主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇46篇 タイトル: 神はわれらの避け所 わたしたちは何の上に立っているのでしょうか。 何を避け所としているのでしょうか。 ネットやテレビのニュース、近所のうわさ話ではないでしょうか。 大阪の感染者が増えるたびに「また増えた。。。いつ自分の近所にやってくるかわからない。ひょっとしたら近所の人がもう感染しているのかもしれない。」職場の同僚が咳をしているのを見て、「この人もひょっとしたらコロナかもしれない。」「大切な人が感染するかもしれない。」「次は自分の番かもしれない。」 こんな風に考え恐れているならば、神を避け所とはしていません。 神を避け所とする人は、恐れなくてもよいのです。 "神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。" 詩篇 46篇1節 "それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。" 詩篇 46篇2節 この聖句は世界の混乱した状況をあらわしています。 まさに今の状況に当てはまる詩です。 今、世界中がコロナを恐れ騒いでいます。 しかし我らクリスチャンは神は我らの避けどころ。。。それゆえ恐れないと宣言できるのです。 これは特権です。 最大限の感染対策は必要です。 しかし神はどんな状況にあっても避けどころなのです。 今から約450年前、ドイツでハイデルベルク信仰問答という書物が作られました。これは若者たちに聖書を教えるために、聖書を整理して作成されたものです。本書はキリスト教信仰を最も美しく書き表したものの一つとして多くの人々から愛され続けていますが、今日はこの信仰問答の第一問を引用したいと思います。 ハイデルベルク信仰問答(1563年) 問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 答 わたしがわたし自身のものではなく、 身も魂も、生きるにも死ぬにも、 わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。 慰めと翻訳されている言葉はドイツ語では「避け所」や「拠り所」という意味があります。 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も生きるにも死ぬにもイエスキリストのものであることが避け所であり拠り所だとこの信仰問答は言うのです。 わたしがわたし自身のものではないとは、自由がないという意味ではなく、全ての責任をイエスキリストが負ってくださるということです。最高責任者がイエスキリストだという意味です。 それは生きるにも死ぬにも永遠に変わることがありません。 クリスチャンは伝染病患者のために祈る特権があります。 自分や家族や教会の仲間や友人が感染しないように祈ることもできます。 しかし何よりも、生きるにも死ぬにもキリストはわたしたちの避けどころであるという信仰に今立つべきです。 今回コロナに感染しなかったとしても、あるいは感染し回復したとしても、いつの日かわたしたちもこの世界を離れる時が来るのです。 しかしその時も私たちに対して責任を負って下さる方がいるのです。それがイエスキリストなのです。 ここにこそ本当の慰めがあるのです。本当の避けどころ、拠り所はここにしかありません。 イエスキリストは私たちの罪のために十字架で死なれた方です。しかし3日後によみがられ、私たちを新しい命で生かしてくださった方です。 この方が今日の聖書の10節で言っておられます。 "「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」" 詩篇 46篇10節 口語訳聖書では「やめよ」ではなく「静まれ」と翻訳されています。新共同訳聖書には「力を捨てよ」と記されています。 わたしたちは予期せぬ事態に見舞われると神に頼るよりも自分の力でなんとかしようとしてしまいます。そんなわたしたちに神は静まれ、力を捨てよといわれるのです。 イエス様は弟子たちと共に湖の上で嵐に見舞われたときその嵐を沈められました。 だからこの事態も神は収めることができます。 しかしまずわたしたちの心こそ収められるべきではないでしょうか。わたしたちの心に向けて主は言っておられるのです。 「やめよ」「静まれ」「力を捨てよ」 今こそこの言葉をつかみましょう。 こういう時こそ真の信仰が発揮されます。 "何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。" ピリピ人への手紙 4章6~7節 思い煩うのではなく、知っていただきなさいとあります。 もちろん神は私たちが何も言わなくてもわたしたちのことをご存知です。しかし祈らないと神が知ってくださっていることがわからならくなるのです。 ウイルスも神の手から離れたことのように錯覚するのです。 神はあらゆる場合に、感謝をもって祈りなさいと言われます。 そうして神に知られていることを知りなさいというのです。 この「あらゆる場合」の中に、今のわたしたちの状況も入っているのです。 「わたしの痛みも苦しみも不安も神が全て知ってくれている。それなら大丈夫だ。」 このような平安がクリスチャンには約束されています。この平安は人のすべての考えに勝るものです。 こうなったら平安になれる。こういう状況になったらわたしの人生はよくなる。ウイルスが全て無くなれば平和になる。 このように条件を提示して、それが満たされば問題が解決するという考え方こそここでいう「人のすべての考え」です。 しかしそこには本当の平安はありません。 不安と心配と不満しかありません。 そういう人は、結局目の前の問題が解決すれば、また新たな問題が大きく見えるようになるのです。 神に信頼し感謝して祈り願えば、神がかならず平安をあたえてくださいます。その平安は神に知られていることをわたしたちが知ることによって得られるものです。 神のうちに自分が存在していることがわかるときに得られる平安です。そしてその平安がわたしたちの心と思いを守ってくれるのです。 今回の出来事もわたしたちが負うべき問題ではありません。 感染予防は大切です。また自分がウイルスを運ぶ物とならないように気をつけるべきです。しかしこの問題は神が負うべきものです。 神の手の中にある出来事なのです。そのことに信頼しましょう。 静まれ、私こそ神であることを知れと主は言っておられます。 今こそ主を見上げる時です。 生きるにも死ぬにもただ一つの拠り所はイエスキリストです。