主日礼拝メッセージ
聖書箇所:コリント人への手紙 第二 1章4~6節
タイトル:苦しみも慰めも共に
この世界で生きていく上でなくてはならないものはたくさんあります。
まず衣食住は基本的なものとして必要です。
それを得るための収入源も必要でしょう。
家族や友人の存在もなくては孤独に押しつぶされてしまいます。
ほかにも必要なことが色々あると思いますが、今日はその中の1つについて考えてみたいと思います。
それは慰めです。
慰めという言葉を検索してみると、落ち込んでいる人の肩に手をかけて声をかけている画像が出てきます。
これがわたしたちの多くが持っている慰めのイメージではないでしょうか。
人はこのようにして肩に手を回して話を聞き慰めてくれる存在を必要としています。
みなさんには今話を聞き慰めてくれる方がいますか。
ご自身の隣にいるのは誰ですか。
少し考えながらこれからお話することを聞いてみてください。
[慰めについて]
ではまず聖書における慰めとはどのようなものかを考えてみます。
慰めという言葉はギリシャ語ではパラクレシスと言いますが、これは本来戦いに際して、恐れや、不安で躊躇している兵士たちを勇気付けて戦いに送り出す時につかわれた言葉で、慰めのほかに励ますという意味もあります。
慰めと聞くと、落ち込んでいる人に共感して、背中を撫でながら「よしよし、大変だったね」と言ってくれるようなイメージが湧きますが、励ましとなると、片方の腕を肩にかけながら、もう片方の手で前方を指し示してくれるようなイメージが湧かないでしょうか。「大丈夫だ。あなたが生きる道はこの先にあるじゃないか。」と言ってくれるているようです。
聖書が言うパラクレシスは共感して慰めるだけではなく、励まし力をくれることです。
[コリント人への手紙 第二 1章4~5節]
“神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。”
この世で生きている限り、どんな人にも必ず苦難がやってきます。
そんなわたしたちにはパラクレシスが必要です。
慰めと励ましが必要なのです。
これがあればわたしたちは生きていけます。
どんな苦しみの時も乗り越えていけます。
神はそのパラクレシスを与えてくださる方なのです。
ところでこのパラクレシスとよく似た言葉でパラクレトスという言葉があります。
この2つは語源を同じくする言葉なのですが、パラクレトスとは助け主、聖霊を意味します。
つまり慰め励ます事と、聖霊とは密接な関係があるということです。
このことから聖霊はわたしたちを慰め励ましてくださる方だということができます。
さらにパラクレトスという単語を分解してみると、聖霊がどんな方なのか。そしてわたしたちをどのように慰め励ましてくれるのかがよりわかってきます。
パラは「そばに」という意味、クレオは「呼び出す」という意味がありますが、ここからそばに引きよせて肩に手を回して慰め励ましてくれる様子をイメージすることができます。
これが聖霊の私たちに対する接し方です。
冒頭でご説明した画像のように、すぐそばで同じ方向を向いて肩に手を回して慰めてくださる方です。
また聖霊はわたしたちの歩むべき道を指し示してくれます。
何を一番に見るべきなのかを教えてくれます。
「イエスキリストを見なさい。あの方が十字架にかかって血潮を流されたから、あなたは罪ゆるされたんじゃないか。復活されたから今のあなたの新しい命はあるんじゃないか。」
ということを何度も何度も繰り返し教えてくださるのです。
ある時は祈りの中でこの思いがあたえられることがあります。
また御言葉を黙想する中でこのことに気づかされることがあります。
また人から与えられる慰め励ましを通してこのことを教えられることがあります。
今苦難の中にいるという方には、聖霊による慰めと励ましを受け取って欲しいと思います。
そのためには祈りが必要でしょう。
また聖書の黙想も必要でしょう。
そしてキリストを信じている人たちからの言葉かけや献身、その背後に聖霊がおられるのだなという霊的な視点が必要です。
こういう生き方をしていれば、そうでない頃よりもはるかに良い人生を生きていけます。
聖霊から慰めと励ましをうけとってください。
そうすれば今度は苦しみの中にいる人をその受け取ったもので、慰め励ますことができるようになります。それが今日の1章4節の御言葉なのです。
