https://youtu.be/GAaSjxDsqz4 主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルツ記1章19〜2章20節 タイトル:はからずも "それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか」と言った。 ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」" ルツ記 1章19~21節 先週はルツ記の1章18節まで見ました。 今日はその続きを見ていこうと思います。 ベツレヘムが飢饉となり外国のモアブへと移り住んだエリメレクという人と、その妻のナオミ、そして二人の息子がいました。しかしナオミの夫のエリメレクはそこで死んでしまいます。息子たちは現地の女性と結婚し5人家族になりますが、約10年後にこの息子たちも死んでしまい、ナオミと二人の嫁だけが残されました。 そんな折に飢饉だった故郷のベツレヘムを神が顧みてくださり食物が取れるようになったことを知ってナオミは故郷へと向かいます。途中嫁たちに実家に戻って再婚相手を探すように強く勧めたナオミでしたが、二人の嫁のうちの一人ルツはどうしても帰ろうとせず、共にベツレヘムへと帰ってきました。 「あなたの神は私の神」というルツの言葉から、すでにルツには神を信じる信仰が与えられていることがわかりました。 1 今日はこの二人がベツレヘムに到着したところから見ていきます。 ベツレヘムにつくとナオミとルツのことで人々が騒ぎ出しました。 その中にはナオミの名前を呼ぶ人もいました。 しかしナオミは「私をナオミとは呼ばないで、マラと呼んでください。」と言いました。 ナオミとは快いという意味ですが、マラとは苦しみという意味です。 ナオミの人生に起きたことはとても快いと言えるものではありませんでした。だから彼女はもうマラと呼んでほしい苦しみと呼んでほしいとさえ言ったのです。 この箇所は彼女の哀しみの歌、哀歌と呼べる箇所です。 彼女にとって、夫を失ったことも息子たちを失ったことも本当に苦しく悲しい出来事でした。当然このことだけでも十分苦しいわけですが、さらに大きな問題としてナオミの前に残されたのが、彼女が神を信じる人であったことと関連しています。神を信じる人であったことの何が問題なのでしょう。それは神が最善であるにもかかわらず、自分が神を信じるものであるにもかかわらず、夫と息子が死んだことです。このような場合、私たち人間はどこかに原因を探します。ひょっとしてあれがいけなかったのではないか。これがいけなかったのではないか。何か理由を探しては、それが原因で悪いことが起きたのかもしれないと納得しようとします。しかし実際は悲惨な出来事とその人個人の善悪は関係がありません。もし善人と呼ばれる人の人生が順風満帆で、悪いことをしている人の人生が困難ばかりであれば、そのように説明することもできるかもしれませんが、そんなことはないのです。 ですからナオミもこう言っています。 "ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」" ルツ記 1章20~21節 ここには、ナオミの苦い思いが色濃くあらわれています。 しかし特定の罪のために自分にこういうことが起きたとは言いません。 ただ神のゆるしがなくては、どんなことも起きないという前提に立って語っているに過ぎません。 ナオミもどうして自分にこんな不幸がやってきたのかがわからないのです。 聖書もこのことに答えてはいません。 ですから私たちもどうしてなのかわかりません。 突然の事故や病気、自然災害で家族が失われた時、私たちはその理由を知ることはできません。 ただ神のゆるしなしには起こり得ないことだということだけが残ります。 ナオミはまさにそのような状態でした。 非常に大きく重い難問をナオミは抱えたまま故郷に戻ってきたのだと思います。 しかし神はナオミをそのままにはしません。 これから空っぽの状態になってしまったナオミに神は祝福を注いでいかれます。 ナオミはこの神様の祝福を味わうたびに、下を向いていた顔を上へと向けることができるようになっていったのではないでしょうか。 そしてこの神様の祝福の通路として用いられたのが、嫁のルツであり、ルツと結婚することになるボアズでした。 続きを確認していきます。 "こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。" ルツ記 1章22節 "ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。 モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで」と言った。 ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。 ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。 ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」 刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。 彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。 刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」 ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。 主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」 彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」 食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。 彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。 それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」 こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった。 彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。 しゅうとめは彼女に言った。「きょう、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女はしゅうとめに自分の働いてきた所のことを告げ、「きょう、私はボアズという名の人の所で働きました」と言った。 ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」" ルツ記 2章1~20節 2 はからずも ⑴ナオミとルツがベツレヘムに到着するとちょうど大麦の刈り入れが始まった頃でした。 