主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書14章25〜33節 タイトル:信仰シリーズ⑧ イエスを信じた弟子 "さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。" ルカの福音書 14章25~33節 1 序 今日の聖書箇所には、イエス様とイエス様について歩く大勢の群衆が登場します。 イエス様はそんな群衆に向かって語られるのですが、それが実に厳しい言葉です。 今日のお話は群衆から弟子となることについてのお話です。 イエス様はこう言われました。 自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹その上自分の命までも憎まない者は、私の弟子になることはできません。 「憎む」という言葉を使って強い言い方をしておられますが、この言葉の通りに家族を憎み嫌うようにという意味ではありません。 これは何よりもイエスキリストを一番にするということです。家族よりも、さらには自分の命よりも大事にするということです。 さらにイエス様の言葉は続きます。 「自分の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子になることはできません。」 自分の十字架とは私たちそれぞれに与えられた使命のことです。自分の思いや計画を優先させるのではなく、主が私に準備されている使命を生きることです。 そうでなければ弟子にはなれないとイエス様は言われたのです。 そしてこのことを今度は例えで語られます。 それが28節以降に記されている内容です。 塔を立てる時に、まず費用を計算しないで立てたりしないだろうと質問を投げかけます。 さらに31節で、どんな王でも戦争をする時に、相手の戦力とこちらが割かなければいけない戦力を比べて計算して戦争をするかどうか決めるだろうと問いかけます。 実はこれは全て主イエスを信じる信仰を持って生きるということ、つまりはイエスの真の弟子になることがどういうことなのかを説明している箇所です。 今日の聖書箇所はイエス様の非常に厳しい問いかけが記されています。 それだけにメッセージも厳しいと思われるかもしれません。 しかしその厳しさ以上に私たちに約束されている祝福は大きいものです。 私たちの手の中にある全てのものよりも勝る大きな祝福が約束されています。 この世の全てよりも、さらに大きな真の命であるイエスキリストを受け取るか。 それとも自分の手で掴んでいる何かを掴み続けるのかという問いかけと言えるかもしれません。 どうぞそのことを心に留めつつ耳を傾けていただけたらと思います。 2 信仰の二つの側面 "あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。" エペソ人への手紙 2章8~9節 "私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。" ヤコブの手紙 2章14節 聖書は信仰を二つの側面から説明します。 それは信仰が神の恵みによるものだということと、人が決断して神に従い行うことだということです。 一見するとこれは矛盾するようにも思えるので、なんとかしてこの二つを調和させようという思いにもなりますが、その必要はありません。 私たちは聖書に書いてある通りに信じれば良いからです。 聖書自体が二つの側面から書いているのでそのまま受け入れて信じれば良いのです。 イエス様と出会うまでは、私たちはこの世の権勢に従って生きていました。 それはこの世で成果を上げて評価されることと言えるでしょう。そしてそのために多くの人は努力するわけです。 しかしクリスチャンになると恵みを知ります。ただで受けとることができる贈り物です。信仰もこの恵みとして与えられるものです。 しかしまたしばらくすると信仰が恵みという言葉だけで語れるものではないことがわかってきます。 自分の意思と知性を働かせて主に従うという決断と行動をも含み込んだ言葉だということがわかってくるのです。 信仰には二つの側面があります。 そしてこの二つの側面は両方大切であり両方を知ることによる効果があります。 信仰が恵みによるものだと知ることによって、自分自身が救われたことが神の恵みであることを忘れずにいられますし、伝道する上でも到底あの人は信じないだろうと思うような人にも福音を語る勇気が与えられます。 また信仰にはその人の決断と行動も含まれることを知ると、能動的に聖書を読み、祈りをし、より深く福音を知ろうという思いになります。 3 決断と行動 このことを押さえていただいた上で、今日はこの決断と行動の部分についてもう少し深く考えてみたいと思います。 今日の聖書にもあったように、私たちはイエスキリストを信じるという決断をする時に、信じることによって生じる費用というものを考えなくてはいけません。 もちろん私たちの罪のゆるしの代価はイエスキリストがあの十字架によって支払ってくださいました。 ですからこれはまた別の次元のお話です。 私たちはイエスキリストの真の弟子として生きていくためにイエスキリストを一番にしなくてはいけません。 それがイエスキリストを信じるということです。 もっと具体的にいうと、イエスキリストの生き方に習うことです。 イエスキリストが今この場におられたらするだろうと思うことをすることです。 