主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き2章36節 タイトル:信仰シリーズ① 信仰の定義とその成長 人は神の前にアダムかキリストのうち、どちらに属しているかによってのみ判断されるというお話を以前しました。 私たちはアダムの子孫として生まれてくるので、生まれた時からアダムに属する者です。 アダムは神を裏切り神から離れた者なので、私たちも神を裏切り神から離れた存在として生きて行かなくてはいけません。 しかし御言葉と聖霊によって信仰が与えられるとそれによってアダムにつながる者からキリストにつながる者へと変えられます。 これまで福音について続けて見てきましたが、今日から「信仰」について見ていきます。 正確には福音のお話の中の信仰といった位置づけなのですが、信仰シリーズとしてお話しさせていただきます。 信仰にフォーカスを当てる理由は、それだけ信仰が大切だからです。 どうして大切かというと、イエスキリストと私たちをつなぐ管こそ信仰だからです。 先ほど私たちはアダムに属する者として生まれるという話をしました。 これは神の前に罪を犯したアダムが、彼がまさに善悪の知識の木の実を食べるという決断をしたときに、私たちも彼と共にいた、あるいは彼の内にいたと神が見ているということを意味します。 だから私たちは罪人として生まれてくるのです。 しかしこれと同じ原理で、私たちはキリストにつながる者となります。 つまりキリストがこの世界で完全に神に従う人生を歩まれ、その絶頂としての十字架での死、そして葬り、三日目のよみがえり、これら全ての過程に私たちも共にいた、あるいは彼の内にいたと神が見てくださるということです。 神がそのように言われるのですから、実際にいたということなのです。 そしてこれはイエスキリストと私たちがつながったということなのですが、このつなぎ役になっているのが信仰なのです。 御言葉と聖霊によってこの信仰があたえられたわけですが、今日はこの信仰とは一体何かを共に考えていきたいと思います。 1 信仰とは 信仰とは一体なんでしょうか。 二つに分けて考えることができます。 ⑴ 一つはイエスキリストが私たちのためにしてくださったことを知りそれを信じることです。 これは先ほど申し上げたように、この世界に人となって来てくださったこと、そして神に完全に従う人生を歩まれたこと、そして十字架で私たちの身代わりとなって死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと。 このことを知り信じることです。 ⑵そしてもう一つがイエスが一体誰なのか、どのような方なのかを知り信じることです。 "ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」" 使徒の働き 2章36節 この箇所からイエスが一体誰なのかがわかります。 イエスは主であり、キリストであるということです。 ①イエスが主であるということは,彼がすべての権威を持っているということであり(マタ28:18)、天地のすべてのものを彼が治めていることを意味します(ピリ2:10)。 新約聖書の時代には「主」ということばは,異邦世界において王とか偶像の神々を意味した言葉でした。 だから「イエスは主である」ということは,イエスこそ真の神であり支配者であるという信仰の告白だったわけです。 当時のローマ皇帝は自らを神格化しようとしていましたが、このようにしてイエスは主であるということで本当の神が一体誰なのかを表しているわけです。 ②またキリストであるとも書いていますが、キリストとはヘブライ語で油を注ぐことを意味するマーシャフから派生しているマーシーアハのギリシャ語訳です。 旧約では、王や預言者や祭司がその職務に任命されるときに油注がれ、またイスラエル自体も油注がれた人々として登場します(ハバクク3:13)。したがって油注がれた者、メシアとは民を救うために選ばれた神の道具を意味する言葉と言えます。 つまりイエスがメシア、キリストであるというのは、まことの王であり預言者であり祭司であり、神の救いをもたらす存在だという意味なのです。 以上のことを知ること、これがイエスキリストを信じるということです。 そしてこのことについて聖書は私たちに語ってくれるのです。 イエスキリストが私たちのために何をしてくださったのか、そしてイエスキリストが一体どんな方なのかを教えてくれるのです。 2 信仰の成長 聖書を読むことが大切なのは聖書にイエスキリストのことが書いてあるからです。 イエスキリストのことを知るには聖書を読まなくてはいけません。 聖書を読んでイエスキリストのことを知ればさらに信仰は成長していきます。 イエスキリストを知ると言っても、これは単純な知識のことではありません。 イエスに信頼し彼に頼って生きていくときに、体験的な生きた知識になっていくのです。 聖書を読んでイエスのことを知ってそれを持って生きていくときに、体験的にわかるということもあれば、逆に先に体験したあとで聖書から発見するということもあると思いますが、とにかくイエスキリストを知るというのは、私たちの生活と密接不可分なことなのです。 こうして生きていくと自分とイエスキリストとの関係がはっきりしていきます。 するとこの真の知識に自分の生活そして人生を委ねていくことができるようになっていきます。 客観的事実としてイエスは私たちの主であり、キリストなのですが、それが自分自身の体験を通して主観的なものにもなっていき心からイエスは主でありキリストですと言えるようになるのです。 そうすると生活が変わり始め、人生が変わり始めます。 "兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。" テサロニケ人への手紙 第二 1章3節 この御言葉が言うように、信仰が成長すると、愛が増し加わるのです。 愛はキリストにつながることによって生じる実です。 アダムという死んだ木から取られ、イエスキリストという命の木につぎ木された枝である私たちが実を結ぶには命の木であるキリストにしっかりつながらなくてはいけません。 そしてキリストとつなげてくれる管こそ信仰なのです。 しっかりつながるというのは、しっかりイエスキリストを知って信じるということです。 イエスキリストを知れば知るほど、信じれば信じるほど、私たちの生活は変化し、人生が変化していきます。 世界観や価値観、人生の目標や希望、毎日の選択まで大きく変わっていきます。 優先順位の最上位が自分自身からイエスキリストになるからです。 もし私たちが信仰によってこのような生活の変化や人生の変化があれば、真の信仰を得たということです。 そしてその信仰はさらに成長していきます。 3 信仰者が目指す先 信仰が成長すればするほど目指す先が変わります。 "これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。" ヘブル人への手紙 11章13~16節 これらの人々というのは、アベル、エノク、ノア、そしてアブラハムとサラのことです。 彼らは信仰によって天の故郷に憧れてはるかにそれを見て喜びつつ死んでいきました。 彼らはこの地上において自分たちが旅人であり寄留者であることを知っていました。 だから本当の故郷である神の国を思って生きたのです。 イエスキリストを知れば知るほど、この方こそ神の国へと導き入れてくださる方だということがわかります。 すると目の前の出来事よりもさらにその先にある本当の故郷へと視線が向けられていきます。 そうするとこの世界において私たちは旅人なのだということが実感できるようになるのです。 どうぞみなさん。 聖書からイエスキリストのことをさらに知って信じる皆さんでありますように。 それは信仰の成長を意味します。 信仰の成長はさらに神の国への憧れを強め視線を将来に向けてくれます。 それはこの世界の出来事に囚われない人生を意味しています。 祝福をお祈りいたします。