主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:コリント人への手紙15章1〜8節 タイトル:福音シリーズ① 福音を聞き受け入れる 緊急事態宣言が延長され礼拝もしばらくはこの形で捧げることになりそうです。 これから日本は、そして世界はどうなっていくのでしょうか。 こういう先の見えない状況の中、わたしたちは何を頼りにすれば良いのでしょうか。 数多くの情報がネットを飛び交っています。 自粛期間中スマフォを見る時間が増えたという方も多いのではないでしょうか。 こういう中でわたしたちは何を掴んで生きていけばよいのでしょうか。 エレミヤ書 2章13節にはこのような御言葉があります。 "わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。" 当時ユダの民は自分たちの先祖をエジプトから導き出しカナンに住まわせてくださった真実なる神を捨て、代わりに自分たちの願う偶像をたくさん作り拝んでいました。 真実なる神は命の水が湧き出る泉ですが、偶像は水を貯めることもできない、水が湧くことなんてありえないこわれた水ためです。 今の状況下でわたしたちは命の水が湧き出る泉を選んでいるでしょうか。 それとも自分たちの思うままこわれた水ためを作っているでしょうか。 これは神を頼りにしているか、それともそれ以外のものを頼りにしているかという問いです。 わたしたちは神を頼り生きるものでありたいです。 特にいつも心に留めていただきたいことは福音です。 これが今日の主題ですが、みなさんは福音と言われてどんなことをイメージされるでしょうか。 福音とは、全て信じる人々に救いを得させる神の力であり(ローマ1:16)、イエスキリストの十字架によって得られた結果が信じる人にすべて臨むことです(ローマ3:22)。 聖書には福音について書かれてある箇所がたくさんあります。 聖書の中心主題は福音だということができます。 福音はとてつもなく広い範囲を覆う主題だということができます。 今日はその中の一部を共に見ていきます。 1 福音をもう一度きく必要(1、2節) 今日の聖書のコリント人への手紙15章の背景として、復活はないという人々の存在があったことを知る必要があります。 彼らの主張の根拠は定かではありませんが、とにかく福音にとって欠かすことのできないはずの復活はないと言っていたのです。 それでパウロはもう一度ここで福音を語っています。 "兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。" コリント人への手紙 第一 15章1節 コリントの人々はすでに福音を受け取っていました。 しかしそんな彼らの信仰が揺れたのです。 それでパウロは「福音を知らせましょう」とここで言っています。 すでに福音を受け取った人もまた福音を聞く必要があるということです。 わたしたちはこの世界で生きている限り色々な言葉に惑わされる可能性のある存在です。時には信仰が揺らぐこともあります。 この世界は多くの選択肢をわたしたちに提供します。それがさも正しいことであるかのように振る舞いながら近づいてきます。 あれも良いしこれも良い。あなたの生活を豊かにするものはこんなに溢れていると私たちに迫ってきます。 しかしこれらはすべて下からの言葉だということを思いだしてください。 この世からの言葉(下からの言葉)によってわたしたちは平安を得ることはできません。 命の水はそこから湧くことはないのです。 少しの間の安心は手に入れられるかもしれませんが、そこには本当の平安はありません。 本当の平安は上からの言葉を受け取ってこそ得られるものです。 上からの言葉、神の御言葉、福音はクリスチャンになってからも何度も受け取るべきものです。 パウロはここで言っています。 「兄弟たち、私は今、あなた方に福音を告げ知らせましょう」 コリントの人々がそうであったように、私たちも何度も福音を聞く必要があります。 どのようにしてでしょうか。 それは聖書を通してです。 聖書は福音について書かれている本です。 この聖書によって福音を何度も聞くのです。 そうして再度福音を受け取り直していく。 これがわたしたちの信仰を成長させてくれます。 とくに現在のような状況下では、福音以外のものに頼るようにさせる働きも多いのです。だからわたしたちはいつも福音を聞く必要があります。 是非聖書を開いてください。 2 福音を受け入れる(1、2節) 福音を聞いたなら、それを受け入れましょう。 これは福音を聞いた瞬間、信じたという感情のことではありません。 キリストを中心にして生きることです。 ともすれば私たちは、福音を自分の業に付け足すアクセサリーのように考えて行動してしまいます。 まず自分があってキリストがいる。 こういう生き方は福音を受け入れた生き方ではありません。 これはビジョンとミッションの話とも言えます。 いつも神がわたしにどんなミッション(使命)を与えておられるのかを聞きながら、その使命の内側で自分のビジョンを描いていくのです。 それがクリスチャンとして生きるということです。 キリストがおられるから自分がいる。 コロサイ人への手紙3章4節にあるようにキリストは私たちの命です。 私たちは日々福音を聞いて、それを受け入れるのです。 3 福音に立つ(1、2節) この箇所はリビングバイブルでは「福音に根ざす」と書いてありました。 この方がイメージが持ちやすいかもしれません。 福音という大きな確固たる土台の上に根ざす生き方のことです。 福音によって神と結ばれた関係、神との一体性をイメージさせる言葉です。 福音を聞き、それを受け入れ、そして神と密接に繋がりながら生きていくことです。 こうすればわたしたちは福音のことばを保ち、その福音がわたしたちを救う(2節)のです。 4 種まく人のたとえ(マタイの福音書13章) "イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。 耳のある者は聞きなさい。」 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。" マタイの福音書 13章3~11節 "ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」" マタイの福音書 13章18~23節 この箇所の中心は、土地ではありません。 あくまで種撒く人が中心です。 そして種まく人とは、神様であり、種とは御言葉のことです。福音と言っても良いでしょう。 この福音を神様は日々私たちに向かって与えてくださいます。 ここである人は岩地の人で、ある人はいばらの中の人で、ある人は道端で、ある人は良い土地だと見るのではなく、これらすべての土地が自分自身のことだと思って頂きたいのです。 現在の状況で考えるならば、岩地のような状態である人が多いかもしれません。 御言葉を聞くには聞きますが、それでもこの災禍の中で不安や心配が襲ってきてどうにも耐えられない状況にあるかもしれません。 しかしそれでも神は福音を聞きなさいと言って与えてくださるのです。 種まく人が種をまくように、変わらずまき続けてくださる方です。 だから今心配で仕方がない不安で仕方がないという方も、自分を責めるのではなく、それでも主は私に向かって語り続けてくださっていることに心を向けてください。 こうして私たちの心に触れてくださいます。 私たちの心を変えてくださいます。 農夫が土地を耕し、きっちり整備するように、私たちの心も主は放っておかれません。 だから今がどんな状態であろうとも必ず良い土地になって、30倍、60倍、100倍の実を結びます。 どうぞそのことを今一度心に留めてください。 皆さんが、福音を聞き、受け入れ、それに根ざして、この1週間も過ごされますように。 そしてたとえそれができなかったとしても、主はみなさんを見捨てず福音を与え続けておられることを忘れないでください。