イースター礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書3章1〜5節 タイトル:復活に生きる "さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。" ヨハネの福音書 3章1~5節 序 今日はイースター礼拝、イエスキリストの復活を記念する礼拝です。 イエスキリストは十字架にかかられ死なれましたが、三日目に復活し弟子たちの前に現れました。この出来事は、十字架の死が敗北ではなく、勝利であったことの証明です。神のご計画の通りに、神の御子イエスキリストはこの地上に来られ100%神様の言葉に従い、神の御心の通りに、十字架へとかかり殺されました。それは私たちの救いのためでした。そしてキリストは死を打ち破り三日目に復活されました。そして弟子たちの前に現れ、さらに弟子たちの目の前で天に昇っていかれました。今もイエスキリストは生きておられます。 今日はイースター礼拝ですので、イエスキリストの復活に関するお話ですが、特に私たちの内面との関連で、復活の話をしたいと思います。 1 ヨハネの福音書3章1〜5節の概略 この箇所は、ある夜のことイエス様のもとにユダヤ人の指導者であるニコデモという人がやってきた時のことについて書かれています。 ニコデモはイエス様に何かを聞きに来たようです。 それを察してイエス様は答えました。 "「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」"(3章3節) するとニコデモは、年をとったものが、もう一度母親のお腹の中に入って、また出てくるなんてことはできないでしょうと言いました。 イエス様はご自分が言ったことを理解できていないニコデモに対して再度言いました。 "「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。"(3章5節) 今日の箇所は大体このような流れになっています。 ニコデモという人とイエス様の対話です。 この中に大切な言葉が記されていますので、いくつかピックアップしてお話しします。 2 3節の説明 まず3節のイエス様の言葉の説明からお話します。 ⑴3節の最後のところに注目してください。 ここには「神の国を見ることはできません」と記されていました。 この神の国とは死んだ後に行く天国のことも含まれる言葉だと思いますが、神の国というのは、神の統治のことです。王である神がおられ、その王の言葉を忠実に聞く民がいる状態のことです。ですからこの世界を去る前であっても、私たちが神の言葉を聞き、それに従うならば、神の国に生きるているということができます。 しかし神の言葉を聞いてそれに従うことは簡単なことではありません。 ニコデモもそのことをよく知っていたのだと思います。 民の指導者でありながら、行き詰まりを感じた彼は、答えを持っているイエスキリストのもとにやってきました。 するとイエス様は、新しく生まれなければ神の国に生きることはできないと言いました。 神の国に生きることができていないニコデモにとって必要な言葉をここで語っておられるということができます。 新しく生まれたら、神の国に生きることができる。 つまり神の言葉を聞いてそれに従って生きていける方法をイエス様はここで伝えているのです。 ⑵ではこの新しく生まれるとは一体どういう意味なのでしょうか。 「新しく」と翻訳されている言葉は、本来アノウデンというギリシャ語です。この言葉には「上から」や「もう一度」という意味があります。 つまり新しく生まれるというのは、上から生まれることであり、もう一度生まれることということができます。 「上から」生まれるというのは、この地上の何かによってではないということです。上からというのは、つまり天から、神から与えられるものだということ、恵みによるものだということを意味しています。 では「もう一度」とはどういうことでしょうか。 私たちはすでに一度生まれています。 私たちそれぞれこの世界に誕生しました。 しかしこの一度目の誕生というのは、アダムの子孫としての誕生です。 生まれた時から、罪の中にいて、死を抱えた状態にあります。 イエス様はそのままでは神の国に生きることはできないと言われました。 つまりそのままの状態では神の言葉に従って生きることはできないということです。 ではどうすれば良いのか。 それがもう一度生まれるということなのですが、このもう一度生まれるという言葉の意味は、アダムの子孫としての自分の死を意味しています。 一度私たちは死ななくてはいけないということです。 