主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの手紙第一5章1〜5節 タイトル:信仰シリーズ⑦ 信仰は世に打ち勝つ 1 序 今朝は久しぶりに信仰について分かち合いたいと思います。 信仰とは神を知る知識です。 知識といっても、頭だけで知るのではなく、それに信頼して人生を委ねて生きることまでを含んだ言葉です。 今日はこの信仰によってこそ、この世に打ち勝つことができるというタイトルでお話します。 2 今日はまず4節と5節を先に読みます。 "なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。" ヨハネの手紙 第一 5章4~5節 今読んでいただいた中に「世」という言葉が登場しましたが、これは一体どういう意味でしょうか。 世とは、神がつくられたこの世界のことではありません。 世というのは、神と敵対する力のことです。 神の言葉を聞かず、神を神とも思わず、ただ自分の思い通りに生きる人々、あるいはクリスチャンであっても、神にどうしても明け渡せない領域もこの世に入るかもしれません。 これに私たちは打ち勝つことができると、この聖句は言っています。 どのようにしてでしょうか。 それは4節が言うように、私たちの信仰によってなのです。 さてこれはどういう意味なのでしょうか。 そのことを1節から見ていきます。 3 "イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。" ヨハネの手紙 第一 5章1節 ここには「イエスがキリストであると信じる者」について書かれています。 「イエスがキリストであると信じる者」すなわち信仰を持つものは、神によって生まれたものだというのです。 では神によって生まれるとはどういうことでしょうか。 新しい命が神に与えられて新しい命に生きる者となったということです。 "だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。" コリント人への手紙 第二 5章17節 これは新しい命に生きるとはどういうことなのかを教えてくれる聖句です。 私たちはもともと古い人として生きていました。古い人とはアダムに属する者として罪の中に生きているものです。 しかしその古い人は、イエスキリストの十字架によって死にました。 イエスキリストが十字架にかかったときに、一緒に十字架にかけられたからです。 これは客観的歴史的事実です。これにより私たちは罪の支配から解放されました。 さらにその後、キリストは三日目によみがえられたのですが、この時に私たちは、すでにキリストの中にいて共によみがえりました。つまりこの時に新しい人とされたのです。 だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者だと言いますが、すでに私たちはキリストのうちにあったのです。 そしてこのことを聖霊の働きによって信仰を与えられて信じ受け入れさせてくださったのです。 この信仰がイエスキリストの十字架の出来事と私たちをつなげてくれたのです。 聖霊の働きによる信仰がなくては、いくらキリストと共に死んで甦ったことが事実であろうと、それが自分のこととはなりません。 信仰は人とキリストをつなぐ管なのです。 この信仰という管によって十字架につけられよみがえった事実が私のものとなるのです。 信仰によってこの世に勝つことができる理由は、信仰が私とキリストをつないでくれるからです。 私が私自身の力でこの世に勝つのではなく、キリストの力で私はこの世に勝つことができるのです。 ではキリストにつなぎ合わされた私たちが世に勝つとは一体どういうことなのでしょうか。 それはローマ帝国やヘロデ王がしたような力によっての勝利ではありません。 キリストの力は剣ではないからです。 では一体どのようにしてでしょうか。 この答えを得るには4章20節から見ていく必要があります。 4 "神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。" ヨハネの手紙 第一 4章20~21節 "イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。 私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。" ヨハネの手紙 第一 5章1~3節 まず4章20節21節にある命令についてですが、この命令というのは神を愛する者は、兄弟をも愛すべきという命令です。 そしてこの兄弟を愛するという命令を守るということは、すなわち神を愛していることの証明に他ならないというわけです。 そしてこれこそイエスキリストの勝利の仕方です。 この世は人を力づくで押さえ込んで上に立って勝利を得ます。 恨んで、憎んで、見返してやるという思いをモチベーションにして何かをやり遂げようとするのではないでしょうか。 しかしイエスキリストはそのようなことはなさいません。 だからイエスキリストと信仰によってつながった私たちもそのような仕方ではなく、イエスキリストの仕方でこの世に勝利するのです。 それが信仰による勝利です。 信仰による勝利はイエスキリストの愛で神と人を愛することによる勝利です。 端的に言えば、全ての思いと行動を愛のためにすることです。 ある先生が言っていた言葉で印象深かった言葉があります。 信仰書や神学書を読むときの目的について話してくれていた時の言葉です。 その先生はこう言いました。 どんな信仰書、神学書を読むにしても、愛を目的としないと意味がありません。 愛を目的として読んでください。 知識をひけらかすためではなく、人を論破するためでもなく、ただイエスキリストの愛で仕えるために本を読みなさいという意味だと思います。 そしてこれは本を読むことだけに当てはまることではありません。 日々の私たちの営み全てに当てはまります。 私たちは何のために生きているのでしょうか。 何を目的として日々の生活をしているのでしょうか。 私たちの日々の営みは神を愛し人を愛するためのものになっているでしょうか。 神を愛し人を愛する仕方でこの世に勝利される皆さんでありますように。