イースター礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書21章1〜17節 タイトル:復活の命に生きる者 今日はイースター礼拝です。 本当は共に集い礼拝を捧げたかったです。 しかしこのような状況の中でもイエスさまはわたしたちと共におられます。 イエスさまの復活の命が今日もわたしたちを生かしてくれています。 1 十字架にかかる前の日 イエスキリストは十字架にかかる前の日、弟子たちに向かっていわれました。 「あなたたちはわたしにつまずく」 これに対してペテロは言いました。 「たとえほかの者がつまずいてもわたしはつまずきません。」 イエスさまは言われました。 「今夜鶏がなく前にあなたは3度わたしを知らないというだろう。」 ペテロはこのとき本気で「自分はイエスを裏切らない」と思っていたと思います。 彼の行動はたしかにほかの弟子たちとは違っていたからです。 イエスをとらえようとして来た人々を前にしても、ペテロだけは剣をもって立ち向かい相手の耳を切り落としました。 また、大祭司のところに連れていかれたイエスさまを追いかけて大祭司の家の中庭にまで行きました。 しかしそこで彼は挫折を経験し心に大きな傷を負うことになります。 その日は寒くて炭火が焚かれていました。 ペテロはその火にあたっていました。 そこで門番をしていた召使いの女性が「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言うと、ペテロは「そんな者ではない」と否定しました。 次に、彼の近くにいた人々に、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言われたペテロはまた打ち消してそんな者ではないといってしまいました。 さらに次に大祭司のしもべの一人(ペテロに耳を切り落とされた者の親戚)がやってきて、「私が見なかったとでもいうのですが、あなたは園であの人と一緒にいました。」というと、ぺテロは「そんな人はわたしは知らない」と言って打ち消しました。 するとその時鶏がなきました。 彼はイエスさまのいう通り、鶏がなく前に3度イエスさまを知らないと言いました。 「ほかの弟子たちが裏切ったとしても、わたしは裏切らない」とあれほど強く言っていたぺテロでしたが、彼もほかの弟子と同様イエスさまを裏切ったのです。 この時ペテロは大きな大きな挫折を経験したと言えるでしょう。 そして心に大きな傷を負いました。 わたしがもしこの時のペテロならこう思ったはずです。 「わたしはもうイエスさまの弟子ではない。」 この後イエスさまは神のご計画どおりに十字架にかけられ死なれ完全に葬られました。 しかし3日目によみがえり、弟子たちにその復活した姿を現されはじめます。 2 漁に出たペテロのもとに 今日の聖書はその3度目のことでした。 しかしペテロはまだ罪悪感と挫折の中にいました。 イエスさまが復活したと聞いても、墓が空っぽであることを確認しても、直接イエスさまと会っても彼は立ち直ることができなかったようです。 だから今日の聖書では、昔の仕事に戻ろうとしている彼の姿が記されています。 彼はイエスキリストの弟子となる前、漁師をしていました。 イエスキリストに召し出される時、彼はこのように言われました。 「人間をとる漁師にしてあげよう」 この言葉を信じ受け入れた彼は網を置いてイエスに付き従いました。 ペテロはイエスさまを裏切って以降挫折感をもって暮らしていました。 弟子失格というレッテルを自分で自分につけたまま、下をむいてため息ばかりの日々だったことでしょう。 空の墓を見ても、目の前にイエス様が現れても、彼の心は変わることはありませんでした。 自分はできない。自分はダメだ。と思っている時の人間の姿というのはこのようなものではないでしょうか。 自分を責めることでしか自分を保てないのです。 不思議とそれでバランスを保てていると思っています。 そういう中で人間をとる漁師を諦めたペテロは、魚をとる漁師に戻ろうとしているように見えます。 彼はわたしは漁に出ると言って、小舟に乗り込みました。 しかしその夜は得意なはずの漁で何も成果をあげられませんでした。 "シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。" ヨハネの福音書 21章3~4節 この時の彼の気持ちはどんなものだったでしょう。 暗い湖の水面を眺めながら何を思っていたのでしょうか。 3節と4節の間は読むと一瞬ですが、実際のペテロは何時間も真っ暗の湖の水面を見ながら何度も網を投げては引いていたはずです。 人間をとる漁師になるのにも失敗し魚をとる漁師にも戻れない。 何をやってもうまくいかない。 そんな気持ちだったのではないでしょうか。 そうして長い長い夜が過ぎていきました。 "夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。" ヨハネの福音書 21章4~6節 夜があけ始めると湖の岸辺にイエスが立たれました。 しかし弟子たちはそれがイエスとわかりませんでした。 イエスは弟子たちに声をかけられました。 「何か食べるものありませんね。」 すると弟子たちは「はい。ありません。」と答えました。 イエスさまはさらに 「舟の右側に網をおろしてみなさい。そうすればとれます。」 と言われました。 そしてペテロたちが言われたとおりにしてみると、多くの魚がとれました。 