その上でもう一度生まれなくてはいけないのです。 つまり新しく生まれるというのは、一度死んで復活することを意味する言葉なのです。 しかしこんなこと私たちにはできません。 だからニコデモも意味が分からなくて、もう一度母親のお腹の中に入って出てこいということですかと、ありえない質問を4節でしているのです。 では私たちはこのイエス様の言葉をどう理解したら良いのでしょうか。 一度死んで復活するなんてことは私たち人間にはできません。神様にしかできないことです。だから神の御子であるイエスキリストがこの世に来られて死んでよみがえられたのです。 そしてそれを私たちに起きたこととしてくださいました。 どのようにしてでしょうか。 聖霊によってです。 聖霊が私たちに臨み、私たちの内に住んでくださる。この聖霊がキリストと一体の方で、キリストと私たちを一つにしてくれる存在です。だからキリストの死が私たちの死となり、キリストの復活が私たちの復活となるのです。 このことをガラテヤ書2章20節の「私はキリストとともに十字架につけられました。」という言葉の光に照らすと、キリストが十字架にかけられ死んだ時に、私たちはこのキリストの内にいたということが言えます。そして彼が三日目によみがえられた時に、私たちもキリストとともによみがえったということができます。このことが聖霊によってもたらされ、真にアダムの子孫としての私が死んで、キリストにある新しい命に生きるものとされました。これが新しく生まれるということです。 これがなければ神の国に生きることはできません。神の言葉に従って生きることはできないのです。 このことをイエス様はさらに詳しく5節で語ってくれています。 3 5節の説明 ここでイエス様は新しく生まれる方法について語っています。 「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」 御霊というのは、聖霊のことですが、この箇所は旧約聖書のエゼキエル書との関連が深い箇所ですので、エゼキエル書を開きながらお話します。 "わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。" エゼキエル書 36章25~27節 イエス様は水と御霊によって生まれる必要があると言っていますが、この水がエゼキエル書では、きよい水となっています。このきよい水が上からふりかけられる時に、つまり私たちの力ではなく、天からの恵みによって与えられるときに、汚れがきよめられるというわけです。それがどんな汚れなのかというと、偶像の汚れだというわけです。 偶像というのは、狭い意味では、金属や木などで作った神々などの像を意味しますが、広い意味では、神様以外を一番にする姿勢のことです。つまり人によってそれがお金になることもあれば、地位や名誉や人からの評価などになることもあります。そのようなものを一番にしてしまうことが偶像の汚れなのですが、それが主から与えられるきよい水によって、きよめられるということです。つまり神を第一にできない心が変えられて神を第一にする心となることを意味します。 また聖霊が私たち一人一人に臨まれ私たちの内に住まわることによって、私たちはイエスキリストと一体とされます。エゼキエル書では新しい霊と記されていますが、これは聖霊のことです。この新しい霊が与えられる前は、石のように硬く神の言葉を聞くこともありませんでしたが、新しい霊が与えられることによって、つまり聖霊がのぞむと神の言葉に従う心に変えられていきます。 そしてそれは神の掟、つまりみことばに従い、御言葉を守る生き方へと変えられるということです。 これが水と御霊によって生まれるということです。 聖霊によってイエスキリストと一体とされて、十字架に死んで復活したものとなって、新しい心が与えられるのです。そしてそれが神のみことばに従う心であり、神の言葉に従う生き方こそ神の国に生きることなのです。 4 ⑴ですから、この事実を私たちは日々信じ受け入れて生きていけば良いということなのですが‥‥これは自分自身を言い聞かせるということではありません。 イエス様の死が私の死で、イエス様の復活が私の復活で‥‥だから私は新しくされたもので‥‥という風に無理に信じようとすることは、ただ自分を言い聞かせるだけで、外側は変えられても内側は変わりません。 なぜ自分が神様に従うことができないのか。なぜ神さまに信頼できないのか。これを考えて見ることが大切です。 私たちの心は、これまでの人生のあゆみの中で形成されてきたものです。 急にできたものではありません。 数々の経験の中で、今の私たちの心は形作られてきました。 