召命を受け取り生きる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:エレミヤ書1章1〜10節 タイトル:召命を受け取り生きる “ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。 アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。 それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。 次のような主のことばが私にあった。 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。--主の御告げ--」 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」” この書は今から2500年以上前エルサレム周辺で活躍したエレミヤという人が書いたものです。 彼が生きた時代は激動の時代でした。 今日読んでいただいた1章2節にもありますとおり、ユダの王がヨシヤという非常に敬虔で優れた王がおさめていた時代から、エホヤキム、ゼデキヤという王までの時代を彼は生きました。そしてこのゼデキヤがユダの国の最後の王となりました。この時代にユダの国は滅ぼされ民はバビロンで捕囚生活を送ることになります。 今日はそんな大変な時代に主に立てられた預言者エレミヤが神に召し出された時のみことば、召命の言葉を見ていきます。 1 召命とは 「召命」は神から呼ばれることで、英語ではコーリングと言われます。 クリスチャンであれば皆、召命を受けて、クリスチャンとされ神の子とされています。 召命は、キリストを信じる者へと召され、キリストを証しする人生へと呼び出されることです。 これには定年はありません。引退もありません。 全生涯を貫く信仰の人生を生きる者としての召しなのです。 2 エレミヤへの召命 ⑴今日登場したエレミヤという人はアナトテの祭司ヒルキヤの子として生まれました。 召命を受けた時のエレミヤは、まだ若く一人前の祭司とは言えなかったと思われます。 そんなエレミヤにある時、神の言葉が臨みました。  “「わたしは‥あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」”(エレミヤ書 1章5節) 召命はどこに生まれたかではなく、神の語りかけから来ます。 エレミヤが召命を受けとった時代は紀元前7世紀、2節にはユダの王、ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことと書かれています。 この時ちょうど大国アッシリアの王が死に、翌年、新バビロニアが独立して、さらにその翌年にはメディアが独立するというオリエント世界の大きな変化の時期でした。 どの国もイスラエルにとっては大きな脅威となる強国です。 さらに3節を読むと神からの語りかけがこの後の時代にも続いたことがわかります。 「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わり、すなわち、その年の第五の月に、エルサレムの民の捕囚の時まで続いた」。 イスラエルはこの大変動の中で最後には国を失い、その民のおもだった人々がバビロンに捕囚となって身柄を移されました。奴隷として連れていかれてしまったのです。 この大きな変動時代にエレミヤは「諸国の民の預言者」として召されました。 自分の同胞に対し神の言葉を語り、さらにそれを越えて、大変動に巻き込まれた他国の人々すべてに神の言葉を告げました。 しかしこの素晴らしい神からの呼びかけに対するエレミヤの最初の応答は決して良いものではありませんでした。 彼の最初の言葉は、「ああ、神、主よ。」でした。 ここから彼が苦闘しているのがわかります。 この時エレミヤは苦悶の中で戸惑い憂いていました。 「わたしはどう語っていいかわかりません。」 エレミヤはこう言うしかありませんでした。 召命は一生を覆うものですが、その召命には「わたしには」できませんという領域が含まれています。 エレミヤはまだ祭司としての実績もありませんでした。さらにイザヤのようにエルサレムの神殿付きの祭司でもなく、アナトテという片田舎に追いやられてしまった祭司の家系でしかなかったのです。 条件だけを見ればこのエレミヤの反応にも納得がいきます。 だから彼はこういったのです。 「見てください。わたしにはできない。」と。 ⑵ 主イエス・キリストのものとされ、クリスチャンとして生きることには、この「私にはできない」というところが必ずあります。 召された者として生きることの内には不可能が含まれています。 「神様あなたがいうところでわたしは到底生きられません。その使命に耐えられるとは到底思えません。そんな道をわたしは歩きたくないのです。」 神様の召命の中にはこういうところがあるのです。…