また、しないであろうと思うことをしないことです。 私ではなくキリストです。 彼の言葉とその歩みのあとをたどって生きることです。 私たちは果たしてイエス様の歩みに従って生きようとしているでしょうか。 「生きようとしたって出来るわけがない」と思っていないでしょうか。 このような問いかけが必要であることを今日の聖書は教えてくれています。 イエスキリストは私たちのためにこの地で苦難の道を歩まれ十字架にかかられました。 だから私たちもその福音のために苦難の道を生きなくてはいけません。 もちろん弟子の歩みが全て苦難ではありません。 苦難の中にも平安があり、喜びがあり、主の助けがあり、教会での交わりがあり、そして最終的な救いの完成を望み見ながら生きていくことができます。 しかしそれでも苦難がイエスキリストの弟子の歩みの特徴です。 そしてこれが28節が語る支払うべき費用なのです。 私たちは費用をしっかり計算に入れているでしょうか。 苦難を受けるという費用を払う決断をしたでしょうか。 もしそれをせず信仰を持ったと思っているとしたら、それはまるで塔を立てる前に費用を計算しないようなものだとイエス様は言われるのです。 苦難はいらない。喜びだけ欲しい。平安だけ欲しい。 これではいけないと主は言われるのです。 それは群衆だと。 それは弟子ではないと。 そういう人は信じたと思って教会に通っていても、不都合が生じれば教会から離れイエス様からも離れていきます。 そういう人はどうしたって一貫性のない生き方になりますので、人々に笑われることになります。 それはまるで計算をせずに立て始めて基礎しか作れず途中で辞めてしまった工事のようです。 それが29、30節に記されていることです。 その歩みを見た人は笑って通り過ぎていきます。 4 費用対効果 みなさん費用対効果という言葉を聞いたことがおありでしょう。 ビジネスにおいてよく使用される言葉です。 普段の会話ではコストパフォーマンスの略であるコスパという言葉の方が使われているかもしれません。 価格の割に品質の良い商品をさしてコスパが良いと言ったりします。 おかしな質問をすると思われるかもしれませんが、聞いてください。 イエスキリストの福音はコスパが良いと思われますか。 コスト、つまり支払う費用は、イエスキリストに従って生きることです。その人生は苦難に満ちたものであるはずです。 この世への執着を捨てることであり、この世の物質を通して与えられる快楽や安心の放棄も含みます。 この世界の人たちと敵対しなくてはいけないこともあるかもしれません。 疎外感を持って生きなくてはいけないかもしれません。 それがコストです。 ではパフォーマンス、すなわち効果はどうでしょうか。 それは罪のゆるし。聖霊が内住してくださること。苦難の中にある喜びや平安、神が直接手をのべて助けてくださるその御手の業を味わえること。教会での交わり、心のうちに湧き出る命の泉、神の種を植えられることによって芽生える命の木、さらにその木から実る愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制という実、それを食べ、あるいは人に与えることができる特権。そして何よりイエスキリストという方にたえがたく結び合わされて、この世を去った後、そしてこの世界の終わりの時に、永遠の神の国へと導き入れられることです。 絶大な効果です。 この世の何物にも代えられない効果です。 だからそのために費用を支払うのです。 もしそれでも費用を支払うことがためらわれるとするなら、それはきっと得られる効果を過小評価しているからではないでしょうか。 今申し上げたようなイエスキリストによる救いを小さく見積もっているということではないでしょうか。 もしそうだとするならなぜでしょうか。 それはこの救いが自分のものとして捉えきれていないからではないでしょうか。 イエスキリストが罪のために十字架にかかられたことはわかる。 三日目に復活されたこともわかる。 しかしそれによる罪のゆるしと新しい命を受け取ったことが、自分のこととして受け取れていないからではないでしょうか。 2000年前に神の子がこの世に降られ、十字架で死なれ復活されたことは聖書に書いているからわかるけれど、それが自分のためだったという確信がないからではないでしょうか。 この確信も信仰です。 信仰は二つの側面があると言いました。 それは恵みによって贈り物として与えられるという側面と、主に従うという決断と行動の側面です。 もし十字架が私のためだという確信がないのなら、この確信を得られるように、より深く聖書を学び祈るという決断と行動が必要です。 聖書は恵みと決断のどちらも軽視してはいません。 どちらも重要なのです。 この信仰の決断によって行動を起こすならば、必ずさらなる恵みがあるはずです。 それまでよりもさらにイエスキリストの福音がよくわかるようになるはずです。 ただしたとえそうなったとしても、信仰が恵みによって与えられるものであることを忘れてはいけません。 "いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。" コリント人への手紙 第一 4章7節 栄光を受けられるはただ神のみです。 今日は群衆から弟子になることについてお話しました。 お一人お一人がイエスキリストの弟子としてこの世界で生きていけることを心から祈ります。 これこそ価値ある生き方であり、神が喜ばれる生き方であり、ここにこそ真の幸せがあります。