人に話すよりも神様に

聖書箇所:詩篇6篇 タイトル:人に話すよりも神様に クリスチャンは信仰を持ち神様と共に生きている人たちですが、それでも時に愚痴を言いたくなることもあります。 職場、学校、家庭、何処にいても悩みは尽きず、その中で私たちは苦しみ悩みます。 そしてその思いを、時に周囲の人々に愚痴という形でもらしてしまうのです。 しかしみなさん、もし人に愚痴をいうよりも、まず神様に聞いてもらう事を優先したら人生が変わると思いませんか。 今日の詩篇に登場するダビデは人よりもまず神さまに聞いてもらう事を優先した人でした。 今日は彼の祈りから共に教えられていきたいと思います。 [1節] “主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私を懲らしめないでください。” 詩篇6篇の著者であるダビデには、この時神に責められても仕方がないと思うような何かがあったのかもしれません。 自分のその何かに対して神さまからの怒りが今注がれているのだと思っているようです。 誰しも神の心に100パーセント合った人生を送れるわけではありません。 どんな人も失敗することはあります。 素晴らしい信仰者であったダビデも神に責められるような部分があったのでしょう。 それで今神に懲らしめられているのだと彼は思ってこの詩を書いているわけです。 神は間違った道に行く人をたしかに懲らしめられます。 しかし大事なのはそれで終わりではないということです。 懲らしめを通し、もう一度正しい道に戻し、回復を与え、倒れる前よりもさらに良い人生を与えられるのが神さまです。 イスラエルの民が神を捨てた時も、神は彼らを懲らしめバビロン帝国に滅ぼさせました。 しかし神はバビロンに連れていかれたイスラエルをそこでも守り導き、ついにはエルサレムに戻し国は復興しました。 神さまは懲らしめて終わりではありません。 神さまの目的はその出来事を通してわたしたちがもう一度神さまの大切さを思い出し、より深く神さまを知ることなのです。 [2〜3節] “主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。 私のたましいはただ、恐れおののいています。主よ。いつまでですか。あなたは。” ダビデはおそらくこの時何か病を患っていたのではないでしょうか。 どんな病かはわかりませんが、いやしてくださいとお祈りしています。 いやされないといけない状態にダビデはあったのしょう。 では「骨が恐れおののく」とは一体どんな状態でしょうか。 骨自体は恐れを感じることができませんが、ダビデは自分の体全体をささえる骨が恐れているということによって、全身が恐れに包まれている様子を表現したかったのではないでしょうか。 さらに体だけではなく、「魂」も恐れていると3節には記されています。 ここからダビデは心も体も恐怖に包まれていたことがわかります。 また、3節の最後は、「主よ。いつまでですか。あなたは。」となっています。 この箇所は祈りが途中で途切れているような書き方がされています。 宗教改革者のジャンカルヴァンはこの箇所について次のように言っています。 「この祈りが不完全で途中で終わっていること自体が、彼の心だけでなく、喉をもおさえつけている悲哀の激しさをよりよくあらわしている。悲しみが祈りの中途で言葉をつまらせ、消え果てさせてしまうのである。」 つまりダビデはあえてこのような書き方で、辛い中で祈った時のことを表現しようとしているということでしょう。 みなさんは、祈っている途中に言葉がつまる経験をされたことはないでしょうか。 今目の前にある問題が自分にとってあまりに大きいので、祈っても途中で言葉が途切れてしまう経験です。 ダビデもそういう状況にあったのかもしれません。 それを正直にわたしたちにも教えてくれているのです。 いつも深く長く祈ることができるわけではありません。 祈らなければいけないとわかっていてもそれがうまくいかないこともあるのです。 ダビデの祈りはそんな人間の弱さも教えてくれているようです。 そして祈りの内容を見てみると、「いつまでですか。」となっています。 みなさんは「いつまでですか。」と祈られたことがありますか。 あるいは「いつまでこんな生活続けるんだろう」と思ったことはないですか。 「いつまでですか」という言葉は、本当に今の生活が苦しくてどうしようもなくて逃げ出したいけど逃げられない。 そういう中で出てくる言葉ではないでしょうか。 ダビデもここで「いつまでですか」と言って、「自分はすでに限界まで我慢した。もうたくさんだ。」という思いを表現しているのではないでしょうか。 [4〜7節] “帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。 死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。 私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。…

