主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き22章30節〜23章11節 タイトル:イエスをあかしする者の歩み 1 序 先週は使徒の働き22章から、この世で神の民として生きるというタイトルでお話ししました。 宮にいたパウロを引きずり出して殺そうとしていたユダヤ人たちと、そんなパウロを救い出したローマ兵たちが登場しました。 彼らはそれぞれ自分たちにとって大切なもののために行動していました。 ユダヤ人たちはユダヤの国そしてその慣習を第一にしていました。ローマ兵たちはローマ帝国とそのルールを一番に行動していました。そして彼らはいずれも慌てふためいたり、怒り狂ったりして、自分たちが大切にしているものをなんとしても守ろうとしていました。彼らの心の中には自分たちの大切なものが奪われてしまうのではないかという不安があったのだと思います。 一方パウロはどうでしょうか。どんな状況になっても慌てふためくことなく、ただ自分がすべきことを実行していました。それはイエスキリストの福音を伝えるということです。彼はまさにこの世で神の国の民として生きた人でした。 このことは彼自身も認めるところでした。 2 ストーリー 今日の聖書箇所の冒頭部分でパウロはこう言っています。 “‥「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」" 使徒の働き 23章1節 生活すると訳された言葉は、「私たちの国籍は天にあります」という時の「国籍」と同じ語根で、市民権を持つものとして生きるという意味です。つまりパウロはここで神の国の民として自分は真っ当に生きてきたと語っているということです。 これに対して怒りを露わにしたのが当時の祭司長アナニヤでした。 彼はパウロのそばにいる人に対してパウロの口を打てと命じました。 しかしこの集会はユダヤの法に則って行われた正式なものではなく、あくまでも異邦人であるローマの千人隊長の要請によって集められたものです。しかも有罪が確定するまでは、被告人は罰を受けることがないというルールもありました。 それでパウロは3節のように反論しました。 "そのとき、パウロはアナニヤに向かってこう言った。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」" 使徒の働き 23章3節 「白く塗った壁」とは、倒れそうになっている壁に外側からしっくいを塗って、危険な状態を隠していることです。これは一見すると堂々としていても、実のところはぼろぼろで倒れそうだという意味で、アナニヤに対する痛烈な批判でした。 この言葉に驚いた周囲の人々は、パウロに向かって「大祭司をののしるのか」と言います。 これに対してパウロは5節のように言いました。 "「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない』と書いてあります。」" 使徒の働き 23章5節 この箇所を見てある人はパウロは視力が悪くて本当に大祭司だとは分からなくて言ったと考えたようですが、そもそも相手が大祭司でなくても、サンへドリンと呼ばれる最高議会のメンバーであることにはかわりありません。パウロの目の前にいるのは民の指導者たちなのです。 つまりアナニヤが大祭司であろうとなかろうと関係がないのです。 ここでパウロは暗に言っていると考えることができます。 ユダヤの法による裁きが行われてもいないのに頬を叩かせる者など指導者なはずがないと。 ですからこの箇所はパウロなりの皮肉であろうと思います。 ここまで見てくると、パウロとユダヤの人々との対立がよくわかります。 前の日までは何とかして福音を伝えようとしていたパウロでしたが、いよいよここでは衝突は避けられないことを知って彼も戦闘態勢を整えているようです。 しかしこの次の節からまたパウロがユダヤの人々の考えに風穴を開けようと試みる姿が見えます。 "しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」 彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。 サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。 騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、「私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかもしれない」と言った。 論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。" 使徒の働き 23章6~10節 ここまでと方針転換をしたパウロの姿がここから描かれます。 パウロはこの時、復活信仰を持ち出してパリサイ人とサドカイ人との議論に持ち込みました。 この箇所はパウロが一計を案じて議会を混乱させて裁判をローマで受けられるようにしたと言われることもありますが、果たして本当にそうなのだろうかと思います。 前回一緒に見た聖書箇所でもそうでしたが、パウロの心は福音を伝えることで一杯でした。そこにはいつもブレがない人でした。 ですから少しの隙間さえあればそこに入っていき福音を伝えるための一石を投じようとするのではないかと思うのです。 実際この論争によってもともと復活は信じていたパリサイ人たちから、ひょっとしたら霊か御使いがパウロに語りかけたのかもしれないと言う人まで現れました。 