主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの黙示録 14章14~20節 タイトル:主の眼差しを受けて待ち望む 今日からアドベントが始まります。 アドベントとは到来、来臨を意味し、クリスマスの4週前の日曜日からクリスマスの日まで続きます。アドベントの期間は主の到来を待ち望む期間です。 主の到来を待ち望むという言葉には二つの意味があります。 一つは、2000年前にイエスキリストがお生まれになったことを覚えて、そのお生まれを待ち望むこと。 そしてもう一つは、天におられるイエスキリストが再びこの地に来られる再臨を待ち望むことです。 今日はこの二つ目について触れたいと思います。 今日の聖書はヨハネの黙示録14章です。 この箇所の前のところには、悪魔を表す竜と、それに力を与えられた獣がこの世界で暴れ回る様子が記されています。 しかしその後この幻を神に見せていただいたヨハネはさらに希望の幻を見ました。 それはイエスキリストがシオンの山の上に立っておられる姿でした。 そしてその側には過去現在未来すべての救われたクリスチャンを意味する14万4千人の人たちがいました。 イエスキリストの十字架による贖いによって罪赦され神の民とされた人々がそこにはいたのです。 当時キリスト教会は、大変な迫害の最中にありました。 この幻を見たヨハネ自身もバトモス島という島に流されていました。仲間達もたくさん捕まり殺された人たちも多くいたことと思います。 そういう状況下にある彼にとってこの幻は大きな希望になったはずです。 おそらく彼はあの14万4千人の中にすでに死んだ仲間たちの姿も見ただろうと思います。 さらにこの後彼は天からの声を聞きました。 "また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」" ヨハネの黙示録 14章13節 今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。 つまり主に結び合わされて死んだ人たちは幸いな人だということです。 ローマ帝国に捕まり死刑にあった人であろうとも、それでも主を信じて死んだならそれは幸せなことなのだというのです。 どうしてそれが言えるのかというと、それが先程の幻にあらわれています。 イエスキリストと共にいるものとされたからです。 彼らは決して孤独に死んだのはありません。 主にあって死んだ、主に結び合わされて、主の中で死んだのです。 生の終わりは死ではなく、 その先に新たな生があります。 主イエスキリストにあるあらたな命に生きる生です。 その中にいる人は幸いなのだという声をヨハネは聞いたのです。 1 収穫の時 今日の聖書はさらにその続きとしてみた幻です。 ヨハネの黙示録 14章14~16節 “また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。“ ヨハネはここで雲に乗っている人の子のような方、つまりイエスキリストを見ました。 この方は金の冠を被っています。つまり真の王であることを示しています。 世の中は当時ローマ皇帝こそ王でした。 しかし真の王はこの金の冠をかぶり雲の王座に座っておられるイエスキリストであることをあらわす幻です。 この真なる王が手に鋭いかまを持っていました。 この真の王こそ、この世を裁く審判者であることを描写しています。 彼は一人の御使いの合図を受けて、地に鎌を入れて、穀物を刈り取りました。 穀物は完全に熟してすでに刈り取るべき時が来ていたからです。 これはすなわち終わりの時がやってきて、神の民が御国に導き入れられることを示しています。 その日その時が来ると、このようにイエスキリストが神の民である私たちを刈り取って神の国へと連れて行ってくださるということを教えてくれる箇所です。 この刈り取りについて、収穫について語っている言葉がマタイの福音書13章にありますが、39節には「収穫とはこの世の終わりのことです。」と書かれています。 この世の終わりというと、この世界の破滅をイメージされる方が多いと思うのですが、クリスチャンにとっては新しい世界の始まりであり、神の国の完成を意味します。それは本当に苦しみも痛みも涙もない世界の始まりの時なのです。その時にイエスキリストにつながっている人は、農夫が収穫の時に穀物を刈り取るように、神の国に導き入れられるのです。 その続きの43節には「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」とあります。 だからイエスキリストにあって死んだ者は幸せだと言えるのです。 ではこれがこの世界の終わりの時だとするなら、今はどのような状況と言えるでしょうか。 それは王冠を被ったイエスキリストが鎌を持ってこの世界を見ておられる時と言えると思います。 そして私たちクリスチャンはその刈り取りの時を待っているのです。 本来は私たちは何も実らせることができないものでした。 実らせるには栄養が入ります。 命がいります。 しかし私たちには命がなかったのです。 だから枯れ草のような状態でした。 しかし主ご自身が私たちと共にいてくださり、命を与えてくださるので、それによって私たちは自分が実らせるべき実をむすぶことができるのです。 ただこれは楽しいだけのものではありません。 ヨハネの時代のように肉体の命を取られたりすることはなくても、神の力に反対する勢力との衝突は常に起こっているからです。 私たちが神の民としてイエスキリストの御心にかなった生き方をしようとする時にそれを阻もうとする力のことです。 マタイの福音書の例え話を見るとよりわかると思います。 "イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。 麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」" マタイの福音書 13章24~30節 "それから、イエスは群衆と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。" マタイの福音書 13章36~39節 これはイエス様がお話しになった例え話です。 