主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き13章4節 タイトル:聖霊に遣わされて 聖霊に導かれる。聖霊に遣わされる。聖霊に送り出される。 この言葉にどんなイメージをお持ちでしょうか。 聖書を読んでいてこの言葉が出てきたら、どんな様子を想像しますか。 神の声が直接聞こえて、「あなたはこれからどこどこに行きなさい。」と言われたから行くことでしょうか。 それとも何か違うイメージを持っておられますか。 もし直接神の声が聞こえることだけが聖霊の導きだとするなら、聞こえない人は聖霊の導きに生きることができないということになります。 では一体これらの言葉はどういう意味なのでしょうか。 <本論> 今日の箇所からパウロの伝道旅行の第一回目が始まります。 1節でアンテオケ教会の5人の中心人物が紹介されましたが、彼らの名前の順番を見てみますとバルナバが最初に登場し、サウロが最後になっています。 そして7節を見ますと、ここもバルナバが先に記されサウロはあとに記されています。 ここから最初の伝道旅行の序盤はサウロではなくバルナバが先導する形で進められていったことがわかります。 バルナバはこのキプロス島出身のユダヤ人でした。 彼にとっては生まれ故郷です。 そこにまずこの福音を伝えに行こうと、サウロやヨハネ(マルコ)と共にやってきたわけです。 バルナバにとって故郷のキプロスはどんな場所だったのでしょうか。 どんな人にとっても故郷は楽しいだけの場所、懐かしいだけの場所ではないと思うのですがどうですか。 みなさんにとっての故郷はどんな場所ですか。 両親や兄弟達と過ごし、また友人たちと共に成長した場所でしょうか。 それともそんな平凡な暮らしすらできなかった辛い場所でしょうか。 みなさんそれぞれに色々なことがあったはずです。 ご自身の生い立ちと重ねて考えてみてください。 みなさんにとって故郷とはどんな場所ですか。 質問を変えてみましょう。 故郷に大切な人はいますか。 バルナバにもきっといたはずです。 しかし一方で辛い経験もそこではあったのではないでしょうか。 彼の本名はバルナバではありませんでした。 彼はヨセフという名です。 しかしバルナバ(慰めの子)と呼ばれていました。 彼が人を慰めることができる人だったからでしょう。 では何故それができたのでしょうか。 コリントの手紙 第二 1章4節をみるとわかります。 "神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。" なぜ人を慰められるのか。 それは慰めを受けたことがあるからです。 バルナバは慰められたことがあるから慰めることができる人になりました。 とするとバルナバは何か慰められなくてはいけないことがあったということになります。 どんなことがあったのでしょうか。 バルナバはキプロス島という外国で生まれ育った人でした。 一体どんな暮らしだったのでしょうか。 彼はユダヤ人です。 周囲にはユダヤ人もいたでしょうが、ギリシャ人やローマ人もいたはずです。 そういう中で生きていくのは容易ではなかったはずです。 彼にとっての故郷とは大切な人たちがいる大切な場所であると同時に、辛く苦しい思い出も眠っている場所だったのではないかと思うのです。 バルナバにとってそういう場所にこれから向かうわけです。 彼の心境はどんなものだったのでしょうか。 行ってこの福音を伝えたいという思いと、避けて通りたいという思いが共存していたかもしれません。 しかしそれでもバルナバは行きました。 なぜなら聖霊に遣わされたからです。 "ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。" 使徒の働き 13章4節 ただしここで注意したいのが、聖霊に遣わされたからといって必ずしもバルナバたちが「キプロス島へ行くように。」という聖霊の声を聞いたという意味ではありません。 4節で「遣わされて」と訳されている言葉はエクペンポウという言葉で送り出すという意味です。 声をかけて手取り足取り導いてくれたというよりも、「行ってこい」と言って背中を押されるようなイメージをわたしはこの言葉に持っています。 