主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書24章13〜35節 タイトル: エマオへ向かう弟子たちと共に 今日もイエスさまの復活に関する聖書箇所を共に見ます。 イエスさまは十字架で捨てられ死なれましたが、3日目によみがえられました。 そしてその復活の命に生きるものとして、わたしたちを呼び出されその命を与えてくださいました。 今日はそんな復活の命に生きるものとされた弟子たちが、どのようにその命を受け取るように導かれたのかを見ていきたいと思います。 ⑴イスラエルは当時ローマ帝国という超巨大な国に植民地支配を受けていました。 イスラエルの民の希望はそのローマの支配からの脱脚でした。 しかし彼ら自身にはそんな力はありません。 だから彼らは救い主を待っていました。 いつの日かローマ帝国を倒しイスラエルを独立国として復興させることのできる救い主を待っていたのです。 そしてとうとうその救い主がやってきたと彼らは思いました。 それがイエスさまでした。 彼の言葉には力があり、人々は彼の言葉や彼に触れられることにより病気が癒されました。 ほんの少しの食べ物を彼が祝福すると何千人もの人が満腹になりました。 彼らはこのイエスキリストを先頭にしてローマから独立しようとしていたのです。 それは今日登場したイエスキリストの弟子たちも同じです。 彼らはルカの福音書24章21節において、"しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。‥"と記されています。 贖いと聞くと、罪の贖いという言葉をクリスチャンは思い出すと思うのですが、もともと贖いという言葉には、奴隷からの解放という意味があります。 つまり、ここは罪の贖いという意味というよりもローマの支配からの解放を望んでいたという意味なのです。 同じくルカが書いた使徒の働きにも、弟子たちが復活したイエスさまに言った言葉の中にこんなものがあります。 "‥「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」" 使徒の働き 1章6節 使徒たちを始め、イエスキリストの弟子たちは、自分たちの罪の贖いではなく、イスラエルの復興を願って、イスラエルが植民地支配から開放されることを願ってイエスキリストに付き従っていたという事が言えるのではないでしょうか。 マルコの福音書においては、ヤコブとヨハネはイエスさまにこう言いました。 あなたが御国の座につかれる時には、一人を右に一人を左においてください。 この御国とは、天国のことではありません。 ローマを追い出した後の、イスラエルの国のことです。 その時にイエスさまの右と左につきたいというのは、ナンバー2とナンバー3にしてくださいということなのです。 つまり弟子たちは、イスラエルの復興を望むと同時に、復興した後の自分の位の保証を目論んでいたという事が言えるのです。 イエスさまに付き従っていた理由の1つがそれだったということでしょう。 ではなぜ彼らはそれを望んだのでしょうか。 それこそ自分の幸せだと思っていたからではないでしょうか。 それこそ成功だと思っていたからでしょう。 彼らにとってイエスさまは自分たちが生きる上で必要な存在だったのです。 彼らは自分の目的に合致すると思ったから、自分が行こうとしている人生の目的地にイエスさまが連れて行ってくれると思ったから弟子となったと言えるのです。 しかし見事にそれは打ち砕かれました。 救い主イエスが倒すはずだったローマ帝国、そのローマの死刑道具である十字架にかかりイエスさまは殺されてしまったのです。こうして彼らの夢もやぶれました。 ⑵以上のことを押さえた上で19〜24節を見てください。 "イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」" ルカの福音書 24章19~24節 彼らはこの話を暗い顔つきで話していました。 落胆しながらエマオへの道を歩いていた途中だったのです。 イエスさまにつき従えば、自分の目的が達成できると思っていたのに、そうはならなかったからです。 彼らは暗く重い心で歩いていたのでしょう。 みなさんには同じ経験はないですか。 健康、友人、家族、学歴、仕事、収入、愛情などを欲しいと思い、手に入れたいと思い、それを手にいれたら幸せになれると考え、イエスさまについていけば得られるのではないかと思って従おうとしたことはないですか。 こういう時、わたしたちにとってイエスさまは、人生をまっとうするために必要なものの一つとなっているのかもしれません。 こういう状態にある時、どれだけイエスさまが共におられ話しかけておられてもそれに気づくことはないでしょう。 ちょうど今日の二人の弟子のように、イエスさまが一緒に歩んでくれていても気にかけないし、声をかけてくれていても、それが誰かわからないのです。 しかしそんな目の覆われていた弟子たちにイエスさまはどうされたのでしょうか。 "するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。" ルカの福音書 24章25~27節 27節の「聖書」とは今わたしたちが持っている新約聖書と旧約聖書が合わさったものではありません。 当時はまだ新約聖書はありませんので、ここでイエスさまは旧約聖書を引用しながらキリストの死の意味と栄光つまり復活について語られたのです。 