主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ガラテヤ人への手紙 3章13節 タイトル: 福音シリーズ⑤ キリストがのろわれた者となるほどに "‥福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。" ローマ人への手紙 1章16節 福音はわたしたちに救いを得させる神の力です。 そしてこの福音の核心こそイエスキリストの十字架です。 使徒パウロはコリント人への手紙第一において"‥私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。"(コリント人への手紙 第一2章2節)と語っています。 これはパウロの一貫した姿勢でしたが、哲学的論議を喜ぶコリントにおいては,特にこの姿勢を堅持する必要を覚えたのでしょう。 イエスキリストの十字架以外をわたしは顧みないというパウロの強い意志があらわれています。 ところでパウロがこれほどまでに訴える十字架とは一体何なのでしょうか。 今日は特に十字架にあらわれる福音について聖書から聴いていきたいと思います。 1 呪われた者 "キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。" ガラテヤ人への手紙 3章13節 十字架と聞くとみなさんはキリストの何をイメージされるでしょうか。 先週はメッセージの中でこの十字架によって神の愛が示されたというお話をしましたが、そもそも十字架の第一義的意味は愛ではありません。 十字架は呪いを象徴するものでした。 今日はこのことからお話ししたいと思います。 今読んでいただいたガラテヤ3章13節にも「キリストはわたしたちのために呪われたものとなって」とあるようにキリストはあの十字架で呪われたものとなられたのです。 ではなぜキリストは呪われたものとならなければいけなかったのでしょうか。これに答えるためには、わたしたちが本来呪われたものだったことについてお話しする必要があります。 ⑴ わたしたちは呪われた者 新約聖書での呪いとは神に捨てられ罪に支配されている状態のことです。 ポールウォッシャーという牧師がこの呪いに関して幸いの反意語であるとしてマタイの福音書5章の言葉を引用しながら説明していました。 天の御国に入る人は幸いです。そこへ入れない人は呪われています。 神に慰められる人は幸いです。神の怒りを受ける人は呪われています。 地を受け継ぐものは幸いです。地から追い出されるものは呪われています。 幸いな人は満ち足りています。呪われた人は悲惨であり不幸です。 幸いな人は憐みを受けます。呪われた人は容赦なく罪に定められます。 幸いな人は神を見ます。呪われた人は神の前から追い出されます。 幸いな人は神の子です。呪われた人は捨てられます。 本来わたしたち人は神に呪われたものでした。 神に捨てられ罪に支配されたものでした。 天の御国には入れず、神の怒りを受けるものであり、憐れまれることなく、ただ神の律法によって裁かれるだけです。神の子になどなれるはずもありません。 ただ神の前で裁かれ捨てられるだけの存在です。 それがわたしたちです。 わたしたちはこの本来の自分を教えられていく必要があります。 罪の話をすること、そして聞くことは、いずれも気持ちの良いものではありません。 しかし聖書に記されていることは、すべてわたしたちにとって必要なことです。 だから罪について語り、聞く必要があるのです。 一度イメージしてみてください。 神が裁きのための会議を開いています。 わたしもみなさんもその脇で会議の内容を聞いていたとしましょう。 神はこう言われます。 新しい世界を作るためには現在のこの世の状況はあまりにもひどい。 汚れているもの、汚染されたものたちを排除して、この世界を作り直そう。 なんと恐ろしいことを言われるのかとわたしたちは思うはずです。 ただこの時はまだ他人事です。 しかしその後、間髪入れずに神がわたしとみなさんの名前をいうのです。 「あの子はダメだ、罪に汚染されてしまっている。排除しよう。」と。 これが本来呪われたものであるわたしたちの立ち位置です。 この本来の場所を忘れてしまうとわたしたちはそこから救い出されたことの意味が分からなくなってしまいます。 本来こうして滅びるはずだった存在であること。 それをわたしたちは忘れてはいけません。 ⑵ 呪われた者となったキリスト 申命記27章28章を見ると、神がイスラエルの民を二つに分けて、片方をゲリジム山に置き、片方をエバル山に置く出来事が記されています。 ゲリジム山にいる人々には、神に従うものに与えられる祝福が宣言されます(28:1)が、エバル山にいる人々には、神に従うことを拒否したものにくだる呪いが宣言されます(28:15)。 キリストはゲリジム山で宣言された通り徹頭徹尾神に従われた方です。当然その祝福を受ける資格がある方なのです。しかし彼はエバル山で宣言された呪いをその全身に受けるものとして十字架にかかられました。神はその恐ろしい裁き、呪いをすべて余すことなく我が子であるキリストに下されました。 この世界が創造される前から共におられた父と子が呪い呪われる関係になったのです。 これはわたしたち人間の親子とは比べられない領域のお話です。 わたしたちの想像力では追いつけないとてつもない痛みを伴うものだったはずです。 さらにキリストは全く罪を知らない方であることも見逃せないポイントです。 罪を知らない方が罪人として裁かれることがどれほどのものでしょうか。 キリストは無実のまま裁かれたと思っておられる方がいますが、これは正しくありません。彼は確かにあの瞬間罪人だったのです。 ただしキリスト自身が罪を犯したからではなく、わたしたちの罪が転嫁されたことによって彼は罪人となりました。 聖霊によってわたしたちにキリストの義が転嫁されたのと同じように、わたしたちの罪がキリストに転嫁されたのです だからあの十字架上のキリストは間違いなく罪人だったのです。 神の御心通りに完璧に生きられました。 しかし神はわたしたちの罪の責任を御子にとわれたのです。 この転嫁された罪はキリストに多大な苦しみを与えるものだったはずです。 罪人であるわたしたちも自分の罪を直視するのは苦しいのに、罪を知らない方、まったくふれた事もない方、罪から最も遠い方が罪を背負うとすれば、それはどれほどのものでしょうか。 わたしたちの想像を遥かに超えた痛みと苦しみだったはずです。 しかも自分を裁くのは永遠の時より共におられる父なのです。キリストにとってもっとも親しい存在です。その方から裁かれ捨てられることがどれほどのものか、この世においては比較できるものはありません。 2 十字架にあらわれた罪の深刻さと神の愛 これまでお話ししてきたように、十字架においてキリストはわたしたちの罪を背負いのろわれた者となりました。この犠牲はとてつもなく大きくわたしたちには計り知れないものです。 ただそれほどに罪とは深刻なものなのだということは知っておきたいのです。 父が御子を呪わなければいけないほどに、わたしたちの罪は深刻なのです。 しかし神はそのとてつもない対価を払ってわたしたちを贖い出してくださいました。 ここに神の愛の大きさを見ることができます。 わたしたちは十字架を通してわたしたち自身の罪を知り、罪に対する神の心を知ります。 十字架を通してわたしたちをゆるしてくださった神の大きな愛を知り、この愛を受け取り生きるものとなります。 十字架を通してわたしたちが義とされたことを確信し、神の前に大胆に出て、主にあって義とされた人生を生きることができます。 十字架はわたしたちの全てです。 3 今日は十字架について共に考えました。 特に罪について今一度考える機会になれば感謝です。 神の愛を知ることはとても大切なことです。これを受け取ってわたしたちは生かされ神を愛し他者を愛する者に変えられていきます。 しかし本当の意味で神の愛を知るには自分の罪を知らなくていけません。 自分の罪を知れば知るほど、その分神の愛の大きさもわかるからです。 私たちが自分の罪、のろわれたものであったことを知ることで、神の愛そして福音の素晴らしさに気づくことができるのです。