主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き16章1~5節 タイトル:教会が信仰を強められるには 「あなたは信仰が強いですか?」ともしたずねられたら、どのように答えますか。ほとんどの方は「いえ、自分はまだまだです。」と答えるのではないでしょうか。 わたしは個人的に信仰が強いとか弱いという言い方は好きではありません。信仰が強いとか弱いというのは、相手をある時点で判断しないと出てくる言葉ではないからです。信仰というのはある時点をもって判断すべきものではないと思います。 信仰は必ず揺るがされることがあり、そのことを通して強められていくものです。信仰が強められるとは、さらに神を知っていくこと、御言葉を体験として知っていくことを意味しています。 揺さぶられ揺るがされながら強くなっていくものです。 今日の聖書の5節には「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」とありました。 信仰は強められるものです。 ただしこの聖書箇所は「諸教会」の信仰が強められたと記されています。 教会が信仰を強められるとはどういうことなのでしょうか。 どのようにしてこれらの教会は信仰を強められていったのでしょうか。 まず15章40節から16章2節を見ます。 ”パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。 そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。 それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、 ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。” 前回パウロとバルナバが仲違いをして宣教チームが二つに分かれてしまいました。 以前はパウロはバルナバと共に、キプロス島から宣教活動をはじめましたが、今回はキプロス島にバルナバとマルコが向かいました。 パウロはというとシリアを通ってキリキヤ地方を通過しデルベに、そしてルステラへとやってきました。ここには大変険しい山脈を越えてこなくてはいけません。 しかしパウロはまたやってきました。 しかもルステラです。 ルステラと聞いて何か思い出されますか。 この町でパウロは大変な目にあいました。 "ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。" 使徒の働き 14章8~13節 パウロとバルナバは急いでこれをやめさせました。そして彼らの信仰を否定しました。 そこに他の町からユダヤ人たちがやってきて町の人々をたきつけてパウロを石打ちにして殺そうとしたのです。 "ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。" 使徒の働き 14章19節 死んだものと思ったということは、それだけパウロがひどい状態だったということです。 パウロにとってルステラは大変な場所でした。 しかしそれでもまた彼はこの町にやってきたのです。 どうしてそんなひどい仕打ちを受けた場所に戻ってきたのでしょうか。 それはこの町にもキリストの弟子がいるからです。 勧め励ましたいと思う人々がいるからです。 パウロの献身がよく見えるところです。 諸教会の信仰が強められた大きな要因の一つがこの献身です。 つづいて二つ目です。 これはこのルステラで出会った人々と関係しています。 前回の伝道旅行の時に、イエスキリストを受け入れた人の中にテモテの母親がいたようです。そこからパウロはテモテともつながり彼も信仰を得るに至ったのでしょう。父親がギリシャ人であったことが記されていますが、ギリシャ語聖書では過去完了形で書かれているのでこの時はもうすでに死んでいたと考えられます。テモテの母親はやもめとなってたいへん苦労しながら生きていたのではないでしょうか。そんな歩みの中でイエスキリストのことを知ります。そして信仰を与えられました。他の聖書の箇所を見るとテモテの母親のことやテモテの信仰のことがよくわかります "私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。" テモテへの手紙 第二 1章5節 この手紙で母親の名前やおばあさんの名前がわかります。 そして神への純粋な信仰が、まずおばあさんと母親に与えられ、それがテモテのうちにも宿っているのだとパウロは言うのです。 信仰が強められるためには、このように家庭での信仰継承が大切なのだということを思わされます。 テモテの信仰はおばあさんと母親の信仰だったのです。 それがテモテのうちに宿っているとパウロは確信しているのです。 パウロの信仰が宿っているとはいわないのです。 いつも共に生活しているであろう家族の信仰なのです。 諸教会の信仰が強められるために働いたテモテですが、彼の信仰の基礎はパウロではなく、おばあさんと母親のものでした。 