主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙5章5−8節 タイトル: 福音シリーズ④ 客観的事実と主観的事実 福音について続けてお話しさせていただいています。 ここ数ヶ月で大きく社会の状況は変わりました。今も変わり続けています。 私たちは心が揺るがされる経験を今まさに味わっているところです。 しかしその中でも揺るがされないものを掴んで生きていきたいのです。 それで福音についてまた改めて聖書から聴いていきたいと思いました。 これまでもそうだったようにどんどん状況は変わります。 状況に自分の心を置いていたらその度に心が揺るがされ乱されるでしょう。 しかし福音に根を張っていれば状況に左右されることはありません。 私たちがよって立つところはどこなのか。 今日もまた共に福音について聖書に聴いて確認していきましょう。 今日は特に神の愛についてお話しさせて頂きます。 1 神の愛の実態 神の愛ときいて皆さんはどんなことを思い浮かべられるでしょうか。 今日の聖書には神の愛についてはっきり記されていました。 "しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。" ローマ人への手紙 5章8節 この御言葉は神の愛についてなんと言っているでしょうか。 神の愛は、まだ罪人であった私たちのためにキリストが死んだことによってあらわされたと言っています。 十字架という客観的で歴史的事実の中で表されたということです。 神の愛は感情ではありません。 ローマ5章8節には、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことだと言います。これが神の愛のあらわれなのです。 キリスト者の中には、神の愛を主観的、感情的に体験することを求める人たちもいると思いますが、ローマ5章8節は客観的、歴史的事実としての神の愛を語るのです。 罪人であるわたしのために神の御子が自分の命を捨てられたこと。 この事実を事実としてどれだけ知っているかが重要なのです。 神の愛は私たちの宗教的な熱心さや献身でもって分かるものではありません。 私たちの側の条件や行動を根拠に悟ることのできるものではないのです。 何かをしたから何かを得られるというものではないのです。それはこの世の法則です。 神を信じているのに、その信じ方が世の法則にのっとっていては歪んだ信仰になってしまいます。 私たちが生きるべき神の国の法則は、何かをしたからではなく、ただ贈り物として与えられた神の愛、すでにおきた客観的事実である十字架による贖い、これを受け取り応えていくことです。 そのためには繰り返しこの客観的事実に触れることが必要でしょう。 そこで今日もこれからこの事実について触れてみたいと思います。 2 「正しい人」と「情け深い人」 "正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。" ローマ人への手紙 5章7節 この御言葉には分かりにくい部分があると思います。 「正しい人」のためにでも死ぬ人はほとんどありません。 「情け深い人」のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 正しい人と情け深い人の差は何なのでしょうか。 なぜ正しい人のためには死ぬ人がほとんどいないのに、情け深い人のためにはひょっとしたらいると言えるのでしょうか。 この言葉からすると正しい人よりも情け深い人の方が良いということですが、このままだといまいちピンときません。 ロイドジョンズ牧師がこの違いを解説していたので、引用します。 正しい人というのは、法を守り、戒めを尊ぶ人のことである。あれこれの細かい規則に従い、非常に品行方正な人である。 情け深い人というのは、正しい人がするようなことをすべて行うが、さらにその上をいく人のことである。情け深い人は単に正しいというだけでなく、愛に支配されている。 1ミリオン行けと言われれば、2ミリオンいく。 下着を求める人がいれば上着も与える。単に正しいだけではなく、それを超えて進む。 ただ正しいだけの人のためには人は死のうとは思いません。 しかしその正しさに加えて愛を持った人ならひょっとすると身代わりになる人がいるかも知れないというのです。 自分のことを愛し尊び命をかけて尽くしてくれる。そんな人のためだったら命を投げ出してでも助けようとする人がひょっとするといるかもしれないということです。 ローマ5章7節の意味は「わたしたち人は、正しいだけの人のためには死ぬことはない。しかし正しいだけではなくてその人が愛の人だったら、中には死ぬという人がいるかもしれません。」という意味です。 