主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き14章8~22節 タイトル:私の望む神と真実の神 パウロとバルナバはピシデヤのアンテオケを去った後、イコニオムへ行き、そこからルステラという町に来ました。 そこの住民は特にある神々を信じていました。 それはギリシャ神話に登場するゼウスとヘルメスです。 ゼウスは、神々の王であり、天候、特に雷を司る天空神です。 ヘルメスは神々の伝令役で、ことばの指導者、雄弁の神とも言われていました。ゼウスの子で忠実な部下とされています。 ルステラの人たちはこれらの神々に大変関心を持ち崇拝していました。 そのきっかけとなったと考えられるのが、昔この地にいた農夫に起こった出来事だと言われています。 ピレモン・バウキスというこの農夫は、ある日ゼウスとヘルメスがルステラを訪れた際にそれとは知らずに二人をもてなし、その親切の報いを受けたそうです。(もちろんこれはただの伝説、作り話です。) この話を伝え聞いていたルステラの人々は、いつかまたゼウスとヘルメスがやって来るのではないかと思って暮らしていたのかもしれません。 そんな町にパウロとバルナバがやってきたのです。 彼らはいつも通り福音を語って聞かせました。 その話を聞いている人の中にすでに信仰を持つものが現れたのを見てとったパウロは、足の不自由なその者に言いました。 「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」 この言葉を聞くと生まれて一度も立ったことがないにもかかわらず、その足で立ち上がりました。 彼はパウロの語る言葉によって信仰を与えられ、その信仰によって救われました。 彼はおそらくこの後パウロの弟子となったのではないでしょうか。 しかしこの出来事は、この後起きる事件の大きな引き金となっていきます。 その事件とは、癒しの奇跡を見た人がパウロとバルナバをヘルメスとゼウスが人間となった姿と誤解したことです。 町の人々は奇跡を見て大変驚きました。 そして以前この町の農夫に起きた出来事が今自分たちにも起きているのだと信じ興奮したのかもしれません。 11節に彼らが声を張り上げて「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言ったとありますが、その言葉が公用語であるギリシャ語ではなく、地元の言葉であるルカオニヤ語であったと記されていることからも、彼らが非常に驚き興奮している様子がうかがえます。 感情が高ぶると本来の自分の国の言葉が出るものです。 ギリシャ語ではないためパウロもバルナバも彼らが何を言っているのかわからなかったはずです。 きっと奇跡に驚いているだけだと思ったことでしょう。 まさか自分たちがギリシャ神話に登場するゼウスとヘルメスに祭り上げられているとは思いもよらなかったことでしょう。 しかし騒ぎはおさまるどころかどんどん大きくなっていきます。 そして誰が言いつけたのか、ゼウス神殿の祭司にまでこのことが知れ渡り、なんと雄牛数頭と花飾りを持ってきてパウロとバルナバに捧げようとしたのです。 起きている事態をようやく把握したバルナバとパウロは衣を裂いて群衆の中に駆け込み叫びました。 衣をさくのはユダヤ人たちの憤りや神への恐れを表現するものです。 そして衣を裂いた状態のまま語り出します。 15節以下に彼らの言葉が記されていますのでそれをともに確認したいのですが、その前に一つ質問です。 この町の人々やゼウス神殿の祭司たちは、自分たちが雄牛や花飾りを準備することでパウロやバルナバがどういう反応をすると思っていたでしょう。 彼らはバルナバとパウロのことをゼウスとヘルメスだと思っているので、当然喜ぶと思っているはずなのです。 「よく気づいたな人間たちよ。そうだ私こそゼウスである。私はヘルメスである。」 という具合に自分の正体を現して、人間たちはひざまずいて崇めることになるのだろうと。 それなのにバルナバとパウロは自分の服を破りながら群衆に突っ込んで来るわけです。 ユダヤ人たちにとって服を破ることは、憤りと神への恐れを表す行動ですが、この地域の人々にもそのような文化があったかわかりません。 もしなかったとするとさらに彼らは驚いたことでしょう。 「喜んでもらえると思ったのに、一体なぜこの方達は自分の服を裂いているのか。」 そう思ったのではないでしょうか。 そういうかなり無茶苦茶な状況なのだということを押さえた上で、15節から18節まで読みます。 "言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」 こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。" 使徒の働き 14章15~18節 パウロとバルナバはここでまず二つのことを伝えています。 一つは、自分たちのことをゼウスとヘルメスだと思っている人々に対して自分たちが人間であると伝えたことです。 そしてもう一つは「このようなむなしいことを捨てて」と言っているように、ゼウスやヘルメスのような偽物の神々を崇めることが虚しいことだといったことです。 さらに彼らは続けざまに語ります。 「天と地と海とその中にある全てのものをおつくりになった生ける神に立ち返るように」 聖書では偽物の神と対比される文脈でよく出て来る言葉に「生ける神」という言葉があります。 このように言うことでゼウスやヘルメスのようなものは、人間が勝手に作り上げた偽物の神々であると再度批判し、自分たちが伝えようとしている生ける神はこの世界の全てを造られた創造主なのだと言うのです。 