主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ルカ福音書1章26~38節 タイトル:神に恵みを受けた人の人生 聖書には「恵み」という言葉が何度も登場します。 みなさんはこの「恵み」という言葉にどのような印象をお持ちでしょうか。 そして恵みはどのように受け取っていくものなのでしょうか。 今日は天使に「恵まれた方。」と呼ばれたマリアのお話を通してこのことを考えてみたいと思います。 マリアの住んでいたナザレという町は、エルサレムから140キロほど北にある小さな町でした。考古学的見地から400人ほどの人口だったと言われていますので、おそらくその中の多くの人がマリアのことやその婚約のことを知っていたことでしょう。 また当時は12、13歳で結婚するものでしたので、マリアもおそらくそれぐらいの年だっただろうと思います。まだあどけなさの残る少女でした。 そんな彼女のもとに祭司ザカリヤが神殿の中で出会った天使ガブリエルがあらわれます。 "ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。" ルカの福音書 1章26~29節 「おめでとう。」と書かれていますが、これはギリシャ語で「カイロウ」といって、当時一般に用いられていた挨拶です。現代の言葉に言いかえれば「こんにちは」になります。 ですからこの言葉にマリアは戸惑ったのではありません。 そのあとの言葉「恵まれた方、主があなたとともにおられます。」という言葉に彼女は戸惑い何のあいさつかと考え込んだのです。 考えこんだというところが祭司ザカリヤとは違うところでした。 ザカリヤはガブリエルの姿をみてただ恐れるだけでした。そしてその言葉を拒絶しました。 しかしマリアはまず考え込んだのです。 つまりこの言葉を思い巡らしたということです。 "すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。" ルカの福音書 1章30~31節 「怖がる事はない」と書かれてありますので、マリアも少なからず恐れを抱いていたことがわかります。 しかし彼女の心は戸惑いながらも天使ガブリエルの言葉を思い巡らしていました。 そんなマリアにガブリエルは続けて語ります。 「マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」 神から恵みを受けたというのは、神から「あなたの人生は幸せな人生だ」という太鼓判を与えられたようなものです。 しかしその後に続く言葉は当時のマリアには決して幸せだと思えるものではありませんでした。 「あなたはみごもって男の子を生む」と言われたからです。 これはマリアにとってうれしいことではありませんでした。 むしろ彼女の人生の中で最も大きな危機に見舞われる知らせだったのです。 彼女はすでにヨセフのいいなずけでした。 これは婚約関係にあったことを意味します。 イスラエルでは婚約した二人は1年間離れて暮らし結婚準備をしますが、この間も実質結婚関係にあるものと見られました。 この期間に婚約者の知らぬところで子どもを身ごもったとなれば、旧約聖書の申命記22章23、24節に記されている御言葉に該当することになります。 "ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。" 申命記 22章23~24節 マリアはこの後聖霊によってイエスキリストをみごもるわけですが、ナザレの町の人々からするとこの御言葉で対処しなくてはいけない出来事になってしまうのです。 だからマリアにとって身ごもることは喜ばしいことではありませんでした。 しかし天使ガブリエルはマリアに向かって「あなたは神から恵みを受けたのです」と言うのです。 神からの恵みというものが私たち人間の側の喜びと同じではないことがわかるところです。 この時のマリアは自分が石で打ち殺される可能性を考えなくてはいけませんでした。 婚約者のヨセフがマリアの不貞を訴え出れば石打ちの刑にかけられてしまうのです。 私たちはこの時から2000年後の未来にいてマリアの夫であるヨセフが神から言葉をいただいて信じマリアとイエスを受け入れたことを知っています。 しかしこの時のマリアにとっては現在進行形の出来事であり、これから先に起こる大きな試練の幕開けの合図だったのです。 彼女はこれまでに石打ちの刑にあって殺された人たちを見たことがあったかもしれません。少なくとも話には聞いていたはずです。 同じ町の誰かが町民の手によって石打ちの刑にされたことを聞いたことがあったでしょう。 当時を生きていたマリアにとってこれは非常に現実味のあることでした。 ヨセフとの結婚を静かに待っていた田舎町の少女は突如としてどん底の状況に突き落とされたのです。 しかし天使ガブリエルはあなたは恵みを受けたのだと言うのです。 恵みとは一体なんでしょう。 どのようにして受け取っていくものなのでしょうか。 皆さんは突如として不安にかられるような出来事に見舞われたことはありますか。 