罪を覆い隠す罪

聖書箇所:コリント人への手紙 第一 4章6〜14節 タイトル:罪を覆い隠す罪 今日のタイトルは、罪をおおいかくす罪としました。 みなさんは、今どんなことに悩んでいらっしゃいますか。 その悩みが今のみなさんにとって重要であり深刻なことだということは間違いないでしょう。 ただ、今日の聖書の内容を通して見たとき、果たしてその問題はみなさんの本当の問題なのでしょうか。 この時間共に考えて見たいと思います。 “さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。” コリント人への手紙 第一 4章6節 この箇所には「高慢」という言葉が出てきますが、この高慢の内容とは一体何でしょうか。 ここには「一方にくみし、他方に反対して高慢に」とあります。 当時コリントの教会では派閥が存在しました(1:12)。 わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつく、わたしはペテロにつくという具合に、どのリーダーが良いかということで分裂していたのです。 その状態をここでは「一方にくみし、他方に反対して高慢に」と言っているのです。 この教会の罪としてまず見えてくるのが、一人の人をあがめ偶像化し、派閥を作って分裂させるということです。 つまり指導者の偶像化による分裂の罪です。 しかし聖書はこれを高慢の罪だというのです。 どうしてこれが高慢なのでしょうか。 それは結局のところ誰が良くて誰が良くないという判断をするのが自分自身であり、その自分の判断を信じているからです。 以前韓国の牧師がこんなことをメッセージで言っていました。 ゲストで他の教会の牧師が来た次の週のメッセージだったと思います。 「他の教会のA牧師にメッセージをお願いしたときの話を聞きました。恵みを受けたと聞いています。しかし一部の人からは残念な声が聞こえました。うちの牧師先生の方が説教がうまい。なんであんな先生に頼んだんだという声でした。わたしはこの方達の高慢さをとても残念に思います。」 問題を指摘された信徒たちは、自分の教会の牧師を本当に尊敬していたのだと思います。 しかしその尊敬が他の教会の牧師を裁く原動力になっていました。 この人たちもイエス様を信じているはずです。 しかしその信じるというものの中に自分の判断を信じる思いが含まれているのです。 この例は特定のリーダーのことが好きで他のリーダーを裁いてしまうものです。 しかし一方でこんな場合もあります。 以前ある先輩牧師がわたしにこんな体験を話してくれました。 その先生は人口が少ない田舎で牧会をされているのですが、たまに旅行者が主日礼拝を守るためにやってくるそうです。その中で先生の説教をべた褒めして帰る人がいました。 「先生の説教は素晴らしい。本当に恵みを受けました。心が震えました。」 ただ、その後続いた言葉が、「うちの先生と大違いです。」だったのです。 この場合はある特定のリーダーが嫌で他のリーダーに心が向いている状態です。 コリント教会の人がパウロ派になった理由、それはパウロが好きだったからとは限りません。 ペテロやアポロがあまり好きではなかったのかもしれません。 ペテロ派になった理由、それはペテロが好きだったからとは限りません。 パウロやアポロが苦手だったのかもしれません。 アポロ派になった理由、それはアポロが好きだったからとは限りません。 パウロやペテロが嫌だったのかもしれません。 どうしてこのような話をするのかというと、コリントの信者たちは結局のところ指導者の品定めをして、自分の思いを優先させていたということが言いたかったからです。 それを聖書は高慢だと言うのです。 指導者をコリントに送ったのは一体誰でしょうか。 パウロが来たのは彼の気まぐれでしょうか。 アポロが来たのは偶然でしょうか。 神様がその人たちを送ったのではないですか。 その時々に応じて最も良い指導者を神様が送られ、そこに立てられたのです。 そこに信頼していくことが信仰に生きるということではないでしょうか。 “いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。” コリント人への手紙 第一 4章7節 私たちが持っているものは全て神様からの賜物です。 肉体も家族も仕事も才能も教会も牧師も、牧師にとっては信徒も全て賜物です。神様が全て下さったのです。だから神様だけを誇れば良いのです。…

