クリスマス礼拝メッセージ 聖書箇所:ルカの福音書2章1~16節 タイトル:闇を照らす光イエスキリスト クリスマスの時期になると街中ではクリスマスソングが聞こえてきたり、お店にはクリスマスを意識した飾り付けがなされます。 パーティーを企画してみんなで盛り上がる人もいるでしょう。 子どもたちはプレゼントを心待ちにしています。 クリスマスは特別な時を味わうことができます。 クリスマスを彩るイルミネーションや数々の催しの中にいる人たちにとって、この時期はとても楽しくウキウキするものと言えるかもしれません。 しかし共に食卓を囲む幸せそうな家の隣では、体をわるくした人が誰にも看病されることもなく一人ぼっちで過ごしているということもあります。 さらに他の家では、ひもじい思いをしながら親の帰りを待つ子どもがいます。 クリスマスはクリスチャンでない人にとっても素晴らしい時です。 しかしそれが楽しければ楽しいほど、それが美しく素晴らしければ素晴らしいほど、それを受け取ることのできない人々の現実はいつも以上にくっきりと浮かび上がってくるようです。 スポットライトを浴びている人の横に影がくっきり現れる様子と似ているかもしれません。 "そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。" ルカの福音書 2章1~2節 今日の聖書の最初1節、2節に登場するのはローマ皇帝の名前や、ローマ帝国の中のシリア地方を管轄していた総督の名前です。 この人たちこそ当時スポットライトを浴びていた人たちです。 一方影に追いやられている人たちもいました。 当時ローマ帝国に支配され押さえつけられていたイスラエルという国です。 3節以降は支配されていたこのイスラエルの側のお話になります。 当時この国はローマ帝国から課せられる多額の税金に苦しんでいました。 住民登録が行われたのも税金の徴収を徹底するためです。 町のいたるところにローマの軍人が駐屯している状態でした。 イスラエルの人々は当時非常に暗い時代を生きていました。 その中に聖霊によって身ごもったマリアとその夫のヨセフもいました。 二人はこの時ナザレという田舎町に住んでいました。この町はイスラエルの中でもさらに人々から無視されていた地域でした。 マリアとヨセフは、ローマの命令のために、このナザレからヨセフの家系のルーツであるベツレヘムという町に行かなければいけませんでした。 ナザレからベツレヘムまではだいたい115キロから120キロ、高低差が400メートルあります。 身重のマリアはおそらくロバか何かに乗せての移動だったと思います。夫のヨセフは細心の注意を払いながらゆっくり歩いたでしょう。そうすると少なくとも一週間はかかる距離です。 120キロも歩いたことがないのでピンと来ませんが、直線距離で大阪から岐阜に入ったあたりまでの距離です。 ヨセフとマリアはこの距離を移動しなくてはいけませんでした。 自分たちの国を支配しているローマ帝国の皇帝の命令のためでした。 一週間二人は大変な思いをしたことでしょう。そしてやっとのことでベツレヘムに到着します。 しかし住民登録のために多くの人たちが集まっていたのか、宿屋がどこも満室でした。 それで仕方なく家畜小屋に向かいます。 家畜小屋といっても私たちが想像する木で出来た小さな小屋ではなく、洞窟のようなところだったと言われていますが、そこでマリアは出産することになりました。 そして出産した後は子どもを寝かせるベッドも布団もないので、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。 飼い葉桶も木でできたものではななく、石でできたとても冷たいものでした。家畜が餌を食べるお皿のようなものなので、ヨダレも染み込んだ大変汚いものでした。 マリアは出産というただでさえ大変な出来事を洞窟の中で行わなければいけませんでした。 7節にも書かれてある通り、彼らには居場所がなかったのです。 しかしそんな居場所のなかった彼らのもとにこの世を救う神の御子がおくられました。 闇の中で苦しみながらひっそりと生きていたマリア、そしてヨセフのもとに本当の光が現れた瞬間でした。 今日の聖書には他にもこの社会に居場所がなかった人たちが登場しました。 それは羊飼いです。 寒空の下、何の光もない夜の闇を羊を連れて彼らは野宿をしていました。 現在は羊飼いという仕事に偏見を持つことはないと思いますが、当時羊飼いという仕事は大変卑しい仕事として知られていました。 彼らは羊を守るためにいつやってくるかもわからない狼や野犬を警戒しながら番をしなくてはいけませんでした。それは昼夜を問わず続けられます。 