どうして自分にこんなことが起こるのかと思うような出来事です。 それは心を酷く傷つける出来事だったかもしれません。 人によっては今もその痛みが続いているかもしれません。 今も不安の中におられるかもしれません。 そこへ天使がやってきてあなたは恵みを受けたのですと言われても受け入れられないでしょう。 これのどこが恵みなのですかと言いたくなるかもしれません。 しかし恵みというのは、「どうしてこんなことになってしまったのか。できることならこんな状況にならなければよかったのに。」 と思えるようなところから受け取り始めるものなのではないでしょうか。 これからマリアは生涯をかけてこの恵みを受け取っていきます。 その歩みは喜びばかりではありません。 むしろ心が引き裂かれる経験の連続でした。 彼女はどんな思いで自分が身ごもったことを、ヨセフに打ち明けたのでしょう。両親には何と言ったのでしょうか。 出産する場所はおそらくひどい悪臭がしたであろう家畜小屋でした。生まれた子どもを寝かせた場所も飼い葉桶でした。 王に命を狙われているのを知ってエジプトにまで逃げたこともありました。 成長したイエスの周囲に父親の影が見えないことから夫のヨセフは早く死んでしまったのではないかと言われています。 もしそうならマリアは早くにやもめになったということです。 イエスが30歳を過ぎると彼は公に姿を現し始め、どんどん遠くに行くように思えたかもしれません。そして遂に十字架にかけられて殺されてしまいました。 3日目によみがえられはしましたが、その時は息子イエスではなく、この世の救い主キリストとして以前とは全く違う関係性の中でしか関わることができなくなっていたことでしょう。 この後マリアは十字架のもとに共に行ったイエスの弟子のヨハネに引き取られて暮らしていたようです。 彼女は幸せだったのでしょうか。 一般的な視点で見ると彼女は幸せではなかったように思います。 しかし御使いはそんなマリアに対して「恵みを受けた」と言うのです。神に「あなたは幸せな人だ」と太鼓判を押された人こそマリアという人でした。 続いて32節、33節を見ます。 "その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」" ルカの福音書 1章32~33節 この言葉はサムエル記第二に記されているダビデに与えられた神の約束の言葉です。 "あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。" サムエル記 第二 7章12~13節 ルカの福音書には当時の王様や皇帝の名前が多数出てきます。 しかしそれらは本当の王様ではなく、このダビデの身から出る世継ぎの子として来られるイエスキリストこそ本当の王様なのだという意味の言葉です。 偉大な王であったダビデに与えられた言葉を引用し語られたこの天使の言葉を聞いた時、マリアは驚きを隠せませんでした。 彼女がまだ幼い頃より聞いてきた旧約聖書のダビデ王のお話、その偉大な王に与えられた約束の成就が自分から生まれる子どもによってなされるなどとは到底思えなかったのでしょう。 そして何よりまだ男の人を知らない自分が妊娠などするはずがないとマリアは考え、34節のようにいいました。 「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」" ルカの福音書 1章34節 これに対して御使いはさらに語ります。 "御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。" ルカの福音書 1章35~38節 男の人を知らなくても聖霊によってあなたは身ごもるのだと言われたマリアは、どうぞあなたのお言葉通りになりますようにと応答しました。 御使いの言葉を思い巡らしながら聞いていたマリアはこの時信仰の応答をしました。 どうぞおことば通りになりますようにと。 彼女の応答により神の子はこの世に生まれました。 王宮の妃にではなく、全く注目を浴びていなかった田舎の町ナザレに住む少女を神はえらばれ永遠の時より計画されていたことを実行にうつされたのです。 マリアの人生はとても険しいものだったかもしれません。 しかし恵みを受けた人でした。 なぜなら彼女は神に大いに用いられた人だったからです。 そしてその人生は神を知る人生でした。 恵まれた方、主があなたと共におられます。という言葉を知っていく人生でした。 そしてその人生を歩みますという信仰の応答が「どうぞおことば通りになりますように」という言葉なのです。 わたしたちに向かって神は言われます。 あなたは恵みを受けた人だと。 わたしたちの人生も楽しい事ばかりではありません。 時にどうしてこんなことになるのかと思うこともあるはずです。 でも忘れないで欲しいのです。 そこからわたしたちは恵みというものを受け取り始めるのです。 神を知っていくのです。 どうぞおことば通りになりますようにと神に応答するみなさんでありますように。