聖霊のおはたらき

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:コリント人への手紙 第一 12章3節タイトル:聖霊のおはたらき キリスト教には三つの大きなお祭りがあります。 一つ目はクリスマスで、イエス様がこの地に来られたことを記念する祭りです。 二つ目はイースター、イエス様が復活されたことを記念する祭りです。 そして三つ目がペンテコステです。 これは復活されたイエス様が天に昇られたのち、この世界に聖霊が送られたことを記念するお祭りです。 日本ではなかなかクリスチャンの人口が増えませんが、そんな中でもクリスマスはとても大きな存在感を持っています。 もちろんその本当の意味を皆さんがご存知というわけではありませんが、クリスマスを特別な日とする慣習、文化がこの日本でもしっかり根付いています。 ここ数年ではそれに続いてイースターも知られるようになりました。 最近はまた下火になっているように感じますが、それでも以前よりはイースターの認知度は上がったと思います。 これでキリスト教の三大祭りのうちの二つが認知されたことになるわけです。 この波にのってペンテコステもといきたいところだったのですが、キリスト教とは全く関係ないハロウィンの方に流れてしまい残念な状況になっています。 しかしながらこのペンテコステ、本当はとても大切なものです。 なぜならペンテコステの日、私たちに送られた聖霊は、私たちを完全に変えてくれたからです。 聖霊によって私たちはイエス様を救い主と告白できるようになりました。 私たちは聖霊なしにイエス様を信じることはできません。 たとえ自分でイエス様を信じていくと決断したと思っていたとしても、その決断の力をくれたのは聖霊です。 新約聖書のコリント人への手紙 第一 12章3節には“‥聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。”と記されています。 わたしたちは本来聖書を読んでもそれが真実だとは思えない者です。 しかし聖霊がその人のうちに住まわれ、その人の心にイエスを救い主と信じる信仰を与えてくださる時、聖書の御言葉がせまってきます。聖書の御言葉が自分と関係がある言葉だとわかります。聖書に登場する人たちの経験が自分の経験として受けとめられるのです。 ペテロとイエス様の出会いが私とイエス様の出会いであることがわかります。 パウロとイエス様との出会いが私とイエス様との出会いであることがわかるのです。 わたしたちは誰一人として自分の力でイエスを救い主として信じ受け入れたわけではありません。 ただ神様がお送りになった聖霊によって私たちはイエスを救い主と信じ受け入れました。 神様の憐れみによって、恵みによって、私たちは今の私たちになったのです。 ではここから聖霊のお働きを三つに分けて考えて見ます。 聖霊のお働き 一つ目は、 自分が罪人だと自覚させてくれることです。 新約聖書の使徒の働き2章37節には 「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」とあります。 聖霊の力で語り始めたペテロの言葉を聞いて聖霊を受けた人々は心を刺されました。 これは自分たちの罪がわかったということです。 聖霊を受けると自分が罪人だということがわかります。 人類は神に背き堕落しました。その結果、罪人となりました。これを聖霊が自覚させてくださるのです。聖霊が働いてくださらなければ人は自分が一体どんな状態にあるのかがわかりません。自分自身がどれほど悲惨な状態にあるのかを自覚することができないのです。 だから自分には救いなど必要ないと思ってしまいます。自分の罪がわからなければ、そのゆるしの必要性も認識できないのは当然です。 聖霊によって本当に自分の罪が示された人は、ペテロの言葉を聞いて聖霊を受けた人々のようになります。心を刺されて救いを求めるようになるのです。 聖霊は、わたしたちが自分が罪人だとわからせてくれるのです。 続いて聖霊の働きの2つ目です。 それはイエスキリストを理解することができるようになることです。 これは1つ目の罪の自覚と密接につながっているところです。 聖霊は私たちに、自分自身の状態を自覚させられた後、イエスキリストのことがわかるようにしてくださいます。 聖霊が教えてくださらなければ、聖書をどれだけ学んでも理解できません。 聖霊はまずわたしたちの中の罪をさとらせてくださいます。 そしてわたしたちが自らの力では決して救われない存在であることをわかるようにしてくださるのです。 そしてそんな自分を罪から救ってくださる方がいらっしゃることを教えてくださいます。 2000年前に流されたイエス様の血潮の意味を聖霊が理解させてくださり、キリストが「私の」救い主であり、「私を」深く愛し、「私を」守り救って下さる方だという真の知識に至らせてくださいます。 この「私の」というところに大きな意味があるのです。 たとえこの世の知識を全て得て、聖書の意味するところが知識としてわかったとしても、聖霊によらなければその知識が私のものとはなりません。 他人事なのです。 私の救い主だ。これは私のためのお話だと知るには、聖霊の力が必要なのです。 最後に三つ目です。 聖霊の働きの三つ目は、イエス様に従っていきたいという意志を与えてくれることです。 エゼキエル書36章26、27節には…

