解決してわたしたちを永遠に生きるものとされたのです。 1 ヨハネの福音書について ヨハネの福音書は最初にイエスが神であることを明確にしている福音書です。 1章1節から始まる神のことば(ロゴス)これがイエスキリストのことですが、このロゴスが神であると宣言して始まります。 そしてもう一つの特徴はヨハネの福音書は旧約のイメージをふんだんに使っていることです。 何層にも旧約のイメージが重ね合わさっています。 今日はその中のいくつかをご紹介して、「完了した」の意味を探ってみたいと思います。 "ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。" ヨハネの福音書 2章13~22節 この中でユダヤ人たちは神殿の建物そのものの話をしています。 しかしイエスさまはご自身が本当の神殿であることを言い表しています。 神殿とはそもそもなんでしょうか。 これは神の国というものを考える時にはっきりします。 神の国と聞いてまずみなさんは何を思い浮かべられるでしょうか。 神が王であられそこに民がいて王の言葉に100%したがっていること。これが神の国です。 最初に思い出していただきたいのは、最初の人アダムがいたエデンの園です。 そこでは神が王であられ、アダムとエバが民であり、また神が「良かった」と言っておられるように、彼らは100%神に従って生きていました。 これが神の国です。 しかし善悪の知識の木の実の事件によって、アダムとエバは自分たちが王となれる国を作ったのです。これが人間の国です。 神の国と人間の国には大きな断絶ができました。 罪によってできた断絶でした。 このまま人を見捨てることもできたわけですが、神はわたしたちがまだ罪人であった時にわたしたちを愛され救うことをよしとされました。 神はまずアブラハム という人を選び人を救う準備を始められました。 彼の子孫を大きくし大きな国にすることを考えられたのです。 その国からモーセという人を選びました。 そしてこの国を導く道中でモーセに神と対面する方法を教えてくださったのです。 それが幕屋でした。民は移動しなくてはいけなかったので、幕屋という形をとりましたが、後にこれが頑丈な建物にかわって神殿と呼ばれるようになります。 幕屋や神殿の役割というのは、神と人間の中保的役割です。間を取り持つためのものです。 神との交わりが可能となるところなので、人間の国に現れた神の国とも呼べるものでした。 これが旧約で記されている幕屋であり神殿なのです。 先程読んでいただいた聖書にありましたように、イエスさまはご自身こそ神殿だと言っておられます。 つまりご自身が神と人間の間を取り持つ存在だということです。 そしてご自身が神の国そのものだということなのです。 "ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。" ヨハネの福音書 1章14節 ことばは人となってわたしたちの間に住まわれたとありますが、ここはギリシャ語ではわたしたちの間に幕屋をはられたと記されています。 そしてこの真理にこの福音書の著者であるヨハネは気付いて21、22節のように記しているのです。 著者であるヨハネはイエスがこの時言われたことをイエスが死んで復活した後に思い起こしたとあります。 思い起こす働きというのは、14章において聖霊がなさることだとあるので、イエスが死んでよみがり、ヨハネたちに聖霊を与えられた後のことだとわかります。 この時になってヨハネは「あの時イエスさまが言っていた神殿はイエスさま自身のことだったのか。」とわかったのです。 聖書とイエスさまの言葉をつなぎ合わせ思い起こさせてくれたのは聖霊です。 この出来事がわたしたちにも起こるのです。 もし今なるほどそういうことかと思われるならそれも聖霊がしてくださっていることです。 これからお話することも旧約聖書とヨハネ福音書の関係についてですが、このことも聖霊が教えてくださることです。 2「完了した」について ⑴19章30節でイエスさまは「完了した」と言われています。 完了したと翻訳されている言葉は、ギリシャ語ではテテレスタイといって、完了したの他に成し遂げたとも訳せる言葉です。 しかし実はこれでは本来の意味が十分訳せていません。 テテレスタイの原型のテレオは本来、誰かの意志を誰かに伝達することを含み込んだ言葉です。 だからあの十字架の犠牲というのはイエスさまご自身の意志というよりも、父なる神のご意志に従われたものなのだということを暗に示しているということができるのです。 テテレスタイという言葉は、御子の従順が見える言葉なのです。 そして同時に捨てられたイエスがそれでも「父に言われた通りしました」という言葉ともとれるのです。 そしてこれはわたしたち人間の死の問題、罪の問題の解決のためでした。 そもそもイエスキリストの従順はアダムが負うべきものでした。 すなわちわたしたちが負うべきものだったのです。 しかしそれができないことをご存知の神はご自身がすることを良しとされたのです。 わたしたちの身代わりにこの世界で神の律法に従い生きてその絶頂として十字架で裁かれるという罰を受けられたのです。 完全に従いきること、罪の罰を受けること。 この両方を成し遂げられたのです。 イエスさまはそれを知って完了したと言われたのです。 まさにイエスは神殿の役割をわたしたちのためにしてくださった方でした。すなわちわたしたちと神との間を取り持つ働きをされたということです。 ⑵ただしあの建物のイメージだけがイエスさまを表しているのではありません。ここからさらに旧約聖書との関係が見えてきます。 出エジプト記12章には、エジプトへの10個目の災いの前日のことが記されています。 これを準備の日と言います。 この日にイスラエルの民はエジプトで子羊を殺しその血を家の門柱と鴨居に塗りました。 すると次の日、エジプトの全土で神によって初子が死ぬという大変な出来事が起きたのですが、イスラエルの民はその子羊の血によってすぎ越され、これをきっかけにしてエジプトから脱出することに成功しました。 ヨハネの福音書において、イエスが十字架にかけられ殺された日は子羊が殺された準備の日にあたる日でした。 そして今日の聖書箇所の29節にあるように、イエスは十字架上で血を思い起こさせるぶどう酒を飲まれますが、この時用いられたのがヒソプという植物でした。 イスラエルが準備の日に子羊の血を塗るために用いたのも、ヒソプでした。 つまりイエスは神殿であるというのは、神と人との間を取り持つために自分が犠牲になるという意味も含みこんだ言葉だったのです。 こうしてわたしたちの死の問題、罪の問題は解決されました。 すべてはイエスキリストがおっしゃったように「完了した」のです。 わたしたちはそれを受け取りただそのことに感謝して生きる権利を得ました。 みなさんはこの事実をどのように受け止められますか。 とてつもなく長い年月をかけてもたらされた深遠な神の愛の物語の中に今わたしたちは生かされているのです。 世の罪を取り除く神の子羊イエスキリスト。 この方はわたしたちに本当の命をくださいました。 その命に生かされる生活とはどんな生活なのでしょうか。 現在の大変な状況にあってどのように生きることなのでしょうか。