つまりバルナバやサウロはこの時直接声を聞いたというよりも、彼らの意志に聖霊が働きかけて、すでに彼らの内にある思いに働きかけて、キプロスへと押し出していかれたのではないかと思うのです。 聖霊に導かれる、送り出される、遣わされる。 色々な言い方があると思いますが、いずれもその声をはっきり聞くという意味とイコールではありません。 今日の聖書においては、バルナバとキプロスの人々とのつながりを神は用いられたのではないでしょうか。 彼の故郷の人々を思う心に聖霊が働きかけてキプロスへと導かれたということです。 バルナバはこの後、15章でパウロと仲違いして別れて行動するようになりますが、そこでまずバルナバが向かったのもキプロスでした。 彼にとってキプロスはやはり特別だったと思います。 そしてその特別な気持ちに働きかけて福音を伝えるように導かれたのが聖霊ではないかと思うのです。 聖霊は全く知らないところに行けと言われることもありますが、一方でわたしたちがすでに知っている人たちがいるところ、知っている場所、故郷へと遣わされることもある方だということがここからわかってきます。 こういう話をする理由は、使徒の働きのお話を遠い国の遠い昔話のように捉えていただきたくないからです。 聖霊に遣わされてバルナバとサウロがキプロスへと渡った。 これだけ聞くと何か遠いお話のように聞こえませんか。 バルナバやサウロだからできた話でしょうと思って終わってしまいそうになりませんか。 しかし聖霊に遣わされるというのは必ずしも声をはっきり聞いて行動することではなく現代のわたしたちの周りでも日々起こっていることだという認識を持って欲しいのです。 そしてもう一つ。 神さまは人と人とを繋げていかれ、その繋がりを用いてさらに広い範囲へと福音を伝えていこうとされることも今日は心に留めていただきたいことです。 マタイの福音書4章19節には次のような御言葉が記されています。 "イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」" この箇所はペテロたちがイエス様から召命を受ける話ですが、今回は漁師という言葉に注目して話そうと思っています。 彼らガリラヤの漁師はカツオを竿で釣るように漁をしていたのではなく、網を使って漁をしていました。 イエス様が人間を取る漁師にしてあげようといった時、ペテロに浮かんだ漁のイメージは網をなげてとるものだったはずです。 そういうところもイエス様は視野にいれながらこの例えでペテロを呼ばれたのではないかと思うのです。 ペテロはよく知っていました。 漁は一人ではできないと。 共に結い共に投げ共に引き上げないと魚は取れないと知っていました。 だからもうこの時すでにイエス様は自分一人で何かをしようとするのではなく、神との関係はもちろんだが共に兄弟達と生きよと言っておられたのではないかと思うのです。 そうしてこそ漁はうまくいく。 つまり伝道は宣教はうまくいくのだと考えておられたのではないかと思うのです。 聖霊が臨まれるまでそれがわからなかった弟子達でしたが、聖霊が臨まれると彼らは変わり共に立ちあがり宣教が始まりました。 それが使徒の働き2章の出来事だったのです。 その後12使徒だけではなく、他にも共に網を持つ人たちが増え、さらにサマリヤ人やギリシャ人そしてローマ人にまでこの網を持つ人々が増えていったのです。 そして今日のこの箇所ではバルナバとサウロがキプロス島へと向かいさらに網が広げられ、その網を持つ人も増えていくというお話です。 バルナバの故郷を思う心に働きかけて聖霊は彼らを導きます。 そしてこの後、彼の故郷は大きく変わることになります。 イエスキリストがペテロを召したときに広げた網はいよいよキプロス島にまで到達したのです。 <結び> 聖霊に導かれる。聖霊に遣わされる。聖霊に送り出される。 この言葉にどんなイメージをお持ちでしょうか。 これはとても身近なことです。 日々わたしたちの生活の中で起こっていることです。 どうかこのことだけでも心に留めていただけたらと思います。 祝福を祈ります。