主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き17章16〜34節 タイトル:主を知らぬ人々の心 今朝は久しぶりに使徒の働きを共に見ていきます。 使徒の働き1章8節にはこう記されています。 “‥聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」" これはイエスキリストの言葉です。 この言葉の通り、イエスキリストの弟子たちは聖霊を受けてイエスキリストの証人となりました。 すなわちイエスキリストの十字架と復活による義と新しい命によって生かされることこそ真の道であることを知らせてまわったのです。 はじめはエルサレム、その後ユダヤ、さらにサマリヤ全土、そして小アジア地域にまで広がり、マケドニヤへと渡った福音はさらにアテネにまで及びました。 この地への宣教師として立てられたのはパウロです。 16節にあります通り、ふたりの人すなわちテモテとシラスを待つ為にアテネに滞在していたパウロでした。 "さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。" 使徒の働き 17章16~17節 パウロは町が偶像で溢れているのを見て憤りを感じました。 それで会堂や広場に出向き人々と論じ合いました。 会堂にはユダヤ人たちや異邦人でありながらイスラエルの神を信じる「神を敬う人たち」がいました。 また広場にはアテネに住む異邦人たちがいましたが、その中にはエピクロス派とストア派の学者たちもいました。 エピクロス派とはアテネのエピクロスという人によって始まった多神教の哲学学派でした。彼らが信じる神々は世界には無関心の神々でした。 ストア派はアテネでゼノンが起こした哲学学派で、この世の全てが神の一部と考える汎神論的哲学でした。 世界と神とは同一であり、神に人格があるとは考えませんでした。 この学者たちの中のある者たちはパウロを指して「おしゃべり」と言ってけなしました。 おしゃべりと訳された言葉は、「種をついばむ鳥」を表す言葉で、そこから広場で物を拾う「拾い屋」、ついにはあちこちから知識を受け売りする「受け売り屋」を意味するようになった言葉です。 パウロはこれらの哲学者たちから相当軽く見られていたようです。 また「外国の神々を伝えているらしい」という風にも言われました。 多神教のアテネの学者たちらしい言い方です。 多くの神々がいる中の一つの神を伝えていると考えていたようです。 これらの言葉からもアテネの人々が全くパウロの言葉に心を開いていないのがわかります。 パウロは命をかけてその人生をかけて福音を述べ伝えているのですが、それを聴いているアテネの人々は全くそのようには受け取らないのです。 おそらくエピクロス派やストア派よりも下位に属する学派か何かだとでも思っていたのでしょう。 ただそれでも彼らはパウロをアレオパゴスへと連れて行きました。 21節にある通り、「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」からです。 アレオパゴスとは、「アレス神の丘」という意味です。 戦神アレスがこの丘で審判を受けたという伝説からそう呼ばれるようになったようです。 この法廷は,アテネの長老たちによって構成され,宗教や道徳の監督にも当たっていました。アレオパゴスは,アテネの最も重要な制度であり、道徳と宗教に関して特別の裁判権を持っていました。 この評議会の中心に立たされたパウロは、福音について語り始めます。 異邦人相手ということで、ユダヤ人が相手の時のように旧約聖書から引用するのではなく、この町の中にある祭壇に記されていた言葉を引用して語り始めます。 こうして復活のところにさしかかった時にある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「またいつか聞くことにしよう」と言いました。 つまり相手にされなかったということです。 しかしそんな中、パウロが語る福音をきいて、信じた人たちもいました。 これが今日のストーリーの概略です。 1 神の国とこの世との衝突 使徒の働き1章8節にあった通り、パウロはキリストの証人としてアテネに立ち福音を語りました。 1章8節にはエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまでと言って、どんどん福音が伝えられる範囲が広がっていく様子がうかがえるのですが、この範囲が広げられるたびに起こることがありました。 それはこの福音を握って生きる神の国と、それを信じようとしないこの世との衝突です。 今日の箇所もこの衝突が起きています。 2 偶像を作る理由 ⑴ここで一つ考えてみたいことがあります。 それはなぜアテネの人々は偶像を作っていたのかということです。 それも町に溢れるほどに作って何がしたかったのでしょうか。 ここに世界中の人々に通じるものがあります。 この世で生きている人々全てが、アテネの人々のように石や木で何かを作るわけではないかもしれませんが、全ての人が偶像を持って生きています。 それはお金なのかもしれませんし、地位や名誉なのかもしれません。 人によってその種類は様々ですが、地上の何かでもって、この世界で生きる時に生じる不安や恐れを消そうとしているのです。 みんな自分がそんなに強い存在ではないことを知っています。限界を知っているのです。 だから何か他のもので武装しなくてはいけません。 アテネの人々にとってはそれが偶像であり、また哲学だったのです。 他の人々にとってはそれがお金や地位や名誉などであるわけです。 ⑵ ”ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。" コロサイ人への手紙 3章5節 このむさぼりと訳されている言葉は、ギリシャ語ではプレオネクシアと言って、多くのものを持つことを意味します。 ちょうどこのアテネの人々が偶像を町中に作っていたように、多くのものを持つことをむさぼりと言います。そしてまさにそれこそ偶像崇拝なのです。 作っても作っても不安が消えないのです。 作っても作っても恐れが消えません。 だからさらに作るのです。 多くのものを持つことはむさぼりです。 むさぼりは偶像崇拝です。 偶像崇拝は、神を知らない人々が、生きることを恐れどうしたら良いかわからずにすることなのです。 彼らは名前すら知らない偶像まで作ってその不安を消そうとしていたのでしょう。 この世のものでは本当の満足、本当の安心は得られません。 何か物事がうまくいっても、その次のことを考えて不安になったことはありませんか。 うまくいっても不安、うまくいかなくても不安。 それが神を知らない人々の心なのです。 だからアテネの人々は多くの偶像を作っていました。 そんな生き方を偶像に見たパウロは彼らの心をおもんばかったのでしょう。 そして「こんな生き方をしてはいけない。本当の神様を伝えなければいけない。」と心奮い立たせて会堂と広場に出向いていったのでしょう。 こうして町で最も力があるアレオパゴスの真ん中に立って「知られない神に」と刻まれた祭壇を糸口にして、彼らが知らないと告白している神を知らせにきたと言って語り始めるのです。 3 神を知らない人々の恐れ 同じ神学校の友人で今日本の宣教師として活躍している牧師が以前こんなことを言っていました。 「私たちのように牧師になっても、今のこの状況に不安を感じているとするなら、本当の神を知らない人たちは一体どれほど大きな不安を抱えて生きているのだろうか。」 本当にその通りだと思いました。 わたしも教会に通い始めて20年経ちますし、これを見ておられる方々の中にはそれ以上の方もおられると思います。 わたしたちはある程度の年月が過ぎると、神を知らなかった時のことを忘れてしまいます。 神を知らない人の不安や恐れがわからなくなるのです。 だから友人の言葉にはハッとさせられました。 みなさんの周囲にはどんな方がおられますか。 色々な方々がいると思いますが、みなさん不安を抱えて生きています。 この世界で生きること、それ自体に不安が付きまといます。 そのために何かを信じて何かを偶像にして生きているのだとおもんばかることが必要なのかもしれません。 それがあのパウロの偶像を見て憤った時の思いだったとわたしは思います。 「こんな迷信信じて何になるのか。」と見下して憤ったわけではないのです。 本当の神を知らないことの不安、その恐れの表れこそ偶像なのだと彼は捉えたのではないでしょうか。 私たちもこのパウロと同じ思いを持てますように。 祝福をお祈りいたします。