[パウロの困難と受け取った慰め]
この手紙を書いたパウロ自身も困難の中を生きた人でした。
しかしその溢れる困難を覆い尽くすほどの慰めと励ましが、聖霊によってあたえられ、バルナバをはじめ多くのキリストの弟子たちに助けられながら歩んだ人でした。
だから彼自身もこうしてコリントの教会を慰め、また他にも色々な教会を慰め励ますことができました。
またテモテが苦しい状況に置かれた時は彼に激励の手紙を書き綴っています。
テモテへの手紙 第一 6章11節には「しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」
という御言葉があります。
当時テモテが置かれていた状況を説明しますと、彼の周囲には偽預言者たちがいました。
偽預言者たちは「神さまが~と言っておられる」と口ではいいますが、本当は神さまの言葉など聞こえない偽物でした。
そして自分の都合の良いように勝手に語っていた人たちです。
さらにテモテの血筋についてケチをつける人たちもいました。
テモテの母親はユダヤ人でしたが、父親がギリシャ人でした。
このことを理由にリーダーの資格にケチをつける人もいたかもしれません。
この時テモテの周りには敵がたくさんいたのです。
しかもその敵曰く、テモテには教会のリーダーの適正がないというのです。
こういう状況におかれているテモテにパウロは「神の人よ」と語りかけているのです。
「神の人」という呼び方は旧約聖書においてモーセやサムエルに対して使われていた言葉です。
パウロはこう呼びかけることによって「あなたは神の言葉をもらった人だ。周りにいる偽預言者たちとは違う。あなたは本当に神様から言葉をもらってそれを伝えることができる預言者だ。」というメッセージを送っているのではないでしょうか。
テモテはたしかにこの時大変な困難の中にいました。
しかしパウロのこの呼びかけは何よりも大きな慰めであり励ましであったはずです。
[隣にいるのは誰ですか。]
みなさんの肩を抱いて慰め励ましてくれているのは誰ですか。
みなさんのとなりにいるのは誰ですか。
それは聖霊です。
しっかり肩を抱きかかえて、イエスキリストを指し示しながら、あの方をしっかりみなさいと励ましてくれています。
その方はどんなことがあっても変わらないし離れません。
そしてわたしたちを否定しません。
わたしたちは知らず知らずの内に自分を否定していることがあります。
他の人と比べて、できない自分という像を作り上げ、隣にいる聖霊が「大丈夫だ」と言ってくれているのにそれが聞こえず、うまくいかない時に自分自身を裁くのです。
断言しますが、もし周囲の人々が皆さんを裁いても聖霊はみなさんのことを裁きませんし否定もしません。
変わらず肩を組んだまま、イエスキリストを指差してあのゴルゴダの丘を登る姿を指差して、自分を否定するあなたのためにも神の一人子は死なれたと教えてくれています。
これほどの慰めが他にあるでしょうか。
わたしのために神の一人子が命を差し出したこと以上のことがあるでしょうか。
この慰めこそ、この励ましこそ苦難に耐え抜く力です。
[苦しみも慰めも共に]
最後に6節を読みましょう。
“もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。”
コリント人への手紙 第二 1章6節
パウロはコリントの教会に言います。
「もしわたしたちが苦しみにあうならそれはあなたがたの慰めと救いのためです。」
自分の苦しみは自分の苦しみであり、受けた慰めも自分のための慰めと考えるのが一般的かと思います。
しかしクリスチャンは違います。教会は違います。
自分が苦しみを受けた出来事とその後受け取った慰めを、今苦しんでいる兄弟姉妹の慰めの役にたてたいと思うのです。
わたしの苦しみや慰めは、兄弟姉妹の苦しみや慰めと絶え難く繋がっていると信じているのです。
苦しんでいる兄弟姉妹がいれば力付けたいと思います。
その時に世の人々とは違う言葉で語りたいのです。
聖霊がそうであるように、イエスキリストを指し示したいのです。
わたしたちは信仰の共同体です。
神の家族です。
苦しみも慰めも分け合いながら生きていきたいのです。
それが教会です。
祈り、そしてみことばを黙想して慰めをうけてください。
そして教会の兄弟姉妹がお互いに聖霊に満たされて慰め励ましあえることを心から祈っています。
祝福をお祈りいたします。