十字架による家族の回復

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書 19章25~30節 タイトル: 十字架による家族の回復 現在は受難節、主の受難をおぼえる時です。 今日はキリストの十字架上の第3の言葉を見ます。 “兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。” ヨハネの福音書 19章25~27節 今日はこの言葉を「家族」の回復という視点で考えてみようと思います。 そもそも家族とはいつからあるものなのでしょうか。 “神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」” 創世記 2章18節 主はこう言ってアダムにエバを与えました。 これがこの世界の最初の家族です。 神を中心とした素晴らしい家族だったはずです。 神が見た時それは本当に良かったと創世記1章31節には記されています。 しかしここに罪が入ります。 神に食べてはいけないと言われた善悪の知識の木の実を食べたことにより、人は神を見て生きるものではなくなり、お互いを見てその欠点をみて、指摘しあうものとなりました。 神を中心としていた家族が壊れた瞬間でした。 アダムとエバのこの失敗は、息子たちにも影響を与えており、生まれた時から息子たちも罪を持っていました。 彼らの名前はカインとアベルといいます。 彼らはある日神に捧げ物をしました。 カインは自分が育てた穀物を、アベルは自分が飼育していた羊の最もよいものを選び捧げました。 すると神はアベルを良しとされました。 カインはアベルに嫉妬し自分の弟であるアベルを殺してしまいました。 これ以降多くの家族が聖書には登場しますが、問題のない家族は一つもありませんでした。 神との関係が切れた家族には命がありません。 良く似た血液を持ち、性格や姿形や仕草も似ていますが、本当の意味での繋がりがないのです。 それが罪の影響下にあるこの世界の家族です。 いうまでもないことですが、それでも家族は大切です。 聖書には父母を敬えとあります。 主にあって両親に従えともあります。 子どもを怒らせてはいけないとも記されています。 “子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。” エペソ人への手紙 6章1~4節 家族は尊いものだと聖書も認めているのです。 しかしとても不安定なものなのです。 その関係にはヒビが入っているのです。 お互いを愛し合い助け合い支え合うべきはずの家族です。そのように神はアダムにエバを与えたのです。 しかし罪が入り、神との関係が切れた家族は逆に足を引っ張り合い押さえつけあう関係になってしまいました。本当はそんな関係になりたくないのに気づいたら間違いを犯している自分がいる。そんな状態になってしまったのです。 今現在、どれほど多くの家庭が問題を抱えているでしょうか。 虐待は2018年度相談件数16万件、DVは2019年度9042件確認されています。 たとえ虐待やDVがなくても、夫婦の葛藤や親子の葛藤は、どんな家庭にもあるのではないでしょうか。 しかし聖書に照らし合わせるとこれは全く自然なことです。 最も重要なパーツが抜けているのだから当然です。 神との関係を失った人は、神との関係が切れた家族は、最も大切なつながりを失ったのです。 それは基礎工事のあまい家と同じでとても不安定なものです。 イエスの目的は家族を新しく作り変えることでした。 わたしたち人と神との関係を回復し作り変えることを通して、人と人との繋がりを回復し、家族を回復させることがイエスがしようとしたことです。 そしてその家族は血のつながりを超えていくものです。…