主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙 3章19~28節 タイトル:信仰シリーズ② 信仰と律法の行い "さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。" ローマ人への手紙 3章19~28節 今日も信仰について聖書から共に聴いていきたいと思います。 今日のお話もみなさん何度も聞いてこられたお話かと思います。 しかしこの不安定な状況の中では、変わることのないものをつかまなくてはいけません。福音そして信仰はどんな状況下でも変わることのない真理です。 今日もまた一度信仰について聴いていきたいと思います。 イエスキリストはわたしたちの身代わりとなって十字架で死なれ葬られ三日目によみがえられました。 わたしたちは彼につながることによって、彼の義と新しい命を得ることができます。 この時にイエスキリストとわたしたちの間をつなぐ管のような働きをするのが信仰なのです。 今日もこのイメージをまず持っていただいてはじめていきたいと思います。 1 神の律法について ローマ人への手紙3章10節と23節を見てください。 "それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。" ローマ人への手紙 3章10節 "すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、" ローマ人への手紙 3章23節 このように聖書は誰一人として神の前に正しい人はいない、全ての人が罪を犯したといいます。 何をもって罪と判断しているのかというと、それは神が与えた律法によってです。 この律法を全うできれば、人は罪なしとされ神の前で正しいもの、義人と認められるのですが、誰一人としてこの律法を守れる人はいないと聖書は言うのです。 律法というとみなさん何をイメージされるでしょうか。 おそらく出エジプト記に記されている十戒をイメージされるのではないでしょうか。 十戒ももちろん律法なのですが、もっとわかりやすくイエスキリストが教えてくださっている箇所が聖書にありますのでそちらを一緒に開いてみましょう。 "「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」" マタイの福音書 22章36~40節 イエスキリストはここで律法を要約して答えています。 神の教えを煎じ詰めると、結局この二つの愛に尽きるということです。 神への愛と隣人への愛です。 これは一時的な態度のことでも形式的なものでもありません。 「神の律法」は、個々の決まりをその都度守っているかどうかを問うのではなく、私たちの心そのものを問うものです。 もし神様にかなう心を持っているなら当然できることが記されていると言っても良いと思います。 この世のすべてを造られた神への愛と、隣人への愛。 自分自身を犠牲にしてでも神と隣人に尽くす心の人でなくてはいけないのです。 しかしそんな人がこの世にいるでしょうか。 自分自身はどうか一度考えて見てください。 イエスキリストが言われたこの神への愛と隣人を愛する愛に貫かれた心を持ち生きているでしょうか。 ハイデルベルク信仰問答という教理問答の第5問にこのような問答があります。 問5 あなたはこれらすべてのこと(律法)を完全に行うことができますか。 答え できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。 いつも周りの人を騙し、憎んでいるわけでないでしょう。 けれども、心の“傾き”はどうでしょう。 自分と他人とを秤にかけた時にどちらに自分の心は傾いているでしょうか。 自分の思いと神様の思いが相反する時、どちらに自分の心は傾いていますか。 するべきことはわかっているのに、それができない自分がいる。するべきこととは逆方向へと引っ張っていく力に対してどうしようもなく無力だ。 これこそ全ての人の心の叫びではないでしょうか。 ローマ人への手紙7章24節にはこうあります。“わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか“ わたしたちは律法を行うことができません。 神の基準には達し得ないのです。 2 罪を知ること ではなぜ神は人が守ることなどできない律法を与えたのでしょうか。 ローマ人への手紙3章20節には"‥律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。"と記されています。 律法を守れない私たちに神が律法を与えた理由がここにあります。 罪の意識というものを生じさせるためだったのです。 さらに7章7節を見るとより明確になります。そこにはこうあります。 "‥律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。" つまり神はわたしたちに罪を罪として認識して欲しかったのです。 