主日礼拝メッセージ
聖書箇所:詩篇27篇1~5節
タイトル:苦難を通して神様を知る
最近「主がしてくださいました。感謝します。」と言ったこと、あるいは思ったことはありますか。
私たちは普段生活する中で何か良いことがあれば、「主がしてくださいました。感謝します。」と抵抗なく言えると思います。
今日の詩篇のダビデのように「主は私の光、私の救いです。」という言葉に同意することもできるはずです。
しかし周囲の状況があまり良くないときに、今日のダビデのように、「主は私の光です。救いです。」と心から言うことはなかなか難しいのではないでしょうか。
どうしても、その悪い状況に心が向いてしまいます。どうしたらこの問題を解決できるだろうかと思い巡らし、その状況が長く続くと、思い煩い、心が沈んでいきます。その時わたしたちはすでに問題に囚われてしまっているのです。
しかし今日の詩篇を記したダビデは問題を見つめ続けるのではなく、そこから視線を主に向け、主を見上げました。
彼はこの詩篇で戦争をイメージさせる言葉を使って、自分が今どれほど厳しい立場にあるのかを表現しています。彼は命を狙われていたのだと思います。
しかしその中でダビデは、自分に迫る命の危機だけを見つめ続けるのではなく、主を見ました。そういう中で彼が言った言葉が、この1節から3節の言葉です。
“主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。”
詩篇 27篇1~3節
1節に「砦」とありますが、これは外敵の侵入を防ぐための建物です。
主は自分の命を守ってくれる砦だと彼は信仰告白しているのです。
そしてその砦があるから、どんな敵も恐れることはないと続けます。
ここでまず注目すべき点は、ダビデがしっかりと現状を理解しているということです。
周りは敵だらけで、しかもその敵は自分の命を狙っている。
自分は命の危険にされされているということを彼はよく知っていました。
戦うためにはまず現状がどうかということを知らなくてはいけませんが、ダビデはそれができていました。
そしてその上で、彼は先へと進んだのです。
私たちも彼のようでありたいと思います。
周囲の状況に目をつむっていては、問題が解決するはずもありませんが、逆にいつまでも周囲を見渡して、それを自分で解決しようとしていてもその状況は変わりません。
ダビデのように正確な現状認識の後に、その先へと進むことが大切です。
私たちは何か問題が起きるとそのことばかり考えてしまいます。
大きな音が突然聞こえると驚いてそちらの方を見て、しばらく固まってしまう状態と似ています。
そんなわたしたちに今日の聖書が教えてくれているのは、問題をしっかり把握することは大切だけど、そこにとどまるのではなく、主を見上げ、主に信頼することがもっと大切だということです。
現状把握でとまってしまうと、そのことばかりグルグル頭の中を回り始めます。
これは思い煩いです。
思い煩いは、わたしやみなさんにはどうにもできないことも、どうにかできるとささやきます。
「あなたがこうしたらこうなるんじゃないの?」「あなたがもう少し頑張ればなんとかなるんじゃないの?」
色々なパターンを想像させて私たちを下へ下へと引きずっていきます。
しかし私たちはこのように考えるのではなく、現状をしっかり把握した上でどうゆうところが問題なのかを分かった上でこの問題の解決は神様にしかないのだと委ねていくことが大切です。
それは自分自身の力で必死に握ろうとしている何かを離すこととも言えます。
わたしたちは握るのは得意ですが、離すのが苦手です。
これには練習が必要です。
最初はきっとうまくできないでしょう。
しかしその中でも神さまの語りかけに耳を傾けて手を離して神さまに委ねるのです。
ダビデはそれができていました。
彼は主を心から信頼していました。
2節に、「私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた」と記されています。
これがダビデの信頼が特に強くあらわれた部分です。ヘブライ語の聖書もここは完了形で「倒れた」とすでに終わったこととして書かれています。
実際の状況は本当に変わったわけではありません。
相変わらず敵はダビデの周囲にいます。
でもそんな状況であるにもかかわらず、彼は主に信頼しているので、もうすでに神に聞かれたこととして祈っているのです。
イエス様は言われました。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11章23節)。
ダビデはこの時点ですでに勝利していました。
彼はすでに祈りが聞かれたと信じていたからです。
そうして彼はまず守るべき「心」を守りました。
3節で、ダビデは言っています。
「私の心は恐れない。」
彼は心から平安を奪われないことに成功しているのです。
私たちが何かの出来事に心を奪われ、イライラしたり、心を落ち込ませている時、それは心の平安を奪われている時です。
敵を恐れ、敗北しているのです。
しかしダビデはその戦いに打ち勝っていました。
彼は主を心から信頼していたからです。
ではどういう人が主をこれだけ信頼することができるのでしょうか。
それはただ一つの願いをもち、とても単純に生きている人です。
複雑な考えに支配されておらず、ただ一つの願いを持って生きている人です。
“私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。”
詩篇 27篇4節
ダビデは1つのことを主に願いました。
その願いとは「命の日のかぎり、主の家に住むこと」でした。
主の家とは幕屋や神殿のことですが、ここに住むことをダビデは願いました。
この言葉の意味するところは一生の間主の前に生き信仰生活を全うすることです。この世に生きる限り神と共にいることなのです。
これがダビデのただ一つの望みだったのです。
そして彼はそのことを通し主の麗しさを見ると言いました。
「主の麗しさ」とは一体なんでしょうか。
ヘブライ語ではノアムといいますが、この単語は他の聖書箇所で慈愛とも訳されています。
慈愛とは 親が自分の子どもに対するような深い愛のことです。
ダビデはこの親子の愛のような神様からの愛を欲して、ただ神様だけを求めて生きた人でした。
ダビデと神様との親密さがうかがえる箇所です。
わたしたちもこのダビデと神様のような関係でありたいと思います。
神様はわたしたちの父です。
ではどうしてダビデはそれを強く望むにいたったのでしょうか。
それが5節に記されています。
“それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。”
詩篇 27篇5節
5節は、「それは」から始まっていますが、ヘブライ語の聖書では、キーと書かれていて、この意味は「なぜなら」です。だからここにはダビデが主と共に生きたいという理由が書かれているのです。
(なぜなら)主が悩みの日に、その仮屋のうちに私を潜ませ、幕屋の奥に私を潜ませて、岩の上に私を高く置かれるからだとダビデは言います。
ダビデは過去にこういう経験があったのでしょう。
悩みの日、苦しみの日に主がかくまってくださって、避けどころとなってくださった。岩の上のように安全で安定した主の幕屋でかくまわれたダビデは、主を求めることこそ、人生の全てだと知りました。
ダビデの人生は苦難の連続、悩みの連続でした。
しかしそのたびに、主にかくまってもらい、避けどころとなってもらいました。
彼はその経験を通して、自分にとってもっとも大切なのは神様だと知ったのです。
人は苦難を通して一番大切なものを知ります。
神さましかないとわかるのです。
神様は私たちをダビデのような人生に招いておられます。
私もみなさんも神様にこのような人生を歩むように招かれています。
どうかこの招きに応答されますようにお祈りします。
今苦難の中を歩まれている方はいらっしゃいますか。
思い煩ってはいませんか。
どうかその悩みから手を離してください。
自分の弱さを認めて神様の強さにすがってください。
そしてただ神様だけを求めて歩まれますように。
今目の前にある苦難を通して私たちはさらに神さまのことを知っていくのです。
祝福をお祈りいたします。