主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き16章6〜11節 タイトル:神の導きかわたしの意地か みなさんは何かをしようと一生懸命頑張っているのに、それがことごとくうまくいかない時、どのように思われますか。「あれ?ひょっとして神はこれを望んでいないのではないだろうか?」なんて思うことはないですか。 そんな時、どうしますか。それでも自分の行きたい方へ突き進みますか。それとも祈って本当にこれで良いのか神にたずね、NOと言われたらキッパリ諦めますか。 何か二つの思いが衝突しているようですね。 今日の聖書にもこの二つの思い、力がぶつかり合う場面が出てきます。 今私たちはパウロの第二回目の伝道旅行を見ています。 バルナバと別れたパウロは、シラスと共にキリキヤ地方を通ってデルベに着き、そこからルステラ、イコニオムへとやって来ました。 ルステラでは後に大きな働き人になるテモテと出会い彼も共に伝道の旅に出ることになりました。 6節を見ますと、「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。」とあります。 ここからパウロの一行は「アジヤでみことばを語る」計画だったということがわかります。ピシデヤのアンテオケから西に向かえば、エペソがあるのでそこで伝道しようと思っていたのでしょう。 しかし聖霊はなぜかそれを禁じました。 彼らは進路を北にとり,〈フルギヤ・ガラテヤ〉を通過し.更に北へ進み,黒海沿岸の〈ビテニヤ〉を目指そうとしました。 しかしここでも再び〈イエスの御霊〉に阻まれます。 「こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」 (使徒の働き16章7節) こうした禁止や阻止の理由はわかりません。 しかしパウロの考えに対して聖霊は待ったをかけたのです。 おそらくパウロはまずこの小アジア地域を回った後に、ヨーロッパへと行こうとしたのだと思います。 みなさんもまず近いところから回って行った方が合理的だと思われるのではないでしょうか。わたしもその方がよいと思います。 しかし人が考える合理的なやり方と神様の考えは同じではないことがあります。 例えば、イエスさまが死んでよみがえり天に昇られた後、聖霊を与えると言われました。この時も人の常識に照らせばイエスさまを殺した人たちがいるエルサレムは避けて地方のガリラヤから始めた方が良いと思うのではないでしょうか。 しかしイエスさまはエルサレムで待てと言われました。 わたしが使徒ならエルサレムではなくガリラヤや他の地方から始めて徐々に勢力を伸ばし、その後エルサレムへ入っていく方法をとりたいと思ったと思います。 そんなわたしにとってイエスさまがエルサレムで待てと言われたあの出来事は理解が困難だったはずです。 だけどそれに従ったことでペンテコステの日に多くの人が救われ、さらに彼らが自分の住んでいる町に帰ることによって福音の種が一気にまかれることになったのです。 今日の聖書のパウロも自分が良いと思うアジアでの伝道を聖霊にとめられて困惑したのではないでしょうか。 しかもこの言葉を注意深く見ていくと、アジアに行ってはいけないとは言っていないことに気づきます。 だからこの後パウロ一行はアジアを通ってトロアスに行きます。 行ってはいけないわけではなく、アジアで福音を語ってはいけないと言われたのです。パウロにとってこれが最も理解し難いことだったのではないでしょうか。 ルステラで石に打たれて半殺しにされても福音を伝えることをやめなかったパウロです。彼にとってアジアを通っている間に福音を語らないことはありえないことでした。 神がどのような理由でパウロたちにアジアで福音を語ってはいけないと言われたのかはわかりません。 しかしとにかく聖霊によって語ることを阻まれたのです。 一人でも多くの人たちに福音を語りたいと思って出てきたパウロたちにとって理解し難いことだったに違いありません。 だからとにかくアジア地方を離れて他の地方に行って伝えようとします。 「こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」 (使徒の働き16章7節) ピシデヤに行こうとしたのはそういう理由からです。 アジア地方でなければ福音を伝えてもよいと考えたのです。 しかしそれも聖霊がとめられました。 一体どうすれば良いのか本当にわからなかったことでしょう。 しかしとにかくことごとく自分の計画に反対されるので、今度はアジア地方を通過してトロアスに行きそこからヨーロッパへ渡ることにしました。 まだアジア地域には伝道できていません。 本来であれば先にそちらに福音の種をまきたいところだったはずです。 しかし神の計画はパウロとは違っていたのです。 みなさんは自分が行こうとするところを神にとどめられたことはありますか。 行こうとするところに色々な事情で行けなかったたり、やろうとすることがことごとくうまくいかなかったりということはありましたか。 そういう時どのように対処されるでしょうか。 うまくいかなくても、とにかく自分が正しいと思った方に走りますか。