主日礼拝メッセージ 聖書箇所:イザヤ書43章1~4節 タイトル:この一年を振り返る時 私たちは日々評価を受けながら生きています。 ひょっとすると直接目の前にいる人に「あなたはああだ、こうだ」と悪い評価をされたことがある方もおられるかもしれません。 また直接言われなくても、「私は今この人に悪い評価を下されているのではないか。」と思うことがあると思います。 そんなときどんな思いになるでしょうか。 自分の中で自分の存在価値が落ちていくような思いにならないでしょうか。 そしてその人の声はいつの間にか自分自身の声に変わって絶えず心の中で自分自身に悪い評価を下し続けているかもしれません。 私たちはこういう評価を日々受けながら生きています。 2019年もそういうことがあったでしょう。 しかし是非心に留めてください。 どんな者もおとしめることができず、ケチをつけられないところで私たちを価値あるものだと言ってくださる方がいます!と。 その方は、「私の目には」「あなたは高価で尊い」と言われます。 人の目にどのようにうつるかに関係なく、私の目には高価で尊いのだと言われます。 「私」とは一体誰でしょうか。 それはこの世界をつくり私たち一人一人をつくられた神様のことです。 私たちの創造主が言われるのです。 人に何かを言われた時こそ、あるいは自分の心の中の声が自分自身をおとしめる時こそ、このことを思い出したいと思います。 何かができるから尊いのではありません。 主が尊いと言われるから尊いのです。 43章1節にはこう記されています。 「‥あなたをつくりだした方、主はこう仰せられる。‥あなたを形づくった方。主はこう仰せられる。」 まず「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と言われるこの主に心を向けて今年一年を終えたいと思います。 それこそわたしたちが世の声に負けない力、自分自身の声に負けない力だからです。 自分のことを尊いと思えないと人に優しくできませんし、自分にも優しくなれません。 人を責め、自分を責める。 そんな負のスパイラルに陥ってしまいます。 しかし自分の尊さを知っている人は、人を受け止めてあげることができます。自分が不甲斐ないと思えるような時でも、そんな自分を受け止めることができます。 聖書を読むことと祈ることは重要だとよく聞かれると思いますが、人の声や自分の声に負けないためにはどうしても必要なものです。 それによってわたしたちは神の声を聞くことができるからです。 神の声を聞かなければ、わたしたちは自分の声と他人の声で心を支配されてしまいます。 水谷潔という牧師さんが書いた「悪魔の格言」という本の中にこんな言葉が書かれてありました。 「クリスチャンが神様を見ない時、その視線はどこに向かうでしょうか。向かう先は、神なき世の中、自分以外の誰か、そして、自分自身。自分があるがままで受け入れられ、愛されていることを思えば、自分の欠点や失敗はあまり問題でなくなり、人と比較することからも解放されてゆくもの。「誰を最優先に見るか」それが人の歩みを決めます。」 またこの本は少し変わった視点で書かれている本で悪魔の側に立って書かれてある部分があります。 そこには、こう書いてあります。 「おい、おい、クリスチャンが神を見ず、他ばかり見てどうするの?まあ、こっちはありがたいけどね~。」 そして同じページにはこんな短歌もありました。 「神を見ず、世を見て、人見て、自分見て」 今年一年、わたしたちはどんな歩みをしてきたでしょうか。 この本の悪魔が言うように、神を見ず、世を見て、人を見て、自分を見る。 そんな歩みをしてきたのでしょうか。 それとも神に視線を送り続け神の声に耳を傾けて来られたでしょうか。 今一度振り返る時間を持っていただけたらと思います。 スマフォの予定表や手帳を開けば今年あったことが思い出されるのではないでしょうか。 その中には今も鮮明に覚えていることもあるかもしれませんが、記憶から抜け落ちているものもあると思います。 そういう出来事を一つ一つ思い出しながら、その時どのように乗り越えていったのかをもう一度思い出してみてください。 中には思い出すのも嫌だという出来事もあるかもしれません。 そういう出来事を見つけたら、まだ生傷の状態で残っているということです。 そういうタイプの傷は放っておくと、どんどん心の深いところまで沈んでいきます。そうすると傷は見えなくなりますが、性格や考え方に悪い影響を与えるものになっていきます。 これは健全な乗り越え方ではありません。 ただ誤魔化しているだけです。 みなさんには是非健全な乗り越え方をしていっていただきたいのです。 普段は忙しくて一つ一つ確認していたら何も出来ないという方もいらっしゃるかもしれませんが、この年末年始ではそういう時間を一度持ってみてください。 そして心に引っかかる出来事を見つけたら、その時に神さまとの対話がしっかり持たれていたのか確認してみてください。 もしそれが持たれていないのなら、今からでも遅くありません。 神に祈る時間を持ってみてください。 神さまはそこで待ってくださっているはずです。 「この出来事にわたしは必要であったはずだ。それなのにあなたはわたしなしで越えようとした。わたしはここで待とう。」 このような思いで今もその問題の前で待っていてくださる方です。 そこでしっかり神様と対話を持てば、より深く神様のことがわかる人に変えられ2020年はより良いクリスチャンライフが待っているはずです。 つづく43章1節の後半部分以降には、神さまからの力強い言葉がさらに記されています。 わたしたちが神に頼るべき理由がより明確になる箇所です。 "恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。" 43章1節後半 "あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。" イザヤ書 43章2~3節 贖いとは、旧約聖書において、イスラエルの人々がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを意味する言葉です。 