主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書 1章39~45節 タイトル:祝福された人 今日の聖書は、マリアが聖霊によって身篭り男の子を産むと天使に告げられた後の出来事を記しています。 親類のエリサベツが老年であるにもかかわらず妊娠したということも告げられたので、マリアは立って急いでエリサベツのもとに向かいました。 するとすでに胎内で聖霊に満たされていたバプテスマのヨハネはエリサベツのお腹の中でおどり、さらにエリサベツ自身も聖霊に満たされて大声をあげて言いました。 「あなたは女の中の祝福された方。」と 今日はこの祝福という言葉の意味について考えていきたいと思います。 マリアが「私は聖霊によって身篭りました」と言った時、周囲の人々はどんな反応をしたでしょうか。 いいなずけであったヨセフにこのことが伝わると、彼は密かに離縁しようとしたと聖書には記されています。 ヨセフも信じられなかったのです。 マリアはヨセフの反応に苦しんだはずです。 村人たちはお腹が大きくなっていくマリアを見てどのように思ったのでしょうか。田舎町です。マリアのことは生まれた時から知っていたはずです。 周囲の視線にマリアは何を感じたのでしょう。過去に石打ちにされた人を思いだして恐怖したかもしれません。 最終的にヨセフは夢の中で天使から真実を告げられて、マリアのお腹にいる子どもが聖霊によるということを信じて迎え入れるのですが、それまでのマリアの苦しみは想像を絶するものです。 その後マリアは出産しますが、イエスの命が狙われていることを天使に告げられてエジプトにまで下ってしばらく暮らさなくてはいけませんでいた。 そして時は流れて30年後、イエスがいよいよこの地上に公に現れてその働きを始められるわけですが、その時はもう夫のヨセフの姿がありません。おそらくそれまでに死んでしまったのだろうと言われています。 さらにその数年後には大切に育てた子どもであるイエスが十字架にかけられて死にます。 そして三日目によみがえったと思ったら、今度は天に昇って行ってしまうのです。 イエスを生み育てた母として彼女はこの時何を思ったのでしょうか。 これが祝福された方と言われた人の人生なのでしょうか。 彼女の人生を客観的に見た時に苦しみ多き人生に見えます。 聖書が語る祝福とは一体なんなのでしょうか。 1 祝福の源泉 「祝福がありますように」という言葉を聞いたことはおありでしょう。皆さんはその時どのような意味で受け取っていらっしゃいますか。祝福という言葉を聖書で見る度にこれはどういう意味なのだろうかと思います。 今日は少し聖書から祝福はどういう意味で使われている言葉なのかを探りたいと思います。 ただそうは言っても、祝福と書かれている部分に全て触れることはできませんので、いくつかをピックアップしてみていきたいと思います。 まず最初にこの聖書の中で最も昔のことについてかかれているところ、その一つを見ます。 "私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。" エペソ人への手紙 1章3~5節 この手紙はパウロがエペソの教会の人々に書き送った物ですので、書かれた時代は今から約2000年前です。しかしこの箇所の内容ははるか昔この世界ができる前のことが書かれています。 4節を見ますと、「神は私たちを世界の基の置かれる前から‥選び」と書かれていますように、この世界が造られる前のことを言っているのです。 続いて3節を見てください。 ここに祝福という言葉があります。 神様が私たちを祝福してくれたというわけです。 その内容が先ほどの4節の内容です。 世界の基の置かれる前から彼にあって、つまりはイエスキリストにあって選ばれました。 「あって」とは結び合わされてということですの、イエスキリストに結び合わされて選ばれていたということです。 そして選ばれただけではなくて、神様の前できよく、傷のないものにしようとされました。 神様はこの世界を造る前から私たちをイエスキリストに結び合わせてくれていたとここでは語られているのです。結びあわされるというのは一つとなるということです。 そして神の前できよく、傷のない者にして、ご自分の子にしようと定めておられました。 これが祝福の源泉です。 