それとも神に祈り、神がNOと言っておられることがわかったらそれを手放しますか。 パウロたちの素晴らしいところは、自分の思いや意地ではなくて徹頭徹尾神に従おうとしたところです。 聖霊が二度パウロたち一行の行手を阻みました。 その度に彼らは自分の意見ではなく神の思いを優先したのです。 ここもダメあっちもダメと言われて混乱したはずです。 しかしそれでも自分の思いを押し通すのではなく神がダメだと言われる地域を避けて福音を伝えることに専念しました。 そうして彼らはトロアスまでやってきました。 この先はヨーロッパ地方しかありません。 ヨーロッパに入ればさらに異邦人の数が増え町の雰囲気も大きく変わります。 これまで聖霊にアジアで語ってはいけないと言われたり、ビテニヤの地域で語ってはいけないという否定形での語りかけではありましたが、それに従い自分の計画を押しとどめトロアスまで来ました。 するとここでいよいよハッキリと目的地が示されるのです。 "ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。" 使徒の働き 16章9~10節 ここでパウロは「幻」を見ました。「ひとりのマケドニヤ人」が,「渡って来て、私たちを助けてください」と訴える幻です。 パウロはこの幻に,マケドニヤ宣教への神の招きをみました。 こうしていよいよハッキリと目的地を示されたパウロ一行はマケドニヤのあるヨーロッパ地域へと歩を進めたのです。 この先にピリピという町があり、そこにはあのルデアがいました。 ピリピの教会で中心的な働きをすることになる人です。 神が会わせたかった人の中にこのルデアがいたことは明らかです。 またこの人との出会い以外にも多くの出来事が神の導きの中で起こっていきます。 ただパウロたちはそれ以前にトロアス(あるいはその少し前)でとても重要な人物と出会っています。 それはいったい誰でしょうか。 ヒントが16章10節に隠されています。 "パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。" 使徒の働き 16章10節 「私たち」と言っていますが、「私」とはいったい誰なのでしょうか。 これが重要な人物です。 パウロでしょうか。 「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちは‥ただちに‥」と書いてあるので、パウロではない誰かということになります。 そもそもこの書簡は誰が誰に宛てて書かれたものでしょうか。 "テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。" 使徒の働き 1章1~2節 前の書でイエスが行い始め教え始められたすべてのことについて書き、天にあげられた日のことにまで及んだとありますが、まさにあのルカの福音書の内容そのものです。 また使徒の働きとルカの福音書はテオピロという人に宛てて書かれた書簡でした。 "私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、" ルカの福音書 1章1節 "私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。 それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。" ルカの福音書 1章3~4節 こういう理由から使徒の働きはルカが書いたと言われています。 もしルカではないかもしれないと思われる方も、今日の聖書に登場したトロアスで出会った人こそ使徒の働きの著者であるという点は同意いただけると思います。 これまで「わたしたち」という言葉を用いて伝道旅行が記されたことはありませんでした。パウロとバルナバはとか、パウロ一行はという言葉はありましたが、ここで突如として「わたしたち」という言葉が登場するのです。 パウロはこの町で使徒の働きの著者と出会ったのです。 とても重要な人物です。 パウロにとってはもちろんですが、わたしたちにとってもそうです。 神がこの著者を用いて今わたしたちが読んでいる聖書を書かれたからです。 神の計画の深さは計り知れません。 パウロたちは2000年後のこんな東の端の島国で自分たちの伝道旅行記が読まれることになるなどと想像もしていなかったでしょう。 しかも聖霊によって道を阻まれ阻まれたどり着いたトロアスで出会った人によって書かれるなどと知る由もありません。 神様だけがそれを知っていました。 わたしたちの歩みも、ときに神に阻まれいったいどうしたらよいのか。いったいどこに行ったらよいのか。わたしの居場所はどこなのか。わたしが行くべき道はどれなのか。 こんな風に思うことがあるかもしれません。 わたしたち人間は分からなくなることがあるのです。 しかし神様はご存知です。 わたしたちにとっての最善の道へ主は導びこうとされているのです。 だからその都度神の言葉に従いましょう。 自分の意地を優先させるのではなく、神に従いましょう。 その先に明確な道を主が見せて下さるはずです。 祝福を祈ります。