主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き16章11〜15節 タイトル:主に用いられる人ルデア みなさんは主に用いられる人はどんな人だと思われますか。 今日の聖書に登場するルデアという人は主に大いに用いられた人でした。 彼女とパウロ一行の出会いは、ピリピに教会を誕生させました。 今日はこの箇所から主に用いられる人とはどんな人なのかを見ていきたいと思います。 ピリピは、マケドニアの王フィリッポス2世という人の名前にちなんで付けられた名前でしたが、その後、紀元前42年の戦争でアントニウスによってローマの植民地とされました。 ローマ軍の退役軍人が多く移住して暮らしていたので、ローマ的であると同時に軍事的性格を帯びた町になっていました。 住民の約半数はこの退役軍人たちで、ギリシャ人が残りの半数で、ユダヤ人はごく少数でした。 これまでパウロたちが訪れた場所は小アジア地域でしたが、ここからいよいよヨーロッパ地域になります。 ユダヤ人はほとんどいません。 会堂もありません。 ユダヤ人の男性が10人いれば会堂は作ることができると言われていますが、この町に会堂がないところを見るとユダヤ人の男性は10人もいなかったということでしょう。 会堂に代わる場所として祈り場があるだけでした。 ただし町の門の外の川岸でした。 こういうところからも、パウロたちが今まで宣教して来た町とは大きく違うことがわかります。 この祈り場でとても重要な人物と出会うことになります。 それはルデアという人です。 この人はテアテラ市からやって来ていました。 テアテラ市とは、紫布生産の中心地でパウロたちが伝道しようとしていた小アジアにあります。 神はパウロたちが小アジアで福音宣教することを禁じられ、ヨーロッパへと送られましたが、このヨーロッパで小アジアの人と出会わせました。 神の導きの不思議を感じずにいられないところです。 ルデアはパウロと出会った後、ヨーロッパでの最初の改宗者として家族とともに洗礼を受け使徒たちをあつくもてなし大きな助け手となっていきます。 こうしてこの町にできた教会がピリピ人への手紙の受けとり手となるピリピ教会です。この手紙を読むとわかるようにパウロを最もよく助けた教会でした。 パウロはまだこの地方に来るつもりはありませんでしたが、神はパウロをこの地に導かれました。 ルデアと出会わせピリピの人々と出会わせるご計画だったのでしょう。 今日の聖書の大まかな流れは以上です。 ここから少し細かいところを見ていきたいと思います。 ①まずパウロとルデアが出会った場所についてです。 先ほどお話しした通り、ピリピという町にはユダヤ人たちがほとんどいませんでした。 だから会堂も作ることができません。 ユダヤ人男性が10人いないと作れない決まりだったからです。 それでもユダヤ人たちは安息日を守らなくてはいけません。 それで会堂が作れないなら祈り場を決めようということになったのでしょう。 町の門の外に出て、ある川岸をその祈り場と決めました。 そして毎週安息日に集まっていたのです。 ピリピの人々はほとんどがローマの元軍人、あるいはギリシャ人たちでした。当然この人たちは安息日を守ることはありません。それぞれが思い思いの日を過ごしていたはずです。 そんな中この世をつくられた神を信じる人々は、いそいそと出かけて行き町の門から外に出て川岸で共に祈る時をもっていました。 男性だけでは10人もいないとすると女性や子どもも合わせても30人も満たない群れだったのではないでしょうか。 圧倒的少数派の人々でした。 しかしそれでもこの人たちは安息日を守り続けました。祈ることをやめませんでした。 この人たちのことを考えると日本のクリスチャンが思い出されます。 圧倒的少数派に属する私たちも普段周囲に同じ信仰を持つ人などいない中で生きています。 今日も隣近所の人たちは思い思いの休日を過ごしているのではないでしょうか。 しかし私たちは家を出て教会に集うのです。隣近所の人たちや友人や同僚が教会に行かず家で一週間の疲れをとっていようがいまいが関係ありません。 ただ私たちはこの主日に主を礼拝するために共に主の御言葉を受け取り祈りを捧げるために集まるのです。 ルデアはパウロから福音を聞くまではクリスチャンではありませんでしたが、おそらくテアテラでユダヤ人たちからユダヤ教の教えを聞き天地万物をお造りになった神を信じていたのでしょう。 それでユダヤ人たちと同じように祈り場に集い礼拝の時を持っていたのです。 そこにパウロとシラス、そしてテモテとルカがやってきました。 そして彼らはその祈り場で福音を語ったのです。 ②ここからはルデヤの心が開かれたことについてです。 "テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。" 使徒の働き 16章14節 聖霊の導きに従いピリピにやってきたパウロたちが、この祈り場で語りはじめました。 するとそこにいたルデヤの心を主が開かれて、パウロの語る事に心を留めるようにされたのです。 同じ福音のメッセージを聞いても、主が心を開かれる人とそうでない人がいます。 主が心を開かれたらメッセンジャーの言葉が心に留まります。 そうでなければどんな言葉を語ろうと心に留まることはありません。 この場所にはルデア以外にも人はいました。 13節に「集まった女たちに話した」とあります。 しかしその場所にいた女性たちが全員福音を受け入れたわけではおそらくないでしょう。 聖書はルデアの心を主が開かれてその心に言葉が留まるようにされたとしか語っていません。 