こうして論争がどんどん激しくなっていったので、パウロが引き裂かれるかもしれないということで、ローマ兵たちがまたパウロを保護し兵営へと連れていきました。 今日のストーリの流れは大体このようなものです。 3 さて、エルサレムに来てからのパウロの行動に関しては、とてもムラがあるように見えるので、読む人によって色んな解釈ができるところです。 いくつかの註解書を見ましたが、どれも興味深いものでした。 ただ私は、パウロがエルサレムに入る前に人々の前で言った言葉を軸にしてエルサレムの行動を見ていきたいと思っています。 その言葉とは“‥私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」”(21章13節)という言葉です。 パウロは元々ローマに行きたいと思っていましたし、この時もそれは変わりはないのですが、それでももし神がエルサレムで死ななければいけないと言われるのであれば、私は死ぬという信仰告白の言葉です。 パウロは決死の覚悟を持ってエルサレムに入ってきました。 ローマに行くためにイエスの名を出し惜しみなどはしませんし、どうやったら安全にローマまで行けるだろうかなどという策略を思い巡らしているようにも見えないのです。 彼はもっと単純な人だったのではないでしょうか。 ただイエス様のことだけを思い、その福音を伝えることに邁進した人だったのではないでしょうか。 だからこそ主はパウロに11節のように言ったのだと思います。 "その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。" 使徒の働き 23章11節 パウロのエルサレムでの日々は緊張の連続でした。 そして宮での衝突からは暴動につぐ暴動でした。 側から見ているととてもイエスキリストのことを証したようには見えないでしょう。 実際、パウロの話を聞いて信仰を告白した人たちはいなかったのです。 しかしそれでも主はパウロにこう言いました。 エルサレムでわたしをあかししたようにと。 この言葉だけでもパウロにとっては大きな慰めであっただろうと思います。 周囲の人々は彼のことを認めません。 現代のクリスチャンたちが見ても、この箇所のパウロの評価は分かれるのです。 しかし主はパウロのこのエルサレムでの歩みを見て、わたしをあかししたと言ってくださったのです。 この時のパウロには本当に必要な言葉でした。 11節の冒頭部分を見ればそのことがはっきりわかります。 パウロはこの時、主に「勇気を出しなさい」という言葉をいただいています。 ということはパウロのこの時の状態は勇気とは反対の状態だったということです。 勇気の反対は臆病や恐れです。 彼はこの時、臆病になっていました。 ここまで一心不乱に福音を伝えるために走ってきました。 どんな状況に置かれてもただイエスキリストの御名だけを掲げてきたのです。 しかしあまりにも大きく強く激しい反発がありました。 それで心折れそうになっていたのです。 しかし神はこれまでのパウロの働きを認め励まし、ローマでもあなたはあかしをすることになるという言葉を与えられたのです。 そしてこの後パウロが考えもしなかった形で、彼はローマへと送られることになります。 4 いつもしっかり準備をすることは大切です。 しかしいつも完璧な準備ができるわけではありません。 いつもスマートで滑らかな言葉を使って福音が語れるわけではありません。 エルサレムでのパウロのように激しい衝突までいかないまでも、激しい反発の中、語らなくてはいけないこともあることをこの聖書箇所から教えられます。 韓国の牧師でオクハンフンという方がいました。 オク先生が書いた書籍の中に次のような言葉があります。 「十字架」と「復活」という言葉が、信じる人の口から出るとき、もしそれがたどたどしかったり、論理的でなかったとしても、その言葉の持つ強い力のゆえに、その結果は迫害か救いかのどちらかに分かれます。その言葉は、何ごともなく通り過ぎることはなく、聞く者が救われて立ち返るか、または拒否して歯ぎしりして対抗するかのどちらです。あなたは、それでも福音を語りますか。この世に嫌われるからといって、口をつぐんだまま福音の驚くべき力から目をそむけ、ただ平凡に生きたいと思いますか。自分が救われればそれでいいと思いますか。それとも、この世から嫌われて迫害されても、ひとりのたましいがキリストに立ち返る力を体験したいと思いますか。私たちはどちらかを選ばなければなりません。私たちは沈黙していてはいけません。イエス様を信じる人があちこちで侮辱されたとしても、語るべきことは語らなければなりません。ある指導者が失敗し、ある教会が腐敗し、クリスチャンの半数以上が腐ったとしても、腐っていない残りの人は語らなければなりません。終わりの時だからです。重要なのは、私たちが口を開いて語らなければならないということです。クリスチャンの口から出ることばは、その人のことばではなく神様のことばであり、カあることばであり、聖霊のことばだからです。どんな試練や苦難が襲ったとしても、主が再臨される日まで口を開いて福音を伝える私たちになりましょう。 可能な限り論理的で無理なく語りたいと思います。 でもいつもそれができるとは限りません。 今日の聖書のパウロのように救われる人が起こされるはずもないと思える時でも語り続けることを神はここから私たちに伝えようとしているのではないでしょうか。 そこには反発があり、迫害があります。 パウロに対してもそうでした。 ステパノに対してもそうでした。 何よりイエスキリストがそうでした。 しかし神はそんな愚かとも思えるやり方で、この世界に神の国を広げていこうとされているのです。