主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書4章16~29節 タイトル:イエス様との出会いは人を変える 前回からサマリヤの女がイエス様と出会う場面を見ています。 この人は、過去に5回結婚し、5回離婚した人でした。 また、この人は現在夫がいませんが、一緒に住んでいる男の人がいました。 こういう背景が彼女にはあって、周りの人たちとはあまりうまくいっていなかったようです。 だからわざわざ井戸に人がいない時間帯を選んで来ていたのではないでしょうか。 この日も太陽が一番高く昇る昼の12時頃にやってきました。 この人の最初の目的は水を汲むことでした。 目に見える水、実際に自分の肉体に水分を供給することができる水を求めてやってきました。 しかしそこで思いがけない方と出会います。 それがイエス様でした。 彼女は最初イエス様と対話しても何を言っているのか、わからなかったようです。 イエス様が生ける水、永遠の命の水のお話をしても、ただ水と言われたから目に見える水のことだと思ったようです。 だから彼女はイエス様の話を聞いて言いました。 「もうこの井戸に汲みにこなくて良いように、その生ける水を下さい。」 言葉そのままに受け取っていました。 ① 命の水とは何か? ではこの命の水とは一体何のことなのでしょうか。 "さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。" ヨハネの福音書 7章37~39節 イエス様はこの箇所で、サマリヤの女性に言われた言葉と同じような言葉を語られた後に、ご自身が与えられる水のことを説明しています。 この水の正体は何なのでしょうか。 39節に記されています。 「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」 御霊のこと、すなわち聖霊のことです。 聖霊は物質ではありません。 聖霊は目に見えません。 聖霊はイエスキリストの霊とも言われます。 聖霊は神様ご自身です。 この世界をつくり今も治めておられる神様は三位一体の神様です。 父なる神、御子イエスキリスト、そして聖霊です。 父と御子と聖霊がそれぞれ別々の位格を持っておられますが、それと同時に一体の方、同一の方です。 この真理は人には全て理解することはできません。 それは私たちが神に造られた存在であり、神が私たちの造り主だからです。 造られた者は、造った方を全て理解することができません。 より小さいものがより大きなものを理解する事はできません。 しかし神様の側から教えてくださった分だけ私たちは知ることができます。 この神様の側から教えてくださった分とは何か。 それが聖書です。 そして聖書に記されている神様のことを総合的に整理して言い表すと三位一体となるのです。 この三位一体の神がこの世界に降って来てくださいました。 それが御子イエスキリストです。 そしてこのイエスキリストが命の水すなわち聖霊を与えてくれるのです。 コリント人への手紙 第一 12章3節には”‥聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。”とあります。 私たちのうちに聖霊がのぞみ、私たちの内に内住してくださる時に初めてイエスは主ですということができるのです。 聖霊は私たちに信仰をくれます。 聖書の言葉を神の言葉と信じる信仰。 2000年前に生まれ30歳前半で当時最も恐れられた十字架刑に処せられたユダヤ人を救世主と信じる信仰。 殺されたにも関わらず三日目によみがえられ、今も生きておられる方だと信じる信仰。 聖霊は私たちにそんな信仰をくれるのです。 イエス様は今日の場面で、この聖霊についてお話をされていたのですが、サマリヤの女性は、このことがわかりませんでした。 しかし少しずつ話をしていく中で、どうもイエス様が普通の人間ではないということを察し始めます。 自分の今までの人生を言い当てられたこの人は、イエス様のことを預言者だと考えました。 預言者とは神様の言葉を受け取り他の人に伝えることができる人のことです。 そして彼女はさらに対話を進める中で、ついに今、目の前にいるユダヤ人の男性こそメシアだということを知ったのです。 ② ⑴この女性は最初、何のために井戸まで来たのでしょうか。 水を汲むためでした。 目に見える水、実際に肉体に水分を補給するための水を汲みにきたのです。 しかし28節を見ると最初の目的は完全に忘れてしまったようです。 "女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」" ヨハネの福音書 4章28~29節 井戸で水を汲むために持ってきた水がめをそこに置きっ放しにして、この女性は周囲の人々にメシアがあらわれたことを伝えに行きました。 