悩みの中でこそ祈る信仰

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇3篇 タイトル:悩みの中でこそ祈る信仰 今日、主があたえてくださったみことばは詩篇の第3篇です。 3という数字が書いてあるすぐ下に、この詩篇の作者とその人が置かれている状況が書かれてあるのですが、そこには「ダビデがその子アブシャロムから逃れた時の賛歌」とあります。 イスラエルでダビデが王様だった時、その息子アブシャロムがクーデターを起こしました。 アブシャロムとは、アバとシャロームという2つの言葉から出来ている名前です。アバとは父親、シャロームとは平和という意味です。つまり平和の父という意味があるということです。この名前をつけた父ダビデの思いは、平和の父という名前にふさわしく、平和を作り出すような人になってほしいというものであったことでしょう。 しかしそんな父の期待をよそにアブシャロムは父親が統治する国でクーデターを起こしました。しかもそのクーデターを起こす引き金を引いたのはダビデ自身の失敗でした。 このことについてはまたの機会にお話しようとおもいますが、とにかくダビデはその王国から逃げ出さなくてはいけないほど息子に追い詰められていたのです。 その時の祈りが記されているのがこの詩篇第3篇です。 “主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。セラ” 詩篇 3篇1~2節 ここでダビデは、「なんとわたしの敵が増えてきたでしょう。」といいます。 増えてきたというのは、遠くから敵がやってきたことを意味するものではありません。 クーデターというのはもともと味方だった人たちの裏切りから起こります。 つまりここでダビデが言いたいのは、味方であったはずの人間がどんどん裏切って味方が敵になっていく状況なのです。 味方だと思っていた人に裏切られたことがありますか。 裏切りが与えるダメージは大変なものです。 ダビデはこの時多くの人たちに裏切られどんどん敵が増えていき囲い込まれているような状況でした。 しかもその人たちはダビデの最も大切にしている神への信仰に触れます。 彼らはいいました。 ダビデに「神の救いはない。」 彼らは口々にダビデが信頼している神さまがダビデを助けないことを嘲笑っているのです。 神を信じるものにとって信仰に関することを指摘されることは本当に辛いことです。 ダビデは息子のクーデターという大変な局面で今まで自分を支えてきた信仰について敵から嘲られるという状況でした。 おそらくこの時ダビデは大変な失望と恐れの中にいたはずです。 しかしそんなダビデが3節でまず語る言葉は何でしょうか。 “しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。” 詩篇 3篇3節 ダビデは「しかし、主よ。」と語ります。 敵が目の前にたくさんいて、自分のたましいのことで、自分の内面のことで色々なことを言われる中で、ダビデは言うのです。 「しかし、主よ。」と。 人は悩みに囲まれると思い煩います。 考えてもどうしようもないことについて悩みます。 この思い煩いを解消するにはどうしたらよいのか、それをダビデは知っていました。 すべての思い煩いは神に向けて語られる時にのみ解消することができます。 ですから悩みの中におぼれそうになるときに、「しかし主よ」と祈るのです。 この祈りができる人は幸いな人です。 悩みの中に立たされたときに、「しかし主よ」と祈ることができる皆さんでありますようにお祈りいたします。 3節はさらに続きます。 「わたしのかしらを高く上げてくださる」とは、気持ちが落ち込みどうしても抜け出せない状態にある時に、そこから引き上げてくれることです。 絶望から希望へと導いてくださることです。 わたしは韓国にいた時よく聞いた賛美があります。 神様のお考えというタイトルの賛美です。 歌詞を少し紹介します。 神様はあなたを造られた方 あなたを最もよく知っておられる方 神様はあなたを造られた方 あなたを最も深く理解してくださる方 神様はあなたを守られる方 あなたを絶対に離さない方 神様はあなたを守られる方 あなたを絶えず見守られる方 神様のお考えは計り知れず…