主は彼らの名を呼び出し、奴隷状態から解放し、本来の主人である神に帰ることができるようにされました。 その後も紅海を割ってその水の間を通らせ、マナをあたえ水を与えて養い、ヨルダン川を堰き止めて渡らせました。 神はイスラエル人のあらゆる問題と困難を解決していかれたのです。 これが1節の後半以降に書かれている内容です。 ここではイスラエルの歴史を通して、神が救いを語っています。 神はイスラエルを贖いだし、自由にし、本来の主人である神に立ち返らせるために必要なことを全てしてくださいました。 この箇所からは二つのことが言えます。 一つは、神様の救いの確かさです。 イスラエルを救い出した神さまの手が彼らを離さなかったように、私たちを救い出す神の手も絶対に私たちを離すことのない確かなものだということができます。 そしてもう一つは、今日の御言葉43章4節との関わりで見ていくとわかります。 "わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。" イザヤ書 43章4節 1~3節で、イスラエルの救いの歴史を語られ、神の実際の働きを示した上で、わたしの目にはあなたは高価で尊いと言われるのです。 ここからご自身の実際の行動と言葉で私たちに愛を語られる方だということを知ることができます。 イエスキリストは天の王座から人となって降りて来られ、この世界を生きた後、罪がないにもかかわらず十字架で死なれました。 これは身代わりの死でした。 この命をかけた行動と愛しているという言葉によって神は私たちに語ってくださっているのです。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 神の御子は人となってこの世界へ降ってこられ十字架で犠牲になることによってこの愛を示されました。 "神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。" ヨハネの手紙 第一 4章9~10節 だから私たちは自分が愛されていることがわかるのです。 自分が価値ある存在だと知ることができるのです。 そしてこのことがわかってくると主から離れることなく主と共に生きて行きたいと思うようになります。 辛い時、苦しい時にすがりつこうと思うのです。 声に出して心の底から祈り求めるのです。 この方が私を愛し絶対に見捨てられない方だと知っているからです。 人が私を見捨てても神は見捨てないと知っているからです。 自分はそういう歩みはして来なかったという方は是非もう一度ご自身の今年の歩みを振り返ってこの方にすがってください。 神にしっかり頼るべきだったことはないでしょうか。 まだ乗り越えられていない出来事があるのではないでしょうか。 神は口だけの方ではありません。 その命をかけてわたしたちに愛を示された方です。 永遠から永遠まで変わることなくわたしたちを愛し最後まで導き助けてくださる方なのです。 わたしたちを絶対に見捨てたりはしません。 もし見捨てられたように感じておられるとするなら、それはおそらくわたしたちの方が神を捨てたのです。 神に期待するのをやめたのです。 神の手を握ることをやめたのです。 しかし神はそれにもかかわらずわたしたちを捨てられません。 いつでも手を握り返せるように待っておられる方です。 この一年を思い返すことは、過去に握れなかった神の手を握り返すことです。 今もそこで待っておられる神に話しかけることなのです。 「神さま実はあの時わたしはこんな風に思ったんです。あの時きっとあなたは動いてくれないと思ったので自分でなんとかしようと思いました。」 「神さま実はあの時あの人が憎いという思いを手放すことが嫌だったのです。 わたしがあの人を憎んでいることは仕方がないことなので、それを咎められるような気がしたので、祈るのをためらいました。」 人によって様々な祈りになるはずです。 それぞれにつまずいた出来事があるからです。 どうか丁寧に今年一年をなぞりつつ思い出してみてください。 そして祈ってみてください。 こういうことを一つ一つしていくと、神さまからの愛をしっかり受け取ることができるようになります。 どれほど愛してくださっているか、どれほどいつも心にかけてくださっているかがわかるようになります。 そうすると、もっと神に従って生きていきたいと思うのです。 そうしてはじめてわたしたちは変わっていきます。 昔、アメリカで戦争があったとき、ある男の人が奴隷市場で女の奴隷を買いました。 男の人は市場を出ると自分が買った女奴隷にこう言いました。 「あなたは自由です。」 女奴隷は驚いて男を見つめて言いました。 「えっ!自由?わたしがしたいことをしてもいいということですか。」 「そうだよ」と男は言いました。 「言いたいことをなんでも言っていいのですか。」と女奴隷はいいました。 「そうだよ。なんでもね。」と男は答えました。 すると信じられないという表情で女奴隷がまた言いました。 「ではわたしが行きたいところへ行ってもいいのですか。」 「勿論だ。自由に好きなところへ何処へでも行っていいんだよ。」 男は笑いながら言いました。 女奴隷は男をじっと見つめていいました。 「それならわたしはあなたと一緒に行きたいです。」 わたしたちの内面が変えられる過程はこういうものです。 これをしてはいけない。あれをしてはいけない。 これも罪、あれも罪。 こういう言葉やこういう意識でもってわたしたちは変えられることはありません。 しかし日々の生活の中で神と共に生きていく時、とてつもなく大きな愛に気づかされた人が、「あぁ、この方について行きたい。この方が言う通りに生きて行きたい。」と思うようになる。こういう過程を通してわたしたちは変えられていくのです。 みなさんが、この一年を振り返ることにより、主の愛に気付かされ、より主に従う方に変えられていくことを心よりお祈りいたします。