ペテロはそれでもまだこの時点ではイエスさまだと気づいていません。 しかしイエスさまの愛された弟子と記されているヨハネはいち早くイエスさまであることに気づいて、ペテロに伝えました。 「主です。」 ここまでの状況はルカの福音書5章4節以降に記されていることと重なります。 まったく魚がとれずがっかりしている時に、深みに漕ぎ出して網をうってみなさいと言われたことを彼は思い出したはずです。 イエスさまに召し出されたその日も夜通し網をなげてもとれませんでした。 しかしイエスさまの言われた通りにしたら魚がとれたのです。 今とまったく同じ状況でした。 こうして見事イエスさまとの再会を果たしたペテロですが、裏切ってしまったことをすぐに謝ることはありませんでした。 またイエスさまもペテロを責めることはしませんでした。 ただあの時と同じ炭火が燃えていて、あの時と同じようにペテロの顔を照らしていたのです。 しかしイエスさまは責めません。 「どうしてあの時わたしを知らないといったのか。悪い弟子だ。」なんて言いません。 ただイエスさまが最初にされたのは、食事を準備しふるまってくださることでした。 裏切ってしまった相手が、自分のために食事を準備して迎えてくれたらどう思うでしょうか。 「受け入れられた。ゆるされた。」 そのように思わないでしょうか。 ペテロやほかの弟子たちにもそのような思いがあったはずです。 特にユダヤ人たちは食事を非常に親しい関係の人としか取らないので尚更でしょう。 受け入れられている平安、喜び。 これらのものが沸き起こってくることを感じたのではないでしょうか。 人は誰かが失敗をしたらそれを指摘してやりたいと思います。 そしてそれを変えてやりたいと思うのです。 しかしイエスさまは違います。暖かい手で包みこむようにして迎え入れられます。 福音とはそういうものです。 「こうしたらあげる。こういう部分を直したら受け入れる。」ではないのです。 まずそのままで受け入れられている。 これが福音です。 3 イエスさまの質問 このことを押さえた上で15〜18節を見ます。 "彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」" ヨハネの福音書 21章15~18節 ここで3度イエスは質問されました。 あなたはこの人たち以上にわたしを愛するかと。 なぜこのように3度も質問されたのでしょうか。 ギリシャ語の聖書では愛するという言葉が違う単語が使われていることを理由に色々な議論がされるところです。 しかしそのことよりも3度たずねられたことの方が大切だと私は思います。 ペテロは3回イエスを知らないと言いました。 3回裏切ったのです。 その回数と同じだけペテロはここで信仰告白しています。 今度は他の人たち以上なんてことは言いません。 ただイエスさま、あなたがご存知ですとすべてイエスキリストにかかっていると答えます。 イエスさまはすでにペテロをゆるしていました。 そのことはペテロもわかっていました。 何度も現れてくださり、今回はさらに食事まで準備し、もてなしてくださり、受け入れられていることはわかっています。 だけどそれでもまだペテロはイエスさまを裏切った自分がゆるせなかったのではないでしょうか。 だからイエスさまはペテロに信仰を表明する機会を与えられたのです。 ペテロよ。わたしはあなたのことをよく知っている。 あなたが悔い改めわたしのもとに戻ってきたことを知っている。 わたしはあなたをゆるしている。 だからあなたも自分をゆるしなさい。 ペテロはこのやりとりを通して傷が癒され自分をゆるしたのだとわたしは思います。 そんなペテロに対して今度はわたしの羊を飼いなさいと、つまり他のキリスト者を導くリーダーとなれとイエスは言われました。 これはペテロに使命を与えたということです。 この使命に召し出すためにキリストは復活の命をもってこられました。 心がすさむニュースばかりが飛び交う昨今。 どんな思いで一日を過ごされているでしょうか。 平安はありますか。喜びはありますか。 イエスはよみがえられました。 この命が今わたしたちにはあるのです。 コロナの災禍は、わたしたちに命の危機を覚えさせるものです。 さて、みなさんはこの状況下で以前と同じ安定感をもって信仰生活をしておられるでしょうか。 心の奥底で不安に苛まれていないと断言できますか。 ほとんどの方が心乱し恐れをもって生活していると思います。 一日の内、その瞬間瞬間で以前のペテロのような選択をすることもあるのではないでしょうか。 つまりイエスキリストよりも他のものをとるという選択です。 しかし今日はこのことだけ覚えていただきたいと思います。 たとえ今申し上げたような瞬間があったとしても、イエスさまはわたしたちを受け入れてくださるということです。 ペテロたちに食事を準備し迎えたように、わたしたちもイエスさまはいつも歓迎し迎えてくださっています。 このイエスさまの懐に飛び込んで、生きることがイエスさまと一つになることのまた推し進めてくれるでしょう。 イエスさまはいくつか質問されるかもしれません。 しかしその質問はあなたを責めるものではありません。 あなたが自分をゆるすためのものです。 自分をもう責めないためのものです。 イエスキリストはよみがえられました。 死は飲み込まれました。 イエスのよみがえりの命はわたしたちと共にあります。 この命がわたしたちに平安と喜びを与えてくれます。 イエスキリストはよみがえられました。 この命にいつも生かされるみなさんでありますように。