主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き14章19~23節 タイトル:神の国に入るには みなさん、最近辛いな苦しいなと思う出来事はありましたか。 今日の御言葉の中心は、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」というところです。 この言葉を見てみなさんはどのように思われるでしょうか。 嫌だな、出来れば避けて通りたいなと思われますか。 わたしも出来れば苦しみたくはありません。 しかし神の国に入るには多くの苦しみを経なければならないと聖書はたしかに語っています。 ではどのようにしてこの苦しみを経ていくのでしょうか。 今日の聖書を見ていくと、少しイメージがかわるかもしれません。 今日の聖書を理解するために前回までの流れを少しおさらいしたいと思います。 パウロとバルナバはピシデヤのアンテオケを出た後、イコニオムへ行き、そこからルステラという町に来ました。 そこの住民は特にギリシャ神話に登場するゼウスとヘルメスを信奉していました。 そのきっかけとなったと考えられるのが、昔この地にいた農夫ピレモン・バウキスに起こった出来事です。 ある日彼はゼウスとヘルメスがルステラを訪れた際にそれとは知らずに二人をもてなし、その親切の報いを受けたという昔話をがあったのです。 そこにパウロとバルナバがやって来て、奇跡を起こしたので、町の人々はパウロとバルナバがヘルメスとゼウスなのだと誤解してしまいました。 それでパウロとバルナバに捧げ物をしようとしたのです。 しかしパウロとバルナバは、自分たちは神々ではないと答え、ルステラの人々の信仰も同時に否定しました。 ちょうどその頃パウロとバルナバの信仰に反対するユダヤ人たちがやってきてルステラの人々を焚き付けて、パウロを石で打ちたたき町の外に捨てるように仕向けます。 ルステラの人々はついさっきまで神々と信じ祭り上げていたパウロを今度は殺そうとしました。 心を砕き信仰を伝えようとした相手が裏切る姿は福音を伝える側にとって大変大きな痛みになります。 どうせ打ち叩かれるなら全く関係のない強盗の方がまだましです。 パウロにとって大変ショックな出来事だったことでしょう。 しかしパウロはその後、驚くべき対応をします。 "しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。" 使徒の働き 14章20節 このように記されているのです。 まるで何事もなかったかのように彼はそのまま町に入っていきました。 心を砕いて福音を伝えようとした相手がそれを理解してくれず、こちらを攻撃してくる時、みなさんだったらどんな思いになりますか。 わたしはこの箇所を準備しながら、本当に苦しくなりました。 自分に当てはめて考えた時、とてもパウロのような対応はできないと思ったからです。 取り囲んでいる弟子たちにその苦悩を少しもこぼすことなく、何も言わずにまた自分を殺そうとした人たちのいる町に入っていくなんてとても出来ないと思いました。 パウロをこうまでさせるものは一体何なのでしょうか。 それが次の節以降を読んでいくと見えてくるようです。 21節22節を読みます。 "彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。" 使徒の働き 14章21~22節 まずここで注目したいのが、彼らがまっすぐアンテオケに戻るのではなく、それまでに回ってきた道を引き返す形で戻ったことです。 ルステラからデルベに行った彼らでしたが、そのまま山越えすればパウロの生まれたタルソを通って、最短距離で母教会があるアンテオケへ戻れます。 ところが彼らはルステラ、イコニオム、アンテオケと引き返して行きました。 大変つらい迫害を受けた場所に戻ったのです。 理由がなければそんな場所に戻ることはあり得ません。 彼らにとって行かなくてはいけない理由があったのです。 その理由とは、「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め『私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない』と言」うことでした。 つまりルステラ、イコニオム、アンテオケで福音を受け入れた人たちのためだったのです。 好き好んで自分を攻撃する人間がいるところに行こうと思う人はいません。 しかしそこに御言葉で勧め励ます必要のある人がいると思う時、たとえそこに自分を攻撃する人々が待ち受けていようとも戻ろうと思えるのでしょう。 バウロとバルナバのこの行動は神様との関係はもちろんですが、さらに神が準備しておられる人々との関係からの決意の行動と言えるのです。 続いて注目したいのは、信仰にしっかりとどまることの難しさです。 