その中で神様に信頼して歩めた時もあったかもしれませんが、神様に信頼できず、御言葉に従う生き方を選択できなかったという経験、この積み重ねによって、ある思いが形成されてきたのではないでしょうか。それはどんな思いなのでしょうか。どうせ自分は変わらないという思いではないでしょうか。 ニコデモが行き詰まったのはそこなのでしょう。 彼は民の指導者です。 外側は取り繕うことはできたはずです。 しかし自分の内側に渦巻く凄まじい罪の力に圧倒されて、どうにもならなかったのでしょう。 それでイエス様のもとにきて、どうしたら良いのか聞きたかったのです。 ⑵私たちの心の中に渦巻く罪の嵐は、いくつもありますが、その中の一つをたとえにあげてお話します。 みなさんは誰かに評価されたいですか。 これは、誰かの評価を一番にして、神様の言葉ではなく、その誰かの評価を基準にして生きる生き方です。 この生き方を神様は喜ばれないし、私たちも心縛られて苦しい思いをします。 しかしなかなかここから自由になれないのが人間です。 この評価を気にする心をコインに例えると、一方の面は劣等感ですが、もう一方は優越感です。 誰かが自分よりも低い評価を受けているときは、優越感が表になり、誰かが自分よりも高い評価を受けていると劣等感が表になります。 そしてこのコインを持っているのが、もともとの私なのです。 聖書では古い人といったりもします。 アダムに属する人のことです。 イエスキリストが十字架で背負って死んでくれたもともとの私です。 これがこのコインを握りしめています。 一度捨てたものをまたゴミ箱から出して拾ってくるように、私たちはいつの間にか、古い自分が起き上がりそれを握っているという現象を発見します。 でもこれはイエスキリストが死ぬことによって捨てることができたものです。 取っておいても何の役にも立ちません。むしろ私たちを縛り苦しめるものです。拾ってこなくて良いのです。 イエスキリストが死んでよみがえられたのは、ここから私たちを解放するためだったということをもう一度心にとどめたいと思います。 5 十字架に死んで復活されたイエス様が弟子たちの前に三度目に現れた時のことです。 ペテロたちは漁に出ていました。 彼らがキリストの弟子になる前にしていた職業です。 キリストを裏切り、自分自身に絶望した彼らは、前職の漁師の仕事で何か結果を出そうとしたのかもしれません。せめてそれで自分を納得させて評価したかったのではないでしょうか。しかしそれなのに、得意なはずの漁でもうまくいきません。 夜通し漁をしましたが、全く何も取れませんでした。 真っ暗な水面は、まるで彼らの暗く沈んだ心のようでした。 しかしそこに朝日が差し込んできたと思ったちょうどその時、岸辺から声が聞こえました。何か取れたかとその人は聞きます。 弟子たちは何も取れませんでしたと答えました。 するとその人はプロの漁師である彼らに向かって、舟の右側に網を下ろしてみなさいと言いました。弟子たちがその言葉に従ってみるとなんと大量の魚がかかりました。ヨハネはその声の主がイエス様だということに気づいてあれは主だと言いました。すると、ペテロは急いで湖に飛び込み、一番乗りで岸辺に到着しました。するとそこには弟子たちのために朝食が用意されていました。 イエス様は、裏切った弟子たちを、何も言わずに食事でもてなし受け入れてくれました。 弟子たちは自分の存在価値をいつも証明しようとして必死でした。しかしそんなことしなくて良いのだとイエス様はここで教えてくれているようです。 食事だって弟子たちが用意したのではありません。魚が取れたのも、弟子たちの知識や技術によってではありませんでした。ただ主がしてくださったのです。弟子たちは主の言葉に従い行動しただけでした。 クリスチャンの生き方というのは、こういうものなのではないでしょうか。 何もしなくて良いというわけではありません。 糧を得るために働くことは必要でしょう。 しかし全部主が準備してくださっているのです。 その声に耳を傾け心を向けてその声に従っていくときに、私たちの心はこの束縛から解放されていきます。そして人生も開かれていくのです。 今日はイースターです。 イエスキリストの復活を記念する日です。 しかし復活の前には死があります。 死があって初めて復活があります。 私たちも以前の自分に死ぬことです。 その先に復活があります。 自分に死ぬというのは、自分の最善を自分が知っているという古い自分の死です。神様よりも私という心の死です。 そうして自分の最善は神様が知っているというところに生きるのです。 これが復活であり新しく生まれることです。 そしてこれが神の国に生きること。天国に生きることです。 今日がみさなんの復活の日となりますように。