聖書箇所:コリント人への手紙 第一 4章6〜14節
タイトル:罪を覆い隠す罪
今日のタイトルは、罪をおおいかくす罪としました。
みなさんは、今どんなことに悩んでいらっしゃいますか。
その悩みが今のみなさんにとって重要であり深刻なことだということは間違いないでしょう。
ただ、今日の聖書の内容を通して見たとき、果たしてその問題はみなさんの本当の問題なのでしょうか。
この時間共に考えて見たいと思います。
“さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。”
コリント人への手紙 第一 4章6節
この箇所には「高慢」という言葉が出てきますが、この高慢の内容とは一体何でしょうか。
ここには「一方にくみし、他方に反対して高慢に」とあります。
当時コリントの教会では派閥が存在しました(1:12)。
わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつく、わたしはペテロにつくという具合に、どのリーダーが良いかということで分裂していたのです。
その状態をここでは「一方にくみし、他方に反対して高慢に」と言っているのです。
この教会の罪としてまず見えてくるのが、一人の人をあがめ偶像化し、派閥を作って分裂させるということです。
つまり指導者の偶像化による分裂の罪です。
しかし聖書はこれを高慢の罪だというのです。
どうしてこれが高慢なのでしょうか。
それは結局のところ誰が良くて誰が良くないという判断をするのが自分自身であり、その自分の判断を信じているからです。
以前韓国の牧師がこんなことをメッセージで言っていました。
ゲストで他の教会の牧師が来た次の週のメッセージだったと思います。
「他の教会のA牧師にメッセージをお願いしたときの話を聞きました。恵みを受けたと聞いています。しかし一部の人からは残念な声が聞こえました。うちの牧師先生の方が説教がうまい。なんであんな先生に頼んだんだという声でした。わたしはこの方達の高慢さをとても残念に思います。」
問題を指摘された信徒たちは、自分の教会の牧師を本当に尊敬していたのだと思います。
しかしその尊敬が他の教会の牧師を裁く原動力になっていました。
この人たちもイエス様を信じているはずです。
しかしその信じるというものの中に自分の判断を信じる思いが含まれているのです。
この例は特定のリーダーのことが好きで他のリーダーを裁いてしまうものです。
しかし一方でこんな場合もあります。
以前ある先輩牧師がわたしにこんな体験を話してくれました。
その先生は人口が少ない田舎で牧会をされているのですが、たまに旅行者が主日礼拝を守るためにやってくるそうです。その中で先生の説教をべた褒めして帰る人がいました。
「先生の説教は素晴らしい。本当に恵みを受けました。心が震えました。」
ただ、その後続いた言葉が、「うちの先生と大違いです。」だったのです。
この場合はある特定のリーダーが嫌で他のリーダーに心が向いている状態です。
コリント教会の人がパウロ派になった理由、それはパウロが好きだったからとは限りません。
ペテロやアポロがあまり好きではなかったのかもしれません。
ペテロ派になった理由、それはペテロが好きだったからとは限りません。
パウロやアポロが苦手だったのかもしれません。
アポロ派になった理由、それはアポロが好きだったからとは限りません。
パウロやペテロが嫌だったのかもしれません。
どうしてこのような話をするのかというと、コリントの信者たちは結局のところ指導者の品定めをして、自分の思いを優先させていたということが言いたかったからです。
それを聖書は高慢だと言うのです。
指導者をコリントに送ったのは一体誰でしょうか。
パウロが来たのは彼の気まぐれでしょうか。
アポロが来たのは偶然でしょうか。
神様がその人たちを送ったのではないですか。
その時々に応じて最も良い指導者を神様が送られ、そこに立てられたのです。
そこに信頼していくことが信仰に生きるということではないでしょうか。
“いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。”
コリント人への手紙 第一 4章7節
私たちが持っているものは全て神様からの賜物です。
肉体も家族も仕事も才能も教会も牧師も、牧師にとっては信徒も全て賜物です。神様が全て下さったのです。だから神様だけを誇れば良いのです。
それなのにもらったもの自体を誇っていたのがコリントの教会でした。
誇ると翻訳されていますがギリシャ語では、「カウカオマイ」といって、「頼みとしてよりすがる」、「生きる拠り所とする」という意味がある言葉です。
コリントの教会の人々は自分たちの判断を誇っていたわけですが、それは彼らが結局のところ拠り所としていたのは神様ではなく、自分自身だということ、自分自身の判断だということです。
口では神さまを信じていると言い、その信仰の導き手となってくれた指導者たちをさしてアポロ先生はすばらしい。いやパウロ先生だ。ペテロ先生に決まっているだろうと、派閥同士で言い争っていたのかもしれません。
しかしこれはリーダーたちを偶像化しているという話ではなく、自分自身が王になっているという話なのです。
コリント人への手紙 第一 4章8節には、”あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。‥”と記されています。