ここから信仰の家庭教育がどれほど大切なのかを思い知らされます。 私も娘たちの信仰教育をもっとしっかりすべきなのだろうと思っています。その時にやはり心に留めたいのは親の信仰がそのまま影響するということです。 どれだけ素晴らしい信仰を持って欲しいと思っても親以上の信仰を親は教えられないのです。まず親が神様を深く知らないと子どもには教えられません。 子どもは親のことをよく見ています。 一挙手一投足をくまなく見ています。 言葉も聞いています。 そういう普段の言葉や行動に、その人の信仰があらわれます。 語っている自分の耳が痛いのですが、聖書にはこのように記されているのです。 家庭での信仰継承、これが教会の信仰を強める大きな原動力になります。これが教会の信仰が強められる要因の二つ目です。 ではつづいて三つ目です。 ”パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。” (使徒の働き16章3節) 以前エルサレムの会議で割礼を受ける必要はないと決定しました。 パウロは割礼を受けさせることに反対していた人です。 しかしここではテモテに割礼を受けさせたと記されています。 これは一体どういうことなのでしょうか。 この理解のヒントになるのがコリント人への手紙Ⅰ 9章19~22節です。 "私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。 律法を持たない人々に対しては、--私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが--律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。" コリント人への手紙 第一 9章19~22節 パウロはここで考えを変えたのではなく、より多くの人を獲得するためにテモテに割礼を受けるようにいったのです。 テモテがユダヤ人たちにも抵抗なく受け入れられるようにという配慮の行動でした。 福音を誰かに語るには相手のようにならなければいけません。 相手が大切にしていることを否定する形では福音は語れません。 ユダヤ人たちは割礼を大切にしていました。救いには関係はありませんが、それでも伝道の障害となるものは取り去っておきたかったのです。だからパウロはテモテにも割礼を受けさせたのです。 相手の立場になって相手の心を理解することは教会の信仰が強められていくには不可欠です。 教会の信仰は神様との縦のつながりだけを意味するものではありません。共同体としての横のつながりも強められていくときに初めて教会の信仰が強くなったと言えるのです。 そこで相手への配慮にかけたり相手の立場やその心に寄り添えないとつながれなくなってしまいます。 荒野教会は一人一人が配慮の人であって欲しいと思います。 人は自分が理解できない存在に簡単に冷酷になります。 しかし理解できない人のことも知ろうとしたいです。 そのために一番よい方法はその人のために祈ることです。 わたしは名簿をみて祈るようにしています。 今どこで何をされているかを想像しながら、その中でも信仰が守られるようにいのります。 祈っているとその人への関心が保たれます。 そうでないとしばらく会ってなかったりすると忘れてしまうのです。 さらに高校生やその下の子たちのためには祈るだけでなく、世代間ギャップを埋めるために普段彼らが使っている言葉や、興味を持っている漫画、それから音楽に至るまでアンテナを張っています。 そして理解できない言葉があったら、「それどういう意味?」と聞くようにしています。 彼らに届く言葉というのは、彼らが普段使っている言葉だからです。大人の言葉でそのまま語っても、それは言葉を投げつけるようなものです。相手が取れるように、できるだけ取りやすいようにするには、相手が使っている言葉を語る必要があるのです。 これも一つの配慮だと思います。 今日は教会の信仰が強められるために必要なこととして三つお話しました。 一つ目は、献身です。 パウロが命がけで福音を伝えたように、教会の信仰のためには献身が必要です。 二つ目は、家庭での信仰継承です。 教会だけではなく、家庭での信仰教育も本当に大切です。これにより教会は変わります。 そして三つ目が配慮です。 押し付けるような福音伝道ではなく、相手が受け取ることができる言葉をつかって伝え導くことで教会の絆はさらに強められ、信仰が強められていきます。 献身も、家庭の信仰教育も、配慮もすべて横のつながりです。 そしてすべて神との縦のつながりあってのものです。 このように教会は神様と深くつながり、お互い献身しあい、配慮し合い、それぞれの家庭でも教えることによって、信仰が強められていくのです。 信仰は揺さぶられ揺るがされることがあります。 しかしそのことを通し、わたしたちのつながりは鍛え上げられさらに神を知るものへと変えられていくのです。 このようにして教会の信仰は強くなっていきます。 祝福を祈ります。