自分の存在に全く気づかない弟子たちに根気強く教えられるイエスさまの姿がここから浮かび上がってきます。 二人の弟子はイエスさまから直接メッセージを聞きながら目的地であるエマオへと到着ました。 ⑶ "彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。" ルカの福音書 24章28節 弟子たちは目的地に到着しました。 しかしイエスさまはまだ先に行こうとされていました。 弟子たちの目的地とイエスさまの向かう先は違いました。 弟子たちが目指したものと、イエスさまが目指しておられるものは違うということです。 イエスさまと弟子たちの目的地が違うというこの出来事は、わたしたちにどんなことを教えてくれているのでしょうか。 わたしたちは自分の人生を自分の都合や、物の見方で捉え、一つ一つそれらを手に入れ、一つ一つ目的を達成していくことで、自分の人生を完成し、幸せになれると思っています。 それがエマオを目指す生き方なのです。 しかしイエスさまの目的地はそこではないのです。 ⑷ "それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、" ルカの福音書 24章29~33節 イエスさまは、まだ目が開かれていない弟子たちをそのまま放って置かれるのではなく、その求めに応じて彼らと宿を共にしました。 そして食卓につかれると、パンを取って祝福し、割いて彼らに渡されました。 すると彼らの目が開かれて、イエスさまだとわかったのです。 この食卓は聖餐式を意味しているわけではありません。 ユダヤ人たちの普段の食事の場面だと思ってください。 主人役の人が最初にパンの塊を手にとって、神さまに感謝の祈りを捧げ、そしてパンをちぎりながら、ひとりひとりに手渡してやるという、日本で言えば、ご飯をよそって一人一人に渡してあげている場面です。 そのように食事を共にしたとき、すなわち、その人の動き、祈りの言葉、そうしたものを見聞きした時、そして手渡されたパンのひとかけらを自分の手に受けた時、弟子たちはそれがイエス様だとわかったのです。 まだ十字架にかかられる前に、何度もイエス様から手渡されていたパン。その一つ一つの所作が彼らの心を打ち完全に目が開かれました。 そして、今目の前におられる方こそ、復活されたイエス様だと知ったのです。 到底信じられないと思っていた女性たちの証言が本当だったとわかりました。 イエスキリストは十字架で身代わりとなって死にわたされましたが、復活されたのです。 それはローマからの解放のためでなく、罪の贖いのため、罪の奴隷から解放されるための死と復活でありました。 この後、この弟子たちはエルサレムへと戻り他の弟子たちとイエスさまの復活について話し合い確認し合います。 ⑸ イエスさまは無理やりわたしたちを引っ張っていく方ではありません。 弟子たちは自分の目的地であったエマオへとただ向かっていました。 イエスさまが隣にいてもそれに気づかず、ただ自分の思う所へと向かっていたのです。そんな彼らに歩調をあわせ歩んでくださったイエスさまの姿がありました。 彼らよりも早くもなく遅くもなくぴったりと弟子たちに寄り添いながら福音を語り聞かせました。 ⑹みなさんは、今どこへ向かって歩んでおられますか。 コロナの災禍は続いています。 好転する気配はありません。 感染者は1万人を超えました。 大阪だけでも千人を超えました。 もはやどこで感染するかもわからない状況になりました。 こういう中でわたしたちは何を思いどこに向かって歩んでいるでしょうか。 エマオでしょうか。 それともイエスが向かう先でしょうか。 「こういう時だからこそ神さまに聞きましょう。神様の方をみましょう。」と良く聞かれることでしょう。そして実際そのように歩まれることもあるでしょう。 しかし本当に心が折れるとそれもできなくなります。 今日の弟子たちのように逃げ出したくなります。 祈ることや御言葉を読むこと、礼拝することもできなくなっていくのです。 しかしわたしたちがそんな状態になっても、イエスさまに話しかけられていても気づかなくなっても、イエスさまは共におられます。 わたしたちの歩幅にあわせ共に歩いてくれています。 わたしたちがそのことに気付いていないこともご承知の上で一緒に歩んでくれています。 「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」 このように言われるイエスさまの顔は決して「情けないやつだ。」という表情はしておられません。彼はいつも笑顔で、わたしたちを受け入れてくださいます。 わたしたちがイエスさまとは違う所へと向かう時も、イエスさまは離れません。 横にぴったり寄り添って、わたしたちの心配の種について聞かせて欲しいと言われます。その上でご自身の言葉を語られます。イエスさまという方はそういう方なのです。 こうして問題を乗り越え、イエスさまと違う方向へと進んでいた自分に気づいた時、思い出すでしょう。 「あ〜あの時も主は共にいてくださった。私から離れず共にいてくださったのだ。ひとりぼっちだと思っていたのに、誰も答えなどくれないし、本当の慰めなどくれるはずもないと思っていたのに、イエスさまが共におられることを気づきもしない私に寄り添い歩んでくださっていたのだ。」と。 つまずき倒れることもあります。 主の声が遠くなり分からなくこともあるでしょう。 しかしそれでもイエスキリストはあなたと共におられます。