他者に比べて少し正しい生き方をしている自分も神の前では全く正しくなく罪人なのだということを教えるために神はご自身の正しさの基準である律法を与えられたというわけです。 自分が罪人だということがわかれば、その結末がどういうことになるかを考えることができますし、神の助けが必要だということがわかります。 自分が罪人だとわからなければ、救いと言われてもなぜ自分が救われなくていけないのかということになります。 だからまず神はわたしたちに罪を罪として認識させるために律法を与えられたのです。 3 律法を行うことと信仰 もしローマ人への手紙が今まで扱った内容で終わっていたなら、わたしたちに希望はありません。 しかしこの後の21節に大きな転換点があります。 ローマ人への手紙 3章21~22節 "しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。" しかし今は、律法とは別に、律法を行うこととは別の方法として信仰というものが与えられたと言うのです。 信仰は律法を行うことによっては義とされない人々が、義とされる唯一の方法です。 どのようにして義とされるのか。それは律法を完全に行うことができる方であるイエスキリストにつながる管である信仰によってです。 これは神がわたしたちの行いによって判断されないことを意味しています。 全ての人が信仰によってイエスキリストにつながるとイエスキリストの行いによって判断されて義人と認められるのです。 イエスキリストの神への従順、それはこの世界に降ってこられて、この世界で完全に神に従われたこと、その絶頂としての十字架での死、葬り、そしてよみがえりの結果が、神からの恵みにより、信仰を通して、価なしに与えられます。そしてわたしたちは正しいとされるのです。 "ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。" ローマ人への手紙 3章24節 神の恵みによって価なしに義と認められるということは、もはやわたしたちは自分自身を誇ることはできません。 わたしたちが何かをしたから、わたしたちがこういう人だから、その対価、報酬として救いは与えられたわけではないからです。 ただ神の憐れみによって与えられたプレゼントなのです。 つまり信仰とは律法を行うこととは真逆の言葉なのです。 信仰の反対は不信仰ではなく、律法を行うことなのです。 このことはしっかり心に留めておかなくてはいけないことです。 この部分が世の中の考えと大きく違うところだからです。 信仰の反対を不信仰と考えると、信じるか信じないかという「行い」で判断する生き方になってしまいます。信仰の反対が不信仰という考えが前提にあると、私はキリストを信じたから救われたけど、あの人は信じないから救われないという考えになっていきます。この考えはまるで信じることが自分の功績のような考え方です。これは福音を知らない人の考えです。 信仰の反対は、律法の行いです。 律法の行いは、自分で神の基準を満たそうとすることです。 信仰は、キリストの行いに頼ることです。神の基準を全てクリアしたキリストの行いにより頼むことです。 ですから信仰と律法の行いは、キリストの行いとわたしたちの行いと言い換えることもできます。もっと単純化すればキリストに頼るのか、自分自身に頼るのかとも言うことができます。 キリストに頼る人は、キリストを誇るでしょう。 しかし自分自身に頼る人は自分自身を誇ります。 みなさんが自分自身ではなく、キリストに信頼し、キリストの行いの結果をいただく信仰によって生かされますように祈ります。 4 神の永遠の御手 またこの信仰の原理は、こうしてわたしたちが思いあがるのを戒める役割もある一方で、わたしたちが落ち込む時に安心を与えてくれるものです。 わたしたちは生きていると色々な状況に置かれます。 今現在私は元気です。全く不安がありませんという人は少ないのではないでしょうか。 神を愛し人を愛する自分自身の姿に満足しながら生きていける時期を通ることもあれば、全く自分自身では納得できない歩みをしなくてはいけないこともあります。 そういう時わたしたちは到底神の基準に達していない自分でいることに落ち込みますし、落ち込んでいる自分を見てさらに落ち込みます。 しかしイエスキリストの行いによって救われた者であるというところに立つ時に、またそれほどに愛されているものであることに気づかされる時に、自分自身の人生のアップダウンにもう振り回されなくても良いのだと教えられます。 私たちがどのような状況にあっても、落ちて落ちてもうこれ以上落ちることなどできないというところに来ても、それでも変わらない神の御手がさらにその下で支えてくれています。 イエスキリストに私たちはつなぎ合わされているのです。 そこに安心があるのです。 激しく揺さぶられる現在の社会の中で、どうぞイエス様に心を向けてください。 今日もまた信仰についてのお話でした。 この信仰によってわたしたちは主イエスキリストにつなぎ合わされ救われた者です。 どうぞそのことを今週も心に留めてください。 祝福をお祈りいたします。