創世記3章5、6節において、蛇は、善悪の知識の木の実を食べたら、あなたがたは神のようになると言いました。
その言葉を聞いてエバもアダムも善悪を知る知識の木の実を食べました。
人は神になりたいのです。
神こそ全世界を統べる王でした。
最初の罪の決定打となったのは、私たち人間の王位を欲する心と言えるのではないでしょうか。
この王となりたい思いは色々なもので覆い隠されています。
コリントの教会の人々は、この思いを指導者の偶像化で覆っていました。
しかし実のところ自分たち一人一人が指導者を陳列台にならべて選り好んでいたのです。
彼らは王になっていたのです。
罪を罪で覆い隠していたのです。
こうすることで本当に腐っている部分をわからなくされていたということです。
これが太古の蛇のやり方、アダムとエバを誘惑した蛇のやり方なのです。
もしかすると、今みなさんが思っている自分自身の問題というのは、本当の問題を隠すためにあるものかもしれません。
そしてその本当の問題とは実は自分自身が王になりたいという罪かもしれないということなのです。
“あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。”
コリント人への手紙 第一 4章8節
パウロはここで「わたしたちを差し置いて」と書いています。
つまりコリントの人たちとパウロは違う生き方をしているということがここからもわかるのです。
パウロとは違う生き方、歩みがまさしく王になる歩みです。
自分自身を王に仕立て上げ、自分自身を賢いものとして、自分自身を強いものとする歩みです。
しかしパウロや他の使徒たちはキリストのゆえに王になったりしません。
自分自身を賢いものとしたり、強いものとはしません。
彼はキリストのゆえに自分自身を愚かなものとして、弱いものとしました。
そして王になるのではなく、仕えるものとなったのです。
4章1節には、「このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。」
とあるように、キリスト者は王となるために召されたのではありません。
この世でキリストに仕えるものとなるために召されているのです。
ここで仕える者と翻訳されている言葉は、ヒュペエレテスという語で「奉仕者、助手、下役」という意味ですが、語源からいえば、「ヒュポ」は「下で」という意味であり、「エレテス」は「漕ぐ人」という意味です。
ここから得ることのできる仕える者のイメージは、舟底にいて監督の指示のままオールを動かしたり、止めたりする者です。やめろと言われるまで体全体を使ってひたすら漕ぎ続けます。大変な苦役です。主人のもとにいてその命令のままにつらい仕事にあたるのです。それが仕える者です。
そしてまさにパウロがそのような歩みをしていたのです。
4章11~13節にはパウロがどんな生き方をしていたか記されています。
“今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。”
その歩みは、この世の人には、ちりのようであり、人間のくずのように見える歩みでした。
しかしパウロはその歩みを何よりも価値あるものとしました。
もし周囲の人々が「お前の人生はクズのようだ」と言っても彼は生き方を変えなかったでしょう。
なぜならキリストという主人の舟に乗っているからです。その舟は確実に正しい目的地へと行くことのできる舟です。主人であるイエスキリストがその目的地をご存知だからです。パウロは主人が目的地を知っていることを知っていたのです。
だから彼は人から何を言われてもその生き方を変えませんでした。こうしてパウロはキリストに仕えるという生き方を生涯続けたのです。
それとは対照的にコリントの人々は満腹し、富み栄え、王になっていました。
しかし彼らの乗っている舟には本当の主人がいません。どこへ向かっているかも自分でわかりません。
大変不安な舟です。
偽物の王として生きる者と本当の王に仕えるもの。
わたしたちはどちらになって生きているでしょうか。
今日の御言葉はそのような対比をはっきり見せてくれるところです。
王様のようになっているでしょうか。
それとも仕える者として生きているでしょうか。
みなさんは、一体今どんなことに悩んでいらっしゃいますか。
その悩みが今のみなさんにとって重要であり深刻なことだということは間違いないでしょう。
ただ今日の聖書の内容を通して見たとき、果たしてその問題はみなさんの本当の問題なのでしょうか。
コリントの教会の人々の表面的な問題は、教会の中にあった派閥闘争でした。だれがもっとも優れたリーダーかということで彼らは争っていました。
しかし本当の問題は彼らがみんな自分の思う通りに行動していたことなのです。つまり教会のみんなが自分が王になろうとしたことが問題だったのです。
そしてその問題は最初の人類であるアダムの時から始まった非常に根深いものなのです。
今日はまた一度自分自身の心に目を向けてみてください。
最後に4章14節を共に読んで終わります。
“私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。”
本当の問題は一体なにか問いつつ祈り求めるみなさんでありますように。