主は私の羊飼い

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇23篇1~4節 タイトル:主は私の羊飼い  今日は詩篇23篇を共に見ます。  詩篇23篇といえば、羊飼いの詩篇だとわかる人も多い非常に有名な詩篇です。 これをもとにした賛美もあります。 クリスチャンにとって非常に馴染み深い詩篇です。 今日はこの詩篇23篇を見ていきます。 “主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。” 詩篇 23篇1節 まず1節において、この詩篇の記者であるダビデはいいます。 「主はわたしの羊飼い」 いわゆる隠喩法というものを使って主とはどういう方なのかを表現している箇所です。 隠喩とは「~のようだ」という言葉を使わずに、別のものに置き換えて表現する方法です。 主がわたしの羊飼い「のようだ」ではなく、主はわたしの羊飼い「だ」ということです。 ダビデはこの詩の最初で強いインパクトを与えています。 ただこの呼び方はダビデが最初にしたわけではありません。 “彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。” 創世記 48章15節 このように創世記で既にヤコブが語っています。 これ以降イスラエルの民にとって主は「私たちの」羊飼いでした。 イスラエルの共同体にとっての羊飼いということです。 しかし今日の詩篇23篇においては、主は「私の」羊飼いとダビデはいいます。 これまでは共同体の公的な羊飼いでしたが、ダビデは個人的な関係を強調する書き方をして主との親密さを表現しているようです。 ダビデはもともと羊飼いでした。 羊飼いが羊のことをどれほど心にかけ守り導くのかを彼は体験としてよく知っていました。 羊飼いと羊がどれほど親密な関係なのかもわかっていたのです。 自分が以前羊飼いだったころに、羊を守り導いたように、主はわたしを守り導いてくださっているという告白なのです。 羊飼いは多くの羊を飼いますが、1匹1匹の顔と性格を把握しているのでしょう。 そんな羊飼いはそれぞれの羊たちにとってわたしたちの羊飼いであると同時にわたしの羊飼いなのです。 羊飼いと1匹1匹の羊が親密なように、神と自分も親密なのだとダビデは言いたいのだと思います。 また、自分が羊だという告白は、自分が羊のように守り導かれないといけない弱い存在だということの告白でもありました。 神なしで自分は生きてはいけない存在だということです。 ここには自分の弱さ足りなさへの気づきが土台にあります。 自分自身の中に何かまだ可能性を探していると、自分が羊などとはとても言えません。 しかしダビデはそれに気づかされてこのような詩篇を書くに至りました。 このような信仰を持つ人は幸いです。 つづいて1節の後半部分を見ます。 ここでは「わたしは乏しいことがありません。」と語ります。 自分が羊であるという告白は、同時に自分が乏しい存在だという告白でもあります。 ではなぜダビデは乏しいことがないと言えたのでしょうか。 それは主がわたしの羊飼いだからです。 自分は乏しい者かもしれません。 しかし主が共におられるから乏しくないという信仰告白なのです。 “事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」” 申命記 2章7節 申命記では荒野の40年間を、主が全て満たしてくださり、何も足りないものはなかったといいます。 彼らが何一つかけたものはなかったと言えたのは、主が40年間ともにおられたことによります。 乏しいことがないというのは、わたしたちが欲しいものを全部くれるという意味ではありません。 わたしたちの願い通りになるという意味ではありません。 時に「どうして」と思うようなことや、なんと情けなく弱く乏しい存在なのかといたたまれなくなることすらあるかもしれません。 しかしその乏しさすらも主が共におられることで、満たされていくのです。 乏しいことがないとは、主が共におられることなのです。 主が共におられること以上の満足はありません。 その満たしはこの世のどんなものも与えることのできないものです。…