そして自分たちはこの方のことすなわち福音を知らせる者なのだと言います。 さらに16節で「過ぎ去った時代はあらゆる国の人々が自分の道を歩むことを許しておられ」た。と言い、自分たちが遣わされたからには今までとは違うことを伝えます。 しかし17節にあるように今まで放ったらかしにしていたわけではなくて、恵みをくださっていたと言います。 それは天から雨を降らせることであり、実りを季節を与えることであり、食物と喜びとで心を満たしてくれていたことだというのです。 旧約聖書を知らない異邦人たちを相手に語っているため全く旧約聖書の話はしません。 相手が理解できる言葉を使って福音を伝える努力が見えるところです。 そしてバルナバとパウロはこの生ける神がしてくださっていたこととして、雨をふらせて食物を与え、 生ける神がしてくださっていたことと彼らとの接点を探って語っているのです。 こうしてようやく自分たちに捧げ物を捧げるのをやめさせるに至りました。 ところがこれでこのお話は終わりません。 "ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。 しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。" 使徒の働き 14章19~20節 パウロたちに反対するユダヤ人たちが別の町からやって来てルステラの人々を抱き込みます。 そしてなんとその人たちにパウロを石打ちにさせるのです。 パウロとバルナバに犠牲を捧げるほどであった人々が、ユダヤ人たちに抱き込まれてパウロを石打ちにするほどになってしまうのです。 ルステラの人々にも少なからず不満はあったでしょう。 自分が思う神々ではなかったこと。 そして自分たちの信仰を否定されたこと。 そこにやって来たのが、パウロたちを悪く言うユダヤ人たちでした。 ここでもう一度、ルステラの人たちの側からみたパウロとバルナバを考えてみましょう。 彼らはパウロとバルナバが間違いなくゼウスとヘルメスだと思ったのです。 だから捧げ物を準備しました。 当然ゼウスとヘルメスに褒められると思ってしていることです。 そしてあわよくば、かつての伝説のようにこちらの奉仕に見合った見返りを期待していたことでしょう。 しかしパウロとバルナバは神々ではありませんでした。 しかも自分たちが神々とするものは偽物であり、生ける神なる存在を受け入れ信じろというのです。 多少なりとも裏切られた思いはあったはずです。 そこにパウロたちを批判する人々がきました。 異端者とういレッテルや悪党というレッテルなどありとあらゆる批判の材料を持ってやってきたことでしょう。 それでルステラの人たちは説得されて。。。というべきか、ユダヤ人たちの言葉に乗じてパウロを石打ちにしました。 するとパウロは全く動かなくなったのでしょう。 町の外に引きずり出してそこに放置しました。 (町の外に出すのは、野犬などに死体の処理をさせるためでこれが当時の死刑のやり方でした。) あれほどヘルメスだと言って大騒ぎをしたにもかかわらず、今度は石打ちにして殺そうとしました。 この変化には驚かされます。 結局のところ彼らは福音を全く受けれていなかったのです。 彼らは確かに奇跡を見ました。 しかし人は奇跡を見て信じるのではないことがここからはっきりわかります。 皆さんの中に、「神がいるなら見せてみろ」と言われたことがある方はいますか。 私はあるのですが、このように言う人たちはたとえ見たとしても信じません。 私たち人間は福音に対して非常に頑固です。 自分たちの思いとは違うからでしょう。 自分たちが思う神と生ける神、真実の神があまりに違うのです。 すると人は、そんな神には用はないと言わんばかりに踵を返すのです。 今日登場したルステラの人々もそうでした。 彼らが望んだのは生ける真実なら神ではなかったのです。 自分たちの作り出したゼウスとヘルメスという偶像でした。 そして伝説にあるように彼らをもてなせば見返りがあるということに心が向いていたのです。 このお話はクリスチャンにも当てはまることです。 私たちはイエスキリストを信じ受け入れ生きていますが、自分自身の神様像から外れた出来事が起こった時にその意味を神に求めるよりも先に不満を漏らすことの方が多いのではないでしょうか。 どうしてよりによって今なのか。 なぜ自分にこんなことが起こるのか。 そんなことを先週一度も言わなかったでしょうか、思わなかったでしょうか。 もし言ったとするなら、もし思ったとするなら、その瞬間私たちは神に背を向けているのです。 その点パウロは石打ちにあうというとてつもない経験をしたにもかかわらず、何一つ文句をいうこともなく、また町に入っていきました。 しかも石打ちにした人々がを扇動したユダヤ人たちがいる町に引き返しそこで信仰に入った人々を力づけながらアンテオケへと戻って行くのです。 葛藤がなかったと言ったら嘘だと思います。 しかしパウロもバルナバもいつも主と共にあった人でした。 22節には「神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」というパウロたちの言葉が記されています。 自分たちをもてはやした人たちの裏切りにあって石打ちにされたばかりのパウロが言った言葉です。 この石打ちすらも神の国に入るには必要なものなのだというパウロの信仰が見える言葉です。 苦しみにあうことで、私たちはさらに主を知ることになっていくのかもしれません。 今日のこのパウロの言葉を心に留めて歩む方は幸いです。 祝福を祈ります。