主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙5章12~21節 タイトル:福音シリーズ⑦ アダムからキリストへ ここ最近また感染者が増え情報が錯綜し状況が不安定になっています。昨日熊本では大雨による大変な被害でした。九州への大雨の被害はこれで4年連続となったそうです。ニュースでは記録的豪雨という言葉が飛び交っています。ここ数年大雨のたびにこの言葉を聞くようになったように思います。やはり気候自体が変わってきているのかもしれません。ウイルスの蔓延、気候変動、バッタによる食糧危機まで騒がれはじめたこの時、私たちは何を支えに生きていけば良いのでしょうか。この問いに私はやはり福音であると申し上げたいです。今日で7回目となりますが今日も聖書から聴いていきたいと思います。 わたしたちはイエスキリストを信じる信仰により罪のゆるしを受け、義人とされました。それはわたしたちの罪がキリストに転嫁され、キリストの義がわたしたちに転嫁されたからです。 今日はローマ書5章から特にこの転嫁がどのようにして起こるのかを見ていきたいと思います。 1 二人の人 この世界が始まって以来、数えきれない人々が生まれては死んでいきました。この世界を造られ人を造られた神はその一人一人のことをよくご存知です。 しかし罪と義、死と命に関して、神は人類を二人の代表を通して見ておられます。 その二人とはアダムとイエスキリストです。 まずこの点に関してアダムについて話し、その後キリストについてお話ししたいと思います。 ⑴ アダム 全ての人類は生まれたままの状態ではアダムにつながっています。全ての人がアダムの内にいるのです。アダムは人類の代表です。 アダムが罪に堕ちたその結果はアダムとつながっている人類、アダムの内にいる全ての人のものということです。 アダムが罪を犯し死ぬものとなった時、全ての人はアダムの内で罪人となったということです。 そのことが5章12節に記されていることです。 "そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、--それというのも全人類が罪を犯したからです。" ローマ人への手紙 5章12節 さらにコリント人への手紙にもこう記されています。 "‥アダムにあってすべての人が死んでいる‥" コリント人への手紙 第一 15章22節 そしてこのことをローマ5章13、14節では論証しています。 "というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。" ローマ人への手紙 5章13~14節 アダムは善悪の知識の木の実を食べてはいけないという法を直接神から与えられました。そしてモーセもあのシナイ山で神から律法を与えられました。 このように法が与えられるからこそ、それに対する違反も成立します。罪人と判断されるということです。 「罪は何かの律法がなければ、認められないものです」とはそういう意味です。 ところが罪の報酬である死はアダムとモーセの間の時代を生きた人々の間にも存在し続けました。彼らには直接神から法が与えられていないにも関わらずです。 "セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。 セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。 セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。 エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。 エノシュはケナンを生んで後、八百十五年生き、息子、娘たちを生んだ。 エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。 ケナンは七十年生きて、マハラルエルを生んだ。 ケナンはマハラルエルを生んで後、八百四十年生き、息子、娘たちを生んだ。 ケナンの一生は九百十年であった。こうして彼は死んだ。 マハラルエルは六十五年生きて、エレデを生んだ。 マハラルエルはエレデを生んで後、八百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。 マハラルエルの一生は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。 エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。 エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。 エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。" 創世記 5章5~20節 ここからアダムの堕落の結果が子孫たちに及びアダムの罪が子孫たちの罪となっていることがわかります。 アダムの代表性というものがここで証明されているのです。 全ての人は自分の行動とは関係なくアダムにあって罪人なのです。 ではここからもう一人の代表であるイエスキリストについてお話しします。 ⑵ イエスキリスト "ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。 また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。 もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。" ローマ人への手紙 5章15~19節 罪のお話をするときに、アダムが神を裏切り堕落したことにより罪がこの世に入り、わたしたちはこのアダムの子孫として生まれてくるので生まれた時から罪人だという話をよくします。 わたしはこのお話を初めて聞いた時になんと不公平なことかと思いました。私は何もしていないのにどうして生まれた時から罪人なのかと。どうして自分はアダムのように善悪の知識の木の実を食べる決断をしなかったのにスタート地点からマイナスポイントを背負って生きなくてはいけないのかと思いました。 しかしアダムとわたしの関係がそのままキリストとわたしの関係になることを知ったときにこれは恵みなのだと知りました。 神はアダムにあって罪人と定めたわたしたちを、キリストにあって義人と認められるのです。 「ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」 アダムに連なっていたわたしたちは今やイエスキリストにつながれ、イエスキリストの全てのものがわたしたちのものとなりました。イエスキリストが義なる方なのでわたしたちもその義をそのままいただき義人とみなされ、彼が罪に死に復活されたので、わたしたちも罪に死に復活したのです。 冒頭でお話ししたように、神は人類を二人の人を通して見ています。それはアダムとイエスキリストです。 このどちらの人につながっているかによって、罪人なのか義人なのか、死なのか命なのかが分かれるのです。 今日はここからキリストとつながること、キリストとの結合についてお話しします。 2 キリストとの結合 "神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。" コリント人への手紙 第二 5章21節 "しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。 まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。" コリント人への手紙 第一 1章30~31節 パウロはクリスチャンのことを「キリストにあって」「キリストのうちにある」と表現します。 これは、キリストとの結合を指している言葉です。 クリスチャンはキリストと結び合わされた人のことです。 ですからクリスチャンは罪のゆるしと義を与えられています。 これまで福音のメッセージをしてきましたが、その中でイエスキリストの十字架について何度も見てきました。この十字架でなされた全てのことがわたしたちのものとなったと言えるのは、十字架にかかられたキリストとつながっているからなのです。彼が十字架にかかられた時わたしたちもかかったのです。 これは客観的、歴史的事実です。 だからわたしたちの主観や感覚でそう思えなかったとしても、変わることのないものなのです。コンディションの良し悪しでは変わらないものです。 キリストと一緒にあの十字架で死ねるようにと願うのではありません。 すでに客観的事実としてわたしはキリストと共に十字架につけられ死んだという事実をを日々「受け入れさせください」と祈っていくのです。 この二つは似ているようで全く違うものです。 客観的事実なのかそれとも主観的なことなのかを区別することが大切です。 客観的事実とはそもそも神がしてくださったことです。私たちがどういう状態であろうともそれは何一つ変わりません。このことを知っている人の信仰生活は熱心であっても肩の力が抜けています。自然体なのです。 もうすでにわたしたちはキリストと共に十字架で死んだのです。 これは客観的事実です。 3 キリストとの結合の方法 ではこのキリストとの結合は一体どのようにしてなされたのでしょうか。 このことも主観的なことではなく、客観的事実であることを押さえて聞いていただきたいのですが、まずキリストとの結合において大切なことは聖霊です。 聖霊なしにキリストとの結合はあり得ません。 聖霊が臨まれることによりわたしたちはキリストと一つになれます。 "けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。" ローマ人への手紙 8章9~10節 聖霊が臨まれることでキリストとわたしたちは一つとなりました。 そしてそのことで私たちには信仰が生じました。 イエスをキリストと告白することができる信仰は聖霊によります。"‥聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。"(コリント人への手紙 第一 12章3節)とある通りです。 キリストとの結合は聖霊とこの信仰でもっておこるものです。 そしてこれらもまたいずれも客観的事実です。 どちらも神の恵みにより与えられるものです。 これによりキリストのものが全てわたしのものになったのです。 今日の聖書箇所が語るアダムに連なるものが、キリストに連なる者となるとはこういう意味がある言葉なのです。 結局全部イエスキリストがしてくれたことです。 その上でこの福音にどう応えて生きていきますかとわたしたちは問われているのです。 4 新しい者とされた わたしたちはこうしてあたらしいものとなりました。 これによりわたしたちは新しい可能性と方向性が与えられ、新しい人生が与えられたのです。 わたしたちは偽物のぶどうの木から真のぶどうの木に移された枝のようです。 真のぶどうの木であるイエスキリストから命をいただき、実を結ぶ人生をわたしたちは生きることができるのだと約束されているのです。 ただしキリストとつながれたということは、彼の苦難とも一つとなったことを意味します。 これは私たちにとって主観的なこととして経験的に知っていくことです。 パウロはピリピ人への手紙で次のように言っています。 "しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。" ピリピ人への手紙 3章7~12節 ここでパウロはかつての自分と現在の自分を比較して語り始めます。 かつての自分とはアダムとつながっていた自分のこと、律法を守ることによる義、自分自身の義を追い求めていた時のことです。彼はその時に得だと思っていたものは全てちりあくたのようだと言います。 そして今はキリストの中にある者となり、つまりはキリストに結合したものとしてキリストを信じ信仰による義に望みを置いていると語ります。 ここまでが客観的事実に関する言及です。 しかしここからは主観的なこととなります それはキリストの苦しみに預かることを知って、キリストの死と同じ状態になることです。 これはつまりすでに起こったキリストの十字架に自分が共に死んでいたという事実を自分のものとすることです。それを経験するということです。 これは苦しみを実際に味わうということです。 わたしたちはキリストにはなれませんが、その苦しみの一部を一緒に味わうことが少しずつゆるされていきます。これはこの世界の罪との戦いに参与することです。 "彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。"とイザヤ書53章3節にあるように、福音のために蔑まれ、のけ者にされ、悲しみ、病を負って生きていくそんな道を歩むこともあるし、人から顔を背けられ尊ばれずに生きていく。そんな経験をすることもあるのです。しかしキリストは死んで終わりではなく、よみがえられました。わたしたちも死ぬという経験をこの人生の中でしていく時に、また新たな力をキリストの復活の力を味わうことができます。 祝福を祈ります。