この女性はイエス様と出会って大切なものの順番が変わったようです。 この人にとって一番大切だったのは水でした。目に見える水、肉体を潤す水です。 しかしイエス様と出会って、イエス様がメシアだと知って、彼女の優先順位が変わったのです。 イエス様と出会うと優先順位が変わります。価値観が変わります。 イエス様と出会うと、それまで大切だったものがそんなにたいしたものでなくて、イエス様こそもっとも大切だということがわかるのです。 ⑵私たちはどうでしょうか。 イエス様を知らなかった時は、何を一番にして暮らしていたでしょうか。 今日の聖書には、水が出てきますが、私たちにあてはめて考えた時、目に見える水だけを指すわけではありません。 イエス様を知らなかった時に、自分にとって一番大切だったものを思い出してみてください。 それがサマリヤの女の求めた水です。 ある人にとっては、それがお金かもしれません。ある人にとっては、それが異性かもしれません。ある人にとっては、それが地位や名誉かもしれません。ある人にとっては、趣味かもしれません。またある人にとっては、自分は真面目に生きてきたという誇りなのかもしれません。 人それぞれ一番大切にしていたもの、優先順位の一番だったものがあるはずです。 それがこの時のサマリヤの女性にとっては水でした。 しかし彼女はその水を汲むためのかめを放ったらかしにしてイエス様のことを伝えに行ってしまったのです。 イエス様と出会うと人は変わります。今まで知らなかったことを知らされるからです。 本当に大切なことを知らされるからです。 到底人間の力ではわからない素晴らしいことを知らされるからです。 聖霊が臨むとわかるはずのなかったことがわかります。 その衝撃は人生を変えます。 人生を新しくします。 そして希望がない闇の中を歩いていた人々に希望と光を与えます。 私たちはイエス様を信じた時、最も大切なものがイエス様になりました。 以前好きだったものは、あのサマリヤの女のように手から離れたのです。 ③もう一箇所確認していただきたいことがあります。 "女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」" ヨハネの福音書 4章28~29節 この箇所を読んで何か違和感を感じませんか。 この女性は昼の12時というとてもあつい時間帯に井戸までやってきた人でした。 どうしてでしょうか。 それは多くの人が朝や夕方にやってきて水を汲むからです。 人と会わないために彼女はわざわざ日差しが照りつけて大変暑い中をやってきていたのです。 そしてそれは彼女の過去が理由でした。 彼女は5回も結婚し離婚した経験のある人で、現在一緒にいる男性とは結婚もしていませんでした。 そういう彼女を見てサマリヤの町の人たちもあまり良い目では見てくれなかったのでしょう。 また彼女自身も罪悪感や羞恥心などで自分で壁を作ってしまっていたのではないでしょうか。 しかしイエスキリストと出会うとそんな状態に変化が生まれます。 彼女は水がめを置いて、自分から避けていた町の人々に進んで会いに行き、イエスキリストのことを伝えるのです。 するとその話を聞いた人たちは、イエス様のもとにやってきました。 "「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。" ヨハネの福音書 4章29~30節 伝えにきた女性から何か変化を感じたのかもしれません。 町の人たちも、この女性がみんなが井戸に集まる時間帯に来なくなったことに気付いていたでしょう。 そしてその理由もわかっていたのではないでしょうか。 いわばこの町のはみ出し者になっていた女性でした。 しかしその人が普段であればまずしないようなことを今しているのです。 自ら進んでやってきて何かを知らせようとしているのです。 その内容はキリストらしき人がいるということでした。 この町の人々に人脈がある人ではありません。 その対極にいるような人でした。 しかしこの時の彼女の言葉を聞いて多くの人が町を出てイエスのもとにやってきたのです。 その結果39節が記しているように “‥その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じ”ました。 この女性は確かに無知な人だったのかもしれません。 家庭生活も放縦の限りを尽くしていました。 それは決して褒められるものではありません。 しかし神はこの心渇き孤独な女性を用いてサマリヤに福音を伝えることをよしとされたのです。 イエスキリストと出会った人は変わります。 それまで執拗に握っていた何かを手放すことができます。 そしてそれを手放すことによって人との壁が取り払われて、神の福音を伝える器に変えられます。 ちょうどこのサマリヤの女性がそうだったように、私たちも日々新たに主に出会い、変えられていきたいと思います。