祝福を辿っていくとここに行き着くのです。 この世界が造られる前からすでに私たちは神に覚えられていました。イエスキリストの犠牲によって救われることがこの時すでに計画されていたのです。 2 契約 そしてこの後、世界が造られます。 それが創世記の1章です。 第一日、第二日、第三日と夕があり朝がありました。 私たちの先祖アダムはこの第六日に造られました。 この後、人類にとって素晴らしい日々を過ごすことができたのですが、罪に落ちた私たち人類はその時から神に背を向けて生きるようになってしまいます。 しかし神はアブラハムを通して、神の民を救う計画を本格的に進め始めます。 アブラハムと神との契約の中にも、祝福という言葉が登場します。 "主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」" 創世記 12章1~3節 3節にこの祝福が地上の全ての民族、つまり血筋によるアブラハムの子孫たちだけに限らない人々にも及ぶことが記されています。 そしてこの祝福の約束は、アブラハムの子、孫に引き継がれ、さらに時が流れてその子孫へと引き継がれていきました。 そしてこの子孫としてこの世界に生まれられたのがイエスキリストなのです。 "ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。" ガラテヤ人への手紙 3章16節 ここは創世記17章の言葉を引用しながら語られています。 神のこの約束はアブラハムの子孫として生まれたイエスキリストによって成就したのです。 選ばれた民を救い出す計画、その中で最も重要なイエスキリストがこの世に来られたことほど大きな祝福はありません。 そんな神の救いの大きな一手、将棋でいうところの王手があの時うたれたのです。 乙女マリアが身籠るということは、大きな神の計画の視点から見たときに、とてつもないことでした。 はるか昔この世界の基が置かれる前に定められた計画が成就し、大きく動き出す時の第一歩として、田舎町ナザレに住むまだ幼いマリアが抜擢されたのです。 世の視点から見れば決して幸せな人生とは言えなかったマリアに、それでもあなたは祝福されていると言い得たとするなら、この壮大な神の救いの計画の中に大きく用いられ最も近くでその計画が進められていく様を彼女は見て体験したからではないでしょうか。 3 祝福とは 神様は私たちの人生を祝福してくださっています。 しかしそれは決して世の中で成功することを意味するわけではなく、苦労がない人生を意味するわけではなく、私たちもこのマリアのように神の救いの計画の中で生かされることを意味しています。 こうしてエペソ人への手紙1章に記されていたように、御前で聖く、傷のない者にされ、神の子として受け入れられていくのです。 ですから例え良い出来事が起きたり、重要な問題の解決が与えられたとしても、それがすなわち祝福とはならないということをお分かりいただけると思います。 なかなか問題が解決されなかったり、苦しみが数十年続くようなことがあったとしても、それによって神に立ち返り、その救いの業の中に生かされるならば、それは祝福と言えるのです。 数十年病を患ったのちに、イエス様と出会い救われた人たちが福音書に出てきますが彼らがまさにその典型例と言えるでしょう。 神様の一番の関心は私たちが直面する問題の解決ではありません。 私たちが神のこの壮大な計画の中に生かされているということを知っていくことです。 そしてその計画は他でもない、今日の聖書にあるとおり乙女マリアが聖霊によって身籠ることを通して成されました。 そして今私たちはこの聖霊によって生まれたイエスキリストにつなぎ合わされていることを知っています。 はるか昔三位一体の神の会議で決まったこのことを私たちは知り、その計画の中に生かされているのです。 日々私たちが直面する問題は、心の不純物を浮き上がらせて悔い改めへと導き、ただただ主のこの御計画の中に生かされていることの気づきに向かわせるためのものです。 とするならば私たちが直面する日々の出来事は全て神の祝福へと導くものと言えるのではないでしょうか。 "神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。" ローマ人への手紙 8章28~29節 祝福を祈ります。