やもめ二人が暮らしていくためにルツは落穂を拾って生計を立てることを考え、ナオミもそれを了解して送り出しました。 そしてルツが落穂を拾いに行ってみるとそこは「はからずも」エリメレクの親類のボアズが所有する畑でした。 ボアズは未亡人のルツが働きやすいように最大限のもてなしをして守ります。 ただこれはボアズが単に良い人だったというわけではありません。 彼は御言葉に忠実な人でした。 申命記24章19節にはこのように記されています。 "あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。" 申命記 24章19節 ボアズはこの神の言葉を守り、やもめであり外国人でもあるルツに最大限のもてなしをしたのです。 ルツは、「はからずも」エリメレクの親類であり、御言葉に忠実なこのボアズという人のところで落穂を拾い集めることになりました。 ところで、このルツ記という書の特徴の一つに、神様が前面に出てこないということが挙げられます。 創世記などには神が直接こうしたとか、ああしたという出来事が記されています。 また出エジプト記もそうです。 他の書にも神が登場したり御使いが登場します。 しかしルツ記には全くと言って良いほど神が登場しません。 では神が働いておられないのかというとそうではありません。 神が働いておられるとは直接的には言いませんが、まさにこの「はからずも」というところに神の働きが表されているのです。 ルツもナオミもボアズの畑で落穂ひろいをすることを計画していたわけではありません。 しかしルツはボアズの畑で落穂拾いをすることになり、大変多くの恩恵を受けることになるのです。 これが神の導きでなくてなんでしょうか。 神の導きによりナオミとルツは大麦の刈り入れ時にベツレヘムに到着し、神の導きにより、ルツはボアズの畑にやってきました。 そして神の導きにより、ルツがちょうど働いていた時に、ボアズが畑の様子を見にやってきました。 他の畑に行かないようにボアズが計らっているところを見ると、落穂拾いをする人たちは同じ畑にとどまらず、色々なところをまわるのが普通なのでしょう。 とするならば、ボアズがやってきたのがもう少し遅ければルツはボアズと会えなかったのです。 そしてこのボアズこそ、エリメレクの親類であり、20節を見ますと、買い戻しの権利を持つ人だったのです。 この買い戻しの権利とは、この地域の家を守る制度でした。 もし一家の主人が妻や土地を残して死んだ場合、この買い戻しの権利のある者が、その土地を受け継ぎ、未亡人と結婚しその家族を守る責任があるというものです。 それがなんとボアズだったのです。 すべてが神の導きによるものでした。 ⑵ 神様がその大きな御手でこの世に奇跡を起こし、神が働かれたとはっきりわかる形で働かれることもあります。 しかし神はそういう時だけ働かれているのではありません。 常に私たちと共におられ、私たちを祝福しようとしておられる方です。 空っぽな人生に祝福を注ぎたくて仕方ない方です。 ただしその方法はいつも私たちの目に見える形ではありません。 今日の聖書のように、私たちの「はからずも」の後ろで働いておられるのです。 みなさんそれぞれに、この「はからずも」があるはずです。 どうぞそこに神の導きをおぼえてください。 神はそういうところに働かれて、ご自身の栄光を表され、私たちが神を見上げることができるようにされるのです。 そしてこのことを通して、私たちの人生を祝福で満たしていかれるのです。 3 勤勉な人ルツ ただし、このことは私たちが何もしなくて良いという意味ではありません。 先週は恵みを強調して最後お話させていただきましたが、今日はその恵みを受け取って行動することにも注目したいと思います。 ルツは神様からの恵みを受け取って全力で行動しています。 落穂拾いというのは、当時外国人で、やもめであったルツができる唯一のことだったのでしょう。 それをルツは自らナオミに進言して行動しています。 ここにルツの行動力が見えます。 ナオミはそのルツの言葉を了解したに過ぎません。 そしてルツは実際に畑に出て落穂ひろいをしました。 そしてとにかく一生懸命働いたのです。 ボアズが現場を任せていたリーダーに「あの娘は誰か」と尋ねた時、そのリーダーは「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘」だと言った後に、聞かれてもいないのに、「朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いてい」るという情報まで伝えました。そうしたいと思うほどにルツが勤勉に働いていたということではないでしょうか。 ナオミとルツはベツレヘムでの生活のために共に祈りながら生活していただろうと思います。 その中でルツは自分ができる最大限の働きをしました。 すると、そこに「はからずも」で表現される神の導きがあったのです。 私とみなさんにもルツのような勤勉さと行動力が備わりますように。 その先に、私たちがはからないところで神は働かれます。 そこに、わたしたちを満たす神のさらなる祝福があるのです。 これが神様の方法です。 どうぞみなさん、それでも辛くなった時には、ルツに対するボアズの言葉に注目してください。 そしてルツに自分自身を当てはめ、ボアズにイエス様を当てはめて黙想してみてください。 ボアズの特徴は御言葉に忠実であることです。 イエス様はその御言葉そのものです。 ボアズの姿にイエス様の姿が見えるはずです。 イエス様はどんな時も変わらない調子で、この時のボアズのように私たちを気遣い配慮してくださる方です。 私たちがもしイエス様の畑にいるとするなら、つまりイエス様と共に生きているなら、それはこのボアズの畑でルツが働くようなものです。 いつも暖かい視線を受けて、私たちの先回りをして、準備していてくださいます。 私たちはこの視線があるから、上を向いて生きていけるのです。 ルツ記の最後はハッピーエンドです。 しかしそれはエリメレクの家としてのハッピーエンドです。 またそれはイスラエル民族全体の回復を代表しているとも言えます。 しかしナオミやルツ個人レベルで見ると、決して全ての問題が解決したわけではありません。 当然ですが、エリメレクは死んだままですし、ルツの前の夫もそうです。 どうして私にこんなことが起きたのだろうという課題は残るのです。 しかしその傷跡を埋めるようにして新たに祝福を主が与えていかれるのです。 こうして私たちは生きていくのです。 信仰を持って生きるというのはこういうことなのです。 信仰を持てば綺麗さっぱり全てが解決するというわけではありません。 しかし確かなことは主が私の人生に祝福を注ごうとしておられるということです。この祝福とは何よりイエス様を知るということです。 そして私たちが主を信頼し行動を起こしていくときに、そこに「はからずも」があるのです。 神はこうして私たちを導いていかれるのです。 そして今よりももっとイエス様のことがわかるように私たちを変えていかれるのです。 祝福をお祈りいたします。