人が信仰を告白してクリスチャンになる時の思いは決して偽物ではないでしょう。 しかしその後一度も揺れ動くことなくスムーズにいくことはまずありません。 なぜなら「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」からです。 パウロの励ましを受けとった彼らを待っていたのもまた激しい迫害でした。 それに耐えるには神様からの慰めはもちろんですが、同じ信仰を持った人々からの勧めと励ましが必要なのです。 ルステラとイコニオムとアンテオケの人々にもそれが必要だったのです。 私たちも困難に直面している兄弟姉妹を勧め励ます者でありたいと思います。 今は信仰が成熟してあまりふらつかなくなったという方も以前は小さな苦難でも大騒ぎしていたのではないでしょうか。 そういう時、先輩クリスチャンに支えられて勧め励まされて立ちあがって来たのです。 だから落胆している人がいたら勧め励ませる人でありたいと思います。 その時は落胆している人の言葉を聞いてあげることも大切ですが、最終的に「そのうち良くなるよ」なんて気休めの言葉ではなく、本当に力になる言葉を伝える人でありたいと思います。 その言葉とは「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」ということです。 そしてこの苦しみを通してこそ神様のことがわかるようになると伝えられる人でありたいと思います。 また励まされる時にはその励ましをしっかり受け取れるものでありたいと思います。 19世紀のイギリスにスポルジョンという牧師がいましたが、彼がのこした言葉にこんなものがあります。 「神様の偉大な真理のほとんどは苦しみを通して分かるものだ。‥そうでなければ,私たちは本当の意味でそれらを受け入れない。 ‥我々が高いところでは分からないこと、深淵の中でこそ悟れることがたくさんあるのだ。 」 またある先生は、クリスチャンの歩む道をバラの木のようなものだと言います。 途中はバラの針と棘で苦痛に満ちていても、頂上には素晴らしい栄光の花が咲いているのだと。 このようなトゲのない茎の先には、バラの花は咲きっこないのだと。 またテサロニケ人への手紙第二1章4、5節には "それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。" と記されています。 多くの苦しみは私たちを神の国にふさわしいものに成長させてくれるのです。 苦しみを受けているときは到底思えないかもしれませんが、確かにその苦しみの先に栄光があると聖書は教えてくれています。 みなさんは今苦難がありますか。 その苦難は栄光につながっています。 そしてその苦難で苦しむ人を放って置けない人がいます。 今日のお話のポイントはこれです。 もちろん神様との関係は大切です。 しかし神様は人を用いて勧め励まされる方です。 そのことを覚えたいと思います。 そして荒野教会はこれらの苦難に共に立ち向かい乗り越える共同体でありたいのです。 みなさんが励ます側にまわったとしても、励まされる側になったとしても、このことを覚えてください。 苦難というのは、自分と神様との関係だけで乗り越えるものではありません。時に私たちは一人で訓練を受けて神様との関係だけに集中しなくてはいけないことがあります。しかしそれはずっと続くわけではありません。 私たちはスクラムを組むようにして問題に共に立ち向かって乗り越えていくのです。 クリスマスの時期に共に見た聖書に受胎告知を受けたマリアがそのあまりのことにエリサベツのもとに急いで向かったという事がありました。 マリアはエリサベツの言葉を聞いて聖霊による受胎に確信を持ち、マリアの賛歌と称される賛美を歌いました。 マリア一人ではあの賛美を歌うことはなかったでしょう。 しかしマリアがエリサベツという人に出会うことによってあの賛美は生まれたのです。 同じ信仰を持つ人が出会うことによってできた賛美です。 私たちも一人では乗り越えられないことがあるのです。 私たちも助けが必要な時があるのです。 当然祈らなければいけません。 御言葉を黙想しなくてはいけません。 しかしそれだけではなくて、同じ信仰を持った人がお互いを励まし勧め合う中で乗り越えていけるということもたくさんあるのです。 私たちが神の国に入るには多くの苦しみを経なければならないとパウロは言いましたが、一人で乗り越えなさい、一人でそれを経験しなさいとは言いませんでした。 現にこの言葉は、ルステラ、イコニオム、アンテオケの人々の前にパウロとバルナバが行って勧め励ました言葉です。 時間と労力そして命をかけてやって来て励ましたのです。 ここから苦しみというのは一人で乗り越えていくのではなく、神の民が共に乗り越えていくものなのだということを教えられます。 こうして私たちは神の国に入っていくのです。