ここには私たち神の民を示す良い麦と共に毒麦が登場します。 しもべは毒麦を抜きますかとたずねますが、主人はそれをとどめ、育つままにしておくように言います。 そして収穫の時になったら、毒麦を集めて燃やし、良い麦の方は倉に納るようにしようと言うのです。 この収穫の時というのは、この世界の終わりの時のことだと先ほど申し上げましたが、その時まで良い麦はもちろん成長しますが、同時に毒麦も成長し続けるということがここからわかります。 これは良い麦に象徴される神の国の光が輝き続けるとともに、毒麦に象徴される悪の勢力も力をつけていくことを示しています。 収穫の時まで、つまりこの世界の終わりの時まで両者は共に勢力を拡大し、互いの葛藤は激しさを増していくのです。 イエス様はこのたとえの解き明かしで、毒麦とは悪い者の子どもたちのことだというのですが、これは一体なんのことを指しているのでしょうか。 これは神に逆らう勢力の配下にいる人々を指しています。 旧約聖書にまで遡ると神に反逆したバベルの塔があります。その後も常に神の民に敵対するエジプトやバビロン帝国が旧約時代には存在しました。 エジプトは神の民を奴隷にして苦しめ、バビロンは神の民を捕囚として自分の国へ連れて行ってしまいました。 新約時代ではローマ帝国がこれにあたります。そしてこの毒麦の勢力の究極は黙示録17章に登場する大バビロンです。 この神に反逆する勢力が常に存在しそれは生長し続けているのです。 一方で良い麦は御国の子どもたちのことだとイエス様は言います。 つまり私たちを含むクリスチャンたちのことです。 この源流となるのは、アブラハムへの祝福の約束です。 創世記12章に記されています。 "主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」" 創世記 12章1~3節 そしてその実現としてイエスキリストがこの世界に来られて、さらに天に昇られた後に聖霊を送りこの方の力によって全世界への宣教、そしてその究極としての完成された神の国へと至ります。 収穫の時まで良い麦と毒麦に例えられる二つの勢力が衝突しあいます。 だから決して簡単なものではありません。 楽なものではありません。 しかし主が今も見ておられます。 収穫の時を待ち望みながら、私たちがその実りを一つ一つ増やしていく姿を喜びを持ってみてくださっています。 この眼差しを受け取りながら私たちは今も生かされているのです。 2 裁きの時 黙示録に戻っていただいて続きを見ます。 ヨハネの黙示録 14章17~20節 “また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。“ ここでまず注目したいのが、「刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。」というところです。 先ほどの収穫の幻は、取り入れるという表現がなされていました。 神の怒りの大きな酒ぶねは出てきません。 しかしここでは、酒ぶねが登場します。 しかもそこに投げ入れられてしまいます。 そしてこの酒ぶねは都の外で踏まれました。 つまり新しいエルサレムの外で踏まれるということです。 神の国には入れない人々のことを指しています。 この当時の人々は葡萄酒を作るのに、石とコンクリートでできた酒ぶねを使っていました。収穫した葡萄をその酒ぶねに入れて足で踏んで葡萄のエキスを抽出したのです。これに例えて裁かれる人々の血が溢れる様子が描かれています。しかもその血は千六百スタディオンにまで広がりました。 この1600という数字はそのまま理解するのではなく、比喩的なものです。この地上を象徴する4という数字を二乗した数に、さらに多数を意味する1000をかけると1600になります。 ですからこの世界すべてを覆う神の裁きであることを示す数字と言えます。 またその血の深さが馬のくつわにまで達するほどだったと記されています。馬のくつわとは、馬の口にはめ込む器具のことです。ですから馬の頭部にまで届くほど裁かれる人々の血で溢れかえってしまうのです。 これもまた比喩表現です。徹底的な神の裁き、そしてその激しさを物語るものということができます。 先ほどの救いの描写とは打って変わって神の裁きの厳しさとその徹底ぶりがよくわかる幻と言えます。 3 身代わりのキリスト ただしこの箇所は、そこで止まるところではなくて、むしろ本来は救われた人々も私たちもこの中に入れられたはずのものだったということを思い出したいところです。 今読んでいただいたところにありましたとおり、この裁きの酒ぶねは都の外で踏まれました。 実はこの都の外というのがまた私たちに十字架を思い起こさせる言葉になっています。 イエス様が十字架にかかられたのはどこだったでしょうか。エルサレムの都の外にあるゴルゴダの丘でした。そこで十字架にかかられてそこで血潮を流されたのです。 終わりの時に本来であれば私たちが踏みつけられて捨てられていたはずのこの裁きを先取りしてご自身の身に負われたのがあの十字架だったのです。 だからこそ14章の最初のところで小羊がシオンの丘に立っておられそのそばに救われた人々がいる姿を見ることができたのです。 今日からアドベントが始まります。 イエスキリストを待ち望む期間です。 イエスキリストが来られたらこの世界は完全に終わりを告げ、新しい世界が開かれます。本来であればその世界に私たちも入ることはできませんでした。その外で踏みつけられて裁かれ捨てられるものでした。しかし主が身代わりになってくださり、私たちを救ってくださったからこそ、新しい世界へと入ることがゆるされるものとなりました。 私たちはこの福音を受け取り今実を実らせて生きています。 イエス様につなぎ合わされておられるなら、どんな人生であっても主に覚えられ最終的に主の手で収穫されます。 この主の眼差しを受けて、その眼差しをいつもおぼえながら、良い麦としてその実を実らせて歩まれる皆さんでありますように。