主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:創世記 3章1~6節 タイトル: 福音シリーズ③ 罪の起源と現在 "さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。" 数週間前から2回ほど福音についてメッセージさせていただいています。 今回も福音についてですが、特に罪の起源と現代の私たちへの影響についてお話ししたいと思います。 1 罪の本質 今日の聖書はアダムとエバが罪を犯す場面です。 罪と言いましても、木の実を食べるという外形にだけ注目すると、さほど悪いことではないように思います。 なぜこれが罪の始まりと言えるのでしょうか。 この問題の本質は神が「とって食べてはいけない」と言われたにもかかわらず、それを食べたことです。 神が与えたルールを破ったことが問題でした。 神への不従順です。 不従順の裏には、神の御言葉への不信と自分が神になろうとする自己主張と傲慢があります。これこそ罪の始まりなのです。 創造主から独立して自分の力で生きようとしました。 自分の思い通りに願い通りに生きようとしたということです。 2 アダムとエバの決断の過程 ではどのようにして人は神の言葉に従わない決断をしたのでしょうか。 まず蛇がエバに言いました。 「あなたがたは園のどの木からも食べてはならないと神は本当に言われたのですか。」 実際の神の言葉と比較してみましょう。 "神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」" 創世記 2章16~17節 神は「どの木からでも思いのまま食べて良いと」言われました。 全く神が言ったこととは正反対のことを蛇は言っています。 一見的外れな言葉のように見えます。 しかし後半部分を見るとここが蛇の狙いだったのではないでしょうか。 「神は本当に言ったのか」と、神が言った言葉に疑問を持たせようとしているようです。 神の言葉に対する疑いの入り口へと誘う蛇の策略が見えるところです。 「本当にそのように言ったのですか。もう一度考えてみてください。」 これが蛇が言いたかったことです。 これに対しエバは言いました。 「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。」 これも実際の神の言葉と比較してみましょう。 ‥「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」(創世記2章16節) 同じでしょうか。違うでしょうか。 神は人に対して自由を与えてくれています。 園のどの木からでも「思いのまま」食べて良いと。 しかしエバの言葉からは「思いのまま」という言葉は抜け落ちてしまっています。 神は自由をめいいっぱい与えてくれています。その上で限定を加えています。 しかしエバはあたかも縛られているかのように言うのです。 比較するとそれがより際立ちます。 これは神の言葉の歪曲です。 罪は今でもこのようにして行われます。 神の言葉に疑問を抱きさらにそれをねじ曲げて神に敵対します。 さらにつづくエバの言葉からは神の言葉の最も重要な部分が抜け落ちています。 「園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」 これも実際の神の言葉と比較してみましょう。 「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 神は「死ぬといけない」ではなく「必ず死ぬ」と言われました。 死ぬといけないと必ず死ぬでは大きな違いがあります。 死ぬといけないという言葉には、必然性が欠けています。 死ぬかもしれないし、死なないかもしれないと聞こえます。 神の言葉に対する不信が見えます。 蛇は、本当に神はこう言われたのですかと言い、神の言葉をねじ曲げさせ、ここではさらに不信感を持たせることに成功しています。 こうしていよいよ蛇は神の言葉をひっくり返しにかかります。 「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」 神が必ず死ぬと言われたにもかかわらず、蛇は決して死にませんと完全否定します。 しかもこの実を食べると神のようになって善悪を知るものとなることを神は知っているのですと言うのです。 これはあたかも神がアダムとエバにとってもっと良いものがあるにもかかわらず、あえて黙っているかのように思わせる語り口です。 先ほどまでは神の言葉に疑問を持たせ不信感を持たせる言葉でしたが、ここでは神の品性にまで疑いの目が向くように誘導しています。 エバはこの罠に引っかかってしまいます。 6節にはこうありました。 「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」 蛇の言葉を受けて善悪の知識の木の実を見るとそれは食べるのに良いように見えたのです。 