3 罪人のために死んだキリスト そして8節へと続いていきます。 しかし!と。 7節では、どういう人のためだったらわたしたちは死ねるだろうか。という問いに対する答えが示されました。人間ができる可能性を並べたのです。 そうして出した結論が、正しいだけではなく愛のある人。 情け深く、誰もが価値あると思うような、そんな人のためだったらひょっとしたら死ぬ人がいるかもしれないというのが答えでした。 8節はその結論に「しかし!」とつなげて、 「わたしたちが罪人であったとき、キリストがわたしたちのためにしんでくださった。」といっていくのです。 "しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。" ローマ人への手紙 5章8節 わたしたちは情け深い人でもなく、正しい人でもありませんでした。 8節にあるように罪人でした。 罪人とは神に敵対する存在です。神との関係が切れてしまった人のことです。 神を神とも思わず生きている人のことです。これを罪人といいます。 わたしたちは正しい人のためには死ねません。 情け深い人のためにはひょっとしたら死ぬ人がいるかもしれません。しかしこれも可能性の話であり、確実なことはいえません。 でも神はわたしたちが正しい人でもなく、情け深い人でもなく、神の敵である罪人であるにもかかわらず死んでくださいました。 これを通して神はご自身の愛を明らかにしています。 神の愛がどれほど大きく偉大なものなのかということを証明しているのです。 私自身が一体どんな者だったのかということと、そんなわたしを愛して身代わりに死んでくださったということ。 このギャップこそが神の愛の大きさだということです。 ここまでが客観的、歴史的事実のお話です。 4 罪を知った者 そしてここからは主観的な事実のお話をします。 今、私自身が一体どんな者だったのかということと、そんなわたしを愛して身代わりに死んでくださったということ。 このギャップこそが神の愛の大きさだというお話をしましたが、これは自分自身の罪深さを痛感すればするほど神の愛の大きさがわかるようになるということです。 自分自身の罪深さ、それがだんだんわかってくると、キリストなしでの自分イメージというのはどんどん下がっていきます。 しかし下がれば下がっただけ、イエスさまの十字架もそれについて来てくれます。 自分の罪をどれだけの深さで知っているかによって、キリストが降ってこられたその深さも変わって見えます。 自分の罪があまりわからないとキリストが降ってこられたその深さもいまいちわからないでしょう。 しかしこれがはっきりしてくると、どれだけキリストが降ってきてくださったことが大変なことなのかがわかるのです。 こうして初めて神の愛の大きさを自分のものとして受け取ることができます。 これが主観的に神の愛を知るということであり、ローマ人への手紙5章5節に記されている通り、聖霊の働きによってなされることです。 自分の罪とキリストの十字架の繋がりを知るということです。 人は信仰を持てば神のみことばに従って生きようという意思が生まれますし、その力も与えられ徐々にではありますが変えられていきます。 しかしそれは決して楽しいだけの歩みではなく、自分自身の罪深さを知っていく旅路なのです。 5 最後に昨日見つけたネットの記事を紹介します。 「コロナ禍によって暴かれたのは、よくも悪くもそれまでの所属組織や人間関係の真価だった。例えは悪いかもしれないが、大規模かつ長期的な心理テストの被験者にされたかのように、職場や家族などのメンバーが特定のストレスでどのように振る舞うかが試されたのである。いわばコロナ禍は「人間性を判定するリトマス試験紙」であったのだ。コロナ以前であればごまかすことができていた「不都合な真実」が次々と露見し、経営者や上司、パートナーや友人たちの化けの皮が次々と剥がれていった。」 みなさんはこの記事を読んで誰のことが思い浮かんだでしょうか。コロナで他者の化けの皮が剥がれたという風に読める記事だと思います。 しかしわたしたちはこういう記事であっても、他者ではなく、自分自身の本性が現れた時だと思える人でありたいのです。 言い換えるならコロナ禍の中、他者の罪に注目するよりも、自分自身の罪に注目できる人でありたいということです。 「この人の化けの皮が剥がれた、あの人の化けの皮が剥がれた。」 そう言うのは簡単です。 しかしそんな風に生きることを主は悲しんでおられることでしょう。 そしてそのような生き方では神の愛を自分のものとして思えるはずもありません。 わたしたちはまず客観的、歴史的事実としての十字架をおぼえ、その十字架が自分の罪のためであったということを主観的にもわかる人として生きていきたいです。 祝福をお祈りいたします。