主日礼拝メッセージ
聖書箇所:使徒の働き11章1~18節
タイトル:固定観念の柵を壊して
わたしたちはある種の柵のようなもので自分自身を囲い、他の人々を囲って生きています。
その柵は「こうあるべき」とか「普通はこうだ」という固定観念で出来ています。
そしてその柵から自分自身が出ることを嫌ったり恐れたりします。
なぜなら本人にとってそれが常識であり理解できる範疇だからです。
またほかの人々を、その柵で囲い「あなたはこうあるべき」とか「普通はこう考えるはずだ」という自分の考えを押し付け、そこから相手が出ることを嫌います。
<柵の外に出たペテロ>
コルネリオとペテロの出会いを共に見ていますが、彼らも自分自身を柵で囲っていた人たちでした。
しかし神様にそれを壊されて以前の柵の外に出て二人は出会い、コルネリオは福音を受け取りました。
コルネリオとペテロの出会いは、それぞれの常識を超えていった出会いと言えるでしょう。
ペテロはユダヤ人です。
彼にとって異邦人の家に行くことや共に食事をすることなどありえないことでした。
律法できよい動物と汚れた動物の区別が定められていたので、その区別のない異邦人が作った料理を食べることは律法をおかす危険があることでした。
そんなユダヤ人にとって異邦人が福音を受け取って救われることなど受け入れがたいことでした。
しかしペテロは神様から与えられた幻に促されて異邦人であるコルネリオのもとに行くことになるのです。
そして行ってみると自分が見た幻と対になる言葉を御使いから与えられたコルネリオがいました。
こうしてペテロは異邦人にも福音を伝えたのです。
ペテロが福音を語ると彼らに聖霊がくだり異言で語り出し賛美をしました。
これを見てペテロは異邦人にも聖霊がくだり救いがもたらされることを受け入れました。
彼が完全に自分の常識の柵の外へと出た瞬間でした。
<いまだ柵の中にいるクリスチャンたち>
これに対して今日の聖書で登場したエルサレムのクリスチャンたちは依然として自分たちの柵の中にいます。
彼らからすると、なぜあんなところにペテロはいるのかと思ったでしょう。
彼らにはペテロが異様に見えたのです。
本来いるべき場所にいない人。
仲間だったはずなのに仲間ではないかのように行動する人。
異分子のように見えたはずです。
彼らは11章2節でペテロを非難したと記されています。
“さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。
そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、”
使徒の働き 11章1~2節
この非難という言葉は単なる叱責とか注意とかとは違い非常に厳しい言葉です。
ギリシャ語では「ディアクリオウ」といって、区別するとか分離するという意味がある言葉です。
さらにここでは自分に向けられる形で書かれていますので、自分たちを相手から区別するとか分離するという意味です。
ペテロ。あなたがしたことは私たちの側からは全く理解できないことだ。
あなたはわたしたちとは違う。
こういうニュアンスがある言葉です。
かなり強烈な言葉だと言えます。
コルネリオへの伝道は福音宣教が異邦人にまで広がった大きな出来事であり、クリスチャンとして喜ぶべきことであったと私たちは知っています。
しかし当時の人々はまだ理解できていませんでした。
ここから当時のエルサレム教会は福音の拡大の障害になっていたと言えます。
福音の拡大の障害と聞くと教会の外の出来事を想像すると思います。
ノンクリスチャンからの迫害をイメージするでしょう。
しかし福音の拡大の障害になっていたのは、皮肉なことにすでにイエスキリストを信じている人々でした。しかも福音の拡大を望んでいた人々でした。
そんな彼らが福音宣教の妨げになっているという事実を私たちはこの聖書を通して直視させられます。
現代の私たちにとってはユダヤ人なのか異邦人なのかは関係ありません。人種や国籍で差別することもないでしょう。
しかし先ほどから申し上げているように自分で作り上げた柵の外にいる人に対して私たちは寛容でいられません。
そしてそれこそ福音宣教の妨げになっているのです。
この箇所はそんな問題意識を私たちに与えてくれるところです。
<相手に理解を示し説明するペテロ>
では続いてペテロのこの時の思いに目を向けて見たいと思います。
ペテロは教会から非難された時どんな思いになったでしょうか。
ペテロにとってコルネリオたちが聖霊を受けてイエス様を信じ生きるようになったことはとても嬉しいことだったはずです。
自分が喜んでいるとき、その喜びの知らせを伝えた相手にどういう反応を期待するでしょうか。
共に喜んで欲しいと思うのではないでしょうか。
この時ペテロはエルサレム教会の人々に共に喜んで欲しかったはずです。
それなのに、彼らは喜ぶどころか非難したのです。
ペテロはこの出来事を残念に思ったでしょう。
しかしそのことに対して腹を立てて反論するのではなく、順序立てて話すことに彼は努めたのです。
なぜこのようなことができたのでしょうか。
それはペテロ本人も彼らと同じ柵の中で生きていた人だったからです。
彼はエルサレム教会の人々の気持ちが手に取るようにわかったはずです。
そして何より柵が広がったのは自分の力ではなく主の導きのおかげだと知っていたからです。
それで相手を批判するのではなく、順序立てて説明することができたのではないでしょうか。
そうしてなぜ自分が異邦人のもとへ生き、共に食事をし彼らがイエスキリストを受け入れるに至ったのかを語りました。
その中でもっとも言いたかったことは、17節にある神のなさることだということです。
“こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」”
使徒の働き 11章17節
「自分はけがれたものは食べられないといった。しかし神がきよたものをきよくないというなと言われたのだ。それでも異邦人のもとに行くのにわたしは戸惑いを覚えた。しかし御霊がわたしに行けといった。さらにわたしたちがあの五旬節の日に経験した事と全く同じことが彼らにも起こったのだ。これは間違いなく神様がしておられることだ。」
彼らは全てを聞き終えた時、沈黙しました。
“人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。”
使徒の働き 11章18節
自分たちの主張が間違っていたことに気づいたエルサレム教会のクリスチャンたちは沈黙し素直に間違いを認めました。
そしてペテロと共に神を賛美しました。
同じ教会に通っていても柵の広さはまちまちです。
自分はカバーできているところであっても相手がそうでないという場合があります。
その時に私たちはどう対応するでしょうか。
相手の未熟さを批判しますか。
それともペテロのように順序立てて説明し謙遜に振る舞うでしょうか。
反対に自分の方が柵が狭かったと気づいた時はどうでしょうか。自分の考えにしがみくことに必死になっていないでしょうか。
それともエルサレム教会の人々のように沈黙しているでしょうか。
そんな問いかけをくれる御言葉だと思います。
<結び>
この後、キリスト教会にとって異邦人伝道は問題にならなくなりました。
ここからいよいよ本格的に異邦人伝道が始まります。
使徒の働きはユダヤ人中心のエルサレムから異邦人のローマへと向かうお話ですが、ここからどんどん異邦人世界への福音の進軍が進んでいきます。
今日の聖書から教えられることは、自分の常識という柵が壊されることによって自分自身が変化すること。そして自分が変わることによって教会が変わっていくことです。
そしてこれこそ福音宣教の広がりには必要なことです。
柵が壊される経験を通してさらに福音を宣教する皆さんでありますように。