日が沈むと冷え込むので、温まるために羊に体を寄せて寝ていたようですが、そうすると羊の毛についた汚れや匂いや虫が体についてしまいます。ですから彼らの服は動物の匂いが染み込み虫もついた大変汚い服だったようです。 このようにとても大変な思いをして仕事をしていた彼らでしたが、あまりお金にはならず、いつもギリギリの暮らしでした。 さらに仕事の性質上、礼拝に出ることもできません。 ユダヤ人たちにとって礼拝は非常に大切なもので彼らのアイデンティティといっても良いものです。 それに参加しない羊飼いということでも見下されていたようです。 彼らは、経済的にも宗教的にも差別されていた人たちだったのです。 しかしそんな羊飼いたちの元に、ある夜良き知らせが伝えられるのです。 その日羊飼い達はいつものように羊の番をしていました。 寒さに耐えるため羊に体を寄せながら暖をとっています。 周囲に目を光らせ狼や野犬がいないかを確認しながらその夜も過ごしていました。 するとその時、天の使いが彼らのもとに降りてきました。 辺り一面神の栄光が照らしました。 羊飼いたちはそのあまりの光に驚いて恐れました。 見たこともない光だったからです。 この光は太陽の光ではありません。 天の光です。 天国がこの地に入ってきた衝撃を彼らはまともに受けました。 彼らの暗い生活を表すその夜の闇を一気に天の光が照らしました。 そして天の使いは言いました。 “‥「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」" ルカの福音書 2章10~12節 この言葉を掴んで彼らはダビデの町ベツレヘムへと向かいました。 するとそこには天の使いが言った通りに布にくるまって飼い葉桶に寝かされた幼子がいました。 これがイエスキリストです。 イエス様の誕生を最初に知らされたのは、王宮にいる人たちでもなく、暖かい家の中でゆったりと過ごす人たちでもありませんでした。 そんなところに居場所のない暗い闇の中で生きていた羊飼いでした。 人が作り出す光は影を作ります ローマ帝国やその他の支配者たちがそうだったように、その脇には例外なく虐げられ影に追いやられ闇の中で生きる人たちがいたのです。 しかし神はそういう人たちに目を留められる方です。 みなさんはご自身を光の側スポットライトの当たる側で生きていると思われますか。 それともその影で生きていると思われるでしょうか。 あるいはどちらでもないと思いますか。 もしご自身が影の側だと思われるなら、この知らせをそのまま受け取ってください。 イエスキリストはそんな人生を本当の光で照らすために来られました。 自分は影の側ではないと思われる方にはもう一つ質問させてください。 今まで歩んで来られた人生はいつも光り輝いたものだったでしょうか。 それともつらく苦しい時期を通ってこられたでしょうか。 もしそういう時があったとするならそのこともまた影を生きてきたと言えるのではないでしょうか。 イエスキリストはそんな記憶の中にある影も照らしてくださいます。 その苦しかった出来事はなかったことにはなりませんが、イエスキリストによってその出来事の意味が変わるのです。そして現在と未来が変えられていきます。 ところでこの光と影のお話ですが、わたしたちの社会のことや、わたしたちの個人的な経験のことだけではなく、わたしたちの心の中のお話でもあります。 この世の光では照らすことのできない部分がわたしたちの心の中にはあります。 誰かと共に祝い、共に騒いで、飲んで食べて時を過ごしても、照らし出すことのできない影が私たちの心の中にはないでしょうか。 影は、怒りや憎しみそして恐れの感情として表に出てきます。 それはイエスが最初に置かれたあの飼い葉桶のように冷たく汚いものかもしれません。 しかしそういうところにイエスキリストは生まれて下さったのです。 誰かのことが憎い、あの人がどうしてもゆるせないという思い、あるいは言いようのない恐れや不安。 そういうところにイエスキリストは来て下さったのです。 そしてあの十字架において、わたしたちのありとあらゆる痛みや苦しみや悩みや不安の根源である罪を背負って死んでくださったのです。 この問題は自分で何とかしようとしてもどうにもならないものです。 自分の中に光を作り出そうとしても、それは私たちの影の部分を照らすことはできません。かえってそれは影をくっきりとうつし出すことになるはずです。 人が作り出そうとする光は虚しさだけを残します。 しかしイエスキリストは真の光です。 わたしたちの心の奥底の影にまで降りてこられた方です。 キリストが生まれるところとはまさにそういうところなのです。 どうかイエスキリストという真の光をお迎えし受け入れる皆さんでありますように。