使徒の働きの他の箇所、例えば14章1節などでは"イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人々が信仰に入った。"と書かれていたり、他の箇所には町の人々のほとんど全員があつまってきて福音を聞いたという書き方がされるところがあります。今回もしその場にいた人たちが多く信仰に入ったのなら、このように書かれているはずです。それがないということはこの時ここで救われたのはルデヤとその家族だけだったのではないかと思うわけです。 こうしてここでルデアとその家族は救われました。 主が彼女の心を開いてくださったからです。 この箇所は人が信仰を持つ要因が何かをよく表しています。 人が信仰を持つにはまず第一に福音を聞かなくてはいけません。 ローマ人への手紙10章17節にはこうあります。 “そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。" 今日の聖書でもパウロたちがやって来てルデヤに語っています。ルデヤは福音を聞いたのです。 第二にこの御言葉を受け入れ信じることです。 しかしこの時に絶対に必要なのが主が心を開いてくださること、目を開いてくださることです。 では心が開かれるとはどういことなのでしょうか。 ルカの福音書のエマオへと向かう弟子たちのところを参考にしたいと思います。 "ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」" ルカの福音書 24章13~32節 ここに登場する二人の弟子たちはイエスが近づいてこられてもそれがイエスだとは分かりませんでした。 彼らも弟子ですので、イエスが十字架にかかられる前から、十字架にかかられることと復活についても聞いていました。 しかしその言葉の意味がわかりませんでした。 彼らの目は閉ざされていました。 彼らの心は閉じていました。 しかしイエス様が聖書を解き明かしてくださることで心が開かれました。 そして目の前にイエスがおられるということが分かったのです。 この出来事と同じ出来事がルデアにも起こったのです。 パウロのうちにおられる聖霊が働き(イエスが働き)、解き明かす御言葉とともに働いてルデアの心を開きました。 それでルデアは福音を受け入れ信じるに至ったのです。 彼女もイエスだと分かったのです。 目の前にいるのはパウロですが、そのうちにイエスがおられることがわかりました。 そして自分にも主が臨んでくださっていること、目の前で手を広げて受け入れるよう促しておられることが分かったのです。 心が開かれると、イエスがわかるのです。 エマオへの道にいた二人の弟子も、ルデアもこの時イエスと出会ったのです。イエスがこの地に来られたことも、十字架にかかられたことも、完全に葬られたことも、復活したことも、全て自分のためであったこと。 そしてその良き知らせを伝えるために今イエスご自身が働いておられることが分かったのです。 私たちもイエスを信じ受け入れた時同じ体験をしました。 その時目の前で誰が語っていたか私にはわかりません。 その当時の牧師さんかもしれませんし、最初にみなさんに伝道した方かもしれませんが、その人のうちには聖霊がおられたのです。それはすなわちあのエマオの途上で弟子たちに語りかけ御言葉を解き明かしたイエスです。 彼が共にいてみなさんお一人お一人にも語りかけられ、御言葉を解き明かし心を開き目を開かれました。 だからこそ福音を受け入れるに至ったのです。 そしてイエスを受け入れ信じている今も日々私たちに主は語りかけてくださり、閉じよう閉じようとする心を再度開いてくださいます。 今、肉眼で見れば説教者が語っているかもしれません。 しかし私とみなさんの内には聖霊が生きて働いておられるのです。イエスが語ってくださっているのです。 ③では続いてイエスと出会った人がどのように変化するのかを見ていきます。 ”そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。" 使徒の働き 16章15節 これはルデアの献身を表しています。 パウロはピリピにやって来て間がありませんでした。 おそらく寝泊りするところには困っていたはずです。 ルデアは自分に福音を伝えてくれた人たちの1番の必要に応えたのです。 お食事でもどうですかではないのです。泊まってくださいといっています。 しかもそれを自分から頼み強いてそうさせたとまで書かれています。 パウロ、シラス、テモテ、ルカ。 分かっているだけでもこれだけの人たちがいました。これだけの人が泊まるのです。 どれだけ仕事が増えるでしょうか。 しかしそれでも彼女は神から恵みを受けて献身の思いに燃えていたのです。 この後パウロとシラスがある出来事がきっかけで捕まるのですが、解放された後に帰ってくる場所はルデアの家でした。 そしてそこには福音を受け入れた多くの弟子たちがいたのです。 ルデアの家でピリピの教会は始まったのです。 ローマの植民地ピリピ。 この町はローマ人とギリシャ人で溢れた町でした。 ユダヤ人はほとんどおらず神を恐れる者はありません。 しかしそんな中でもルデアは安息日に祈り場に集まる人でした。 そんな彼女のもとにパウロを通して福音が届けられ主が彼女の心を開くことによって彼女はクリスチャンになりました。 彼女の心は信仰に燃え、自宅を教会として開放するほどの献身でした。 こうしてピリピの教会は誕生したのです。 荒野教会のお一人お一人がこのルデアのようにイエスキリストと出会い献身の思いを新たにされますように。 ルデアは私たちです。 エマオの二人の弟子も私たちです。 今日も主は私たちに語りかけ心に触れ御言葉を解き明かし私たちに出会ってくださいます。