こうしてアダムとエバは罪へと落ちました。 この実はエバの目には麗しく美味しそうでまた賢くしてくれそうだったようです。 エバは自分にとって良いものだと思って食べました。 神に「食べたら必ず死ぬ」と言われていましたが、それよりも自分の判断を優先したのです。 これが罪です。 こうして罪はこの世に入りました。 人は神に背をむけ神のようになろうとしたのです。 もともと神ではない存在が神のようになろうとすることで歪みが生じました。 人は神と共にいることを前提に設計され創造されていますが、その最も大事な関係であるはずの神と離れたことにより本来のアイデンティティーを失ったのです。 人は荒野で旅するような人生を送るようになりました。 蛇が言った神のようになるというのは、本当の神を失う生き方のことだったのです。 そしてこれが神が言われた死ぬということの意味でした。 アダムとエバの肉体は即座に死ぬことはありませんでしたが、神との関係が断絶されたこの状態こそまさに死の中心であり霊的死と呼べるものでした。 このあらわれとして肉体の死は存在します。 創世記3章において人は霊的死の状態になってしまったのです。 彼らの子孫として生まれた全人類はすべて同じ霊的死の状態で生まれてきます。 3 私たちへの影響 ではこの状態が現代に生きる私たちにどのように受け継がれているのかを考えてみましょう。特に今日は私たちの考え方の習慣となっていることについてです。 "罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。" ローマ人への手紙 6章23節 私たちは何かの報酬として何かを得ることに慣れています。 これが最もしっくりくるのです。 賜物としてもらうこと、つまりは対価なしでプレゼントされることに慣れていません。 これはおそらくどんなことにも当てはまるのではないでしょうか。 たとえそれが信仰に関してであってもです。 今よりも深い信仰を、何かをすることによって得ようとする時、それは報酬となります。 良い結果は良い行いの報酬によって得られるものだという法則で生きているということです。 ローマ人への手紙6章23節の中で今日注目したいのは、報酬か賜物かということです。 恵みのうちに生きていない人の思考パターンは、報酬型です。 何かをすることによって何か良い結果を得ようというものです。 わたしたちは神のくださる賜物によって生かされているのです。 神は報酬としてくれるのではありません。 私たちが頑張った分だけたくさんくれるのではないのです。 あくまで賜物なのです。贈り物なのです。 それを与えられたものとして、感謝して生きる。 イエスの十字架を見上げ感謝しその反応として神の言葉に忠実に生きることが賜物型の思考パターンと言えるでしょう。 ではなぜこの賜物型よりも報酬型の方がしっくりくるのでしょうか。 それは自分自身が神になろうとする思いのあらわれなのです。 神に対してすらも対等でいたいのです。 本来であれば創造主と被造物の関係にある神と人なので、注文をつけることや取引することなどありえないのですが、神のようになれるという蛇の言葉を聞いて善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバの子孫であるわたしたちは、神であろうと取引をしようとするのです。 4 ぶどう園の主人と労働者 イエスさまが話された神の国の例え話にぶどう園の主人が自分の農園で働く労働者を募る話が出てきます。 朝早くから働き始めた人、12時ごろからの人、午後3時ごろからの人、午後5時頃からの人がいました。 朝早くからの人が何時からなのかはわかりません。 また仕事が終わった時間もわかりません。 確かなのはそれぞれ労働時間が違うということです。 もしこれを報酬として換算するならそれぞれ時間に応じて金額を変えなくてはいけません。 しかしぶどう園の主人はすべての人に同様の1デナリを渡しました。 これに対して早朝から働いていた人は不平を言いました。 彼はまさに報酬型の思考パターンの人だったと言えます。 これだけ頑張ったのだからこれだけ下さいということです。 しかし神の国の法則は報酬型では説明がつきません。 賜物型なのです。 主人が1デナリ渡すという約束。 これに感謝してこれに対する反応としての労働なのです。 この例え話をしたイエス様が言いたかったのは、そもそも神との関係では報酬というのはあり得ないということです。ただ人は神から賜物として受け取りそれに応えて生きる存在なのだということです。 わたしたちの救いは神からの報酬ではなく賜物です。 エペソ人への手紙2章8節に"この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。"とある通り、わたしたちはただ十字架による贖い、復活による新しい命をプレゼントとして受け取り生かされていくのです。 これが福音です。