主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書23章34〜43節 タイトル:イエスキリストのたしかさ 皆さんは自分の本当の姿が現れる瞬間はいつだと思われますか。 人は多くのアクセサリーや仮面をつけて生きているように思います。 しかしどんな人もこれら全てを外さなくてはいけない時があります。 それは死に直面した時です。 そこにはもはや自分をよく見せたりする余裕もありません。 今日のお話には、死に臨んでいる3人の人が出てきます。 死に臨んで、仮面を外し、本当の姿が現われてくるとすれば、この3人の人の素顔とはいったいどの様なものなのでしょうか。 そしてこのお話は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。 1 ⑴まず一人目はイエスキリストです。 彼は神の一人子であるにもかかわらず、その王座を惜しまずにこの地上に来られ、100%神でありながら100%人としての生涯を過ごされました。 30歳まで大工として過ごし、家族を養い、その後神の教えを伝えるものとして3年半生き、今日の聖書の箇所では、十字架にかけられて命を断たれようとしています。 彼はこの時まさに死に直面しているわけです。 その十字架で語られた最初の言葉が「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」でした。 死に直面して本当の姿が現れるとするなら、イエスキリストの本当の姿はまさに私たちを救うため、とりなすため、ゆるすために来られた救い主だったということができます。 イザヤ書53章にはこう書かれています。 "しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。" イザヤ書 53章5~8節 イエスキリストは、この旧約聖書の預言の通りに生き、そして死んだ救い主でした。 十字架にかけられても、恨み言ひとつ言わず、罵られても言い返しませんでした。 そればかりか、十字架上でゆるしを祈られたのです。 彼はまさに旧約聖書に記された救い主でした。 ⑵では二人目はどうでしょうか。 イエス様の隣で十字架にかけられた死刑囚です。 彼はイエス様にこう言いました。 「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」 彼はどうしてこんなことを言えたのでしょうか。 キリストだとは信じていない彼が、イエスをキリストというのは、嘲り以外の何ものでもありません。 何か周囲の言葉に影響されるように、イエス様を嘲っているようにも見えます。 死に直面して本来の姿が現れるとするなら、この死刑囚の本来の姿とは一体どういうものなのでしょうか。 目の前に神の一人子がいても気づかず、周りに流されて嘲りを重ねてしまう。そんな姿こそ彼の本来の姿でした。 そしてこれこそまさに人間の姿ではないでしょうか。 自己の罪を認めず、他人を非難することに忙しい。 それは死に臨んでも変わることなく、それどころか、いよいよ激しさを増すのです。 そしてその非難の矛先は神の一人子にまで及びます。 ⑶ では3人目はどうでしょうか。 この人も先ほどの人のように自らの罪のために死刑になった人です。 しかし先ほどの人とは正反対のことを語ります。 "ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」" ルカの福音書 23章40~41節 この人はまず先程の死刑囚の言葉をたしなめて言いました。 「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。」 そしてさらに自分の罪についての話しに及びます。 「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」 そしてイエスさまに罪がないことにまで彼の言葉は及びます。 「この方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 どうしてこの人は、先程の囚人とは違う思いになったのでしょうか。 ひょっとすると、尋問されるところや鞭打たれるところを牢屋から見ていたのかもしれません。 ひょっとすると、それ以前にイエスさまを知っていたのかもしれません。 しかし決定的に彼を変えたのは、あの祈りを聞いたからではないかと思います。 私はこの箇所を初めて読んだ時、イエスキリストの愛の大きさに心震えました。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 この祈りを間近で聞いた時に、この囚人も感動をおぼえたのではないでしょうか。この方こそ人をゆるし救うためにこられたメシアであると信じたのではないでしょうか。 こうしてこの囚人は次にイエスさまに語りかけます。 "そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」" ルカの福音書 23章42節 彼はイエスさまに自分を救ってくれるように頼むわけです。 この祈りもわたしたちクリスチャンの祈りを代表するような祈りになっています。 わたしたちは単独では決して天国には入れません。 ですからここでこの囚人はわたしを思い出してくださいと祈っているのです。 主のあわれみにすがりつく祈りです。 自分はあなたに忘れられても仕方がない罪人ですが、どうかあなたの慈悲をお与えください。わたしを思い出してください。 こういう祈りなのです。 本来わたしたちもこのような祈りしかできないものです。 自分が罪人であるということがわかればわかるほど、ただ主にすがりつくしかない存在だと言うことがわかってきます。 そしてこの祈りへの答えが43節でした。 "イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」" ルカの福音書 23章43節 「まことに」とイエス様は言われます。 「まことに」と翻訳されてはいますが、ここでイエス様が語られたヘブライ語は私たちにとっても、馴染み深い言葉、アーメンという言葉です。 この言葉は私たちが祈りの最後に毎回言う言葉ですが、決して終わりの合図ではありません。 「たしかにその通りです。今祈ったことはたしかにそうです。偽りはありません。」という意味があります。 何よりこの言葉は祈りの言葉として用いられるだけでなく、今日の御言葉のようにイエス様が語られる時に使われていた言葉でした。 つまり本来アーメンには、イエス様だけが用いることが出来る言葉の確かさがあるということなのです。 今わたしが言うことは100パーセント間違いがない確定したことです。 このような意味でイエスさまはアーメンから始めておられるのです。 わたしを思い出してください。というすがりつくような祈りに対して、アーメンで答えられるイエスさまは、彼の祈りが100パーセント間違いなく叶えられると断言されたのです。 そして今日わたしとともにパラダイスにいるとまで言われたのです。 祈りはすでに聞き届けられ、すでに成就したということです。 2 この聖書箇所はキリストと共に十字架にかけられた罪人こそ私であるというところから出発することが大切です。 本来であれば先に登場した囚人のように、そこでただ死んでいくだけのものだったにもかかわらず、イエス様が先にゆるしを祈られたが故に心変えられ、信仰告白するこの死刑囚のようなものとなったと知る時に、はじめてこの箇所の意味が見えてきます わたしたちもそれぞれいつの日かこの世を去る時がやってきます。 その時のわたしたちの祈りは一体どのようなものになるでしょうか。 死にいたるほどの病や怪我であるなら、それはもう想像を絶する痛みであるはずです。 その中で私たちができることは、ただ主にすがりつき祈ることだけです。 ただひたすらに神のあわれみにすがりつくしかありません。 イエスさまどうか思い出してください。 このようなものですが、どうぞあわれみ、お迎えくださいとしか言えないのではないでしょうか。 私たちは、日々歩んでいく中で、少しずつキリストに似たものに変えられていく者ですが、この地上においては完全に変えられることなく、いつかこの世界を去る日がやってきます。不十分なまま、この世を去るのです。 しかしそんな私の祈りにイエスさまは今日の御言葉のように答えてくれるのです。 アーメン。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいる。 わたしは、「わたしの人生は間違いがなかった。本当に確かなものだった」とは到底言えません。 しかし主がそれでもアーメンと言ってくださるのです。 あなたの人生は間違っていなかった。本当に確かな人生であった。 なぜならあなたはいつもわたしと共にいたではないか。 あなたのためにかかったこの十字架があるではないか。 もうすでにあなたはわたしとともにパラダイスにいるのだ。 このように断言しくださるのです。 今日もまた私と皆さんにアーメンと言ってくださる主がおられることを感謝します。