主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き15章1~21節 タイトル:葛藤と論争のただ中にも神は共におられる 今日のタイトルは葛藤と論争の只中にも神は共におられるとしました。 わたしたちの内側には葛藤が生じることがあります。 それは仕事のことかもしれませんし、家庭のことかもしれません。 またそれは過去に関することかもしれませんし、現在のことかもしれませんし、未来に関することかもしれません。 その葛藤の只中にいる時、人は神が共におられることを忘れてしまいます。 また共同体の中に論争が生じた時もそうです。 神が共におられることがわからなくなるのです。 しかし今日の聖書を見ると、たとえ神が共におられるように思えない出来事であったとしても、そこに確かに神がおられて導いておられることがわかってきます。 今日はそんなところをおさえつつ共に恵みを分かち合いたいと思います。 イエスさまは使徒の働き1章8節でこう言われました。 "しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」" この言葉の通り、福音はエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そしてさらに広域へ異邦人世界へと広がっていきました。 異邦人世界への宣教の働きを担うために立てられたのが、アンテオケ教会です。 そしてそこから派遣されたのがパウロとバルナバでした。 彼らは異邦人世界で多くの働きをし、それを通して多くの異邦人がキリストを信じるようになりました。 そして派遣元であるアンテオケと戻ってきたのです。 そこでどれほど主が働かれて多くのキリスト者が起こされていったのかを報告しました。 アンテオケ教会にとって何よりの知らせであったことでしょう。 しかしそんな喜びに満たされている教会に、ユダヤから人がやってきたことで問題が起こります。 使徒の働き15章1節 ”さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。” アンテオケ教会というのは異邦人(ユダヤ人でない人たち)中心の教会です。 だからユダヤ人たちが守っていたモーセの慣習であるとか、その中に含まれる割礼というものを受けていませんでした。 割礼を受けていようがいまいが救いには全く関係がありません。 しかしユダヤ地方からやってきたある人たちは、アンテオケ教会でモーセの慣習の大切さを唱えたのです。 これに対してパウロとバルナバが立ち上がりました。 2節では「‥パウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じた」とありますように、なかなかの騒ぎに発展したようです。 そしてアンテオケ教会だけでは収集がつかないと思ったのでしょう。 教会の本部といっても良いエルサレムに上って、使徒たちや長老たちと話しあうことになりました。 パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、一緒にエルサレムへと向かいました。 そしてエルサレムに着くとそこでも神がともにいて行われたことを、報告しました。 当然この報告の中には異邦人たちが聖霊を受けてイエスキリストを信じたことなどが含まれます。 しかしこれに対して反対する人たちがいました。 使徒の働き15章5節 ”しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。” 元々パリサイ派だった人で、イエスキリストを信じた人がエルサレム教会にはいたようです。 パリサイ派というのは、モーセの律法を厳格に守るように努めていた人たちです。 この人たちが立ち上がって、異邦人たちであってもモーセの律法を守らせ割礼を受けさせるべきだと言いました。 <ネガティブ?ポジティブ?> アンテオケ教会と同じような出来事がこのエルサレム教会でも起こりました。 アンテオケ教会での争いにしてもエルサレムでの対立にしてもそうですが、いずれも決して良い出来事ではありません。 人間の目からみるとネガティブな出来事でしかありません。 しかしここにも主が共におられたことを心にとどめたいと思います。 そしてこの出来事が最終的に主の御心は何かを求めるところで一致したことを考えると神の目から見れば決してネガティブなものではなかったはずです。 一見ネガティブな出来事でしかないと思えるようなことも、主が共におられることに心を向けていくとポジティブな出来事に見えるようになります。 ネガティブな出来事というのは、実はわたしたちの心を主に向けてくれるきっかけになります。 今回のアンテオケ教会やエルサレム教会での論争しかり、わたしたちの生活の中で起きるあらゆるネガティブな要素はわたしたちを不安にし、不満を募らせるものになりえますが、そこで止まってしまうのではなく、その先を見ていく時に、ポジティブなものに変わりうるのです。 アンテオケ教会やエルサレム教会で起きたことは、それだけを見れば良いことではありません。 しかしこの出来事を通して、彼らは主の御心を求めるところで一致していくのです。 <エルサレム会議> 続いてエルサレムでの会議の中身に入っていきます。 “そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。” 使徒の働き15章6~12節 まず「激しい論争が」あったことに注目したいと思います。 エルサレム教会でペテロやヤコブが影響をもっていたことは確かですが、他の人たちが意見を言えないような共同体ではありませんでした。だからここでもしっかりと激しい論争になるほどに他の人たちも自分の意見を言っています。 非常に民主的な会議がなされていたと言えるでしょう。 そしてそれに続くペテロの言葉も非常に興味深いものがあります。 この議論の論点は何だったでしょうか。 割礼を受けるべきか否かでした。 しかしペテロはこの言葉の中で割礼を受けるべきだとも受けるべきでないとも言っていないのです。 それよりももっと本質的で根本的なところを語ります。 ペテロのこの言葉によって議論がやみ、静かになります。 割礼をすべきだと言ったら、すべきでないと思っている人たちが異論を唱えたでしょう。 割礼をしなくても良いといえば、割礼賛成派がだまっていなかったでしょう。 ではペテロはなんと言ったのでしょうか。 この中で彼は、自分自身が異邦人に福音を伝えるために遣わされた体験を語ります。 そしてその意味するところとして、異邦人にも聖霊を与えられたこと、そして信仰を与えられたこと、神が割礼を受けている自分たちユダヤ人と差別されなかったことを語ったのです。 当然この言葉の裏には割礼は必要ないというペテロの心があります。 しかし彼は自分の意見に注目させるのではなく、神がここまでどのように導いてこられたのか。それに注目できるようにしたのです。 人の意見に注目していては教会はまとまりません。 神は一体どのように思っておられるのか、この教会に対する神のご計画は何かというところに注目していくときに、教会は一つになれるのです。 ペテロのこの言葉によって静まった後、アンテオケからやってきたパウロとバルナバが異邦人の間でなされた神のわざについて語りました。 彼らの言葉の主語も神です。 パウロがどう思うか、バルナバがどう思うかではないのです。 神がどう思われるかが大事なのです。 そこに注目することで教会は静かになります。 さらにこの議論に終止符を打ったのが、ヤコブの言葉でした。 "ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。 大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』" 使徒の働き 15章13~18節 シメオンが説明した通りだと言っていますが、これはペテロのことです。 そして預言者たちもこの言葉に一致していると言って、御言葉の裏づけをしてさらに説得力を与えています。 この預言者たちの言葉とは、旧約聖書の預言書をさしていて、主にアモス書のことです。 ヤコブは御言葉による裏づけをここで与えて教会の人々に語りかけています。 聖書は神の言葉ですので、ヤコブも人ではなく神の言葉に耳を傾けるようにしています。 そうして神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけないと語り、割礼を強要することに反対します。 ただユダヤ人クリスチャンたちにも配慮しユダヤ人と異邦人たちが共に信仰共同体として歩んでいるように語ります。 この会議の中で一貫しているのは、誰かの意見に合わせようとしないことです。 ただ神が望んでおられることは何かを考えながら意見を出し合っています。 クリスチャン同士でも意見が合わないことはあります。 その時に誰かの意見に合わせるのではなく、あるいは自分の意見に誘導するようなまねをするのではなく、神はどのような思いを持っておられるのかを追求したいと思います。この思いで一致することが大切です。 エルサレム教会の会議もまさにその通りでした。 予め結論を誰かが決めて根回しをして恣意的にまとめられたものではありません。 最初に激しい論争があったというように、出席者たちは思い思いの意見を述べたのでしょう。 しかし最終的に神の御思いに心を向けてそこで一致していきました。 <律法主義> ところでこの問題の始まりは何だったか今一度思い出してみたいと思います。 それは異邦人中心のアンテオケ教会にユダヤから人がやってきて、「割礼を受けなければ救われない」と言ったことでした。 現代に生きるわたしたちにこの言葉は何の関係もないかのように思えるかもしれません。 しかし「~しなければいけない」「~でなければいけない」という言葉に置き換えると、わたしたちの中にも存在する思いではないでしょうか。 これは律法主義です。 そもそも日本の社会そのものがある意味で律法主義的です。 そういう中で育ってきたので無意識下に律法主義的な考え方が潜んでいるのです。 この考え方は今日の聖書にあったように人を裁きます。 そして自分自身も裁きます。 そういう思いに支配されるとその人個人も生きることが辛くなるはずです。そして教会はとてもしんどい場所に変わっていくことでしょう。その人にとっても周りの人々にとっても苦しい空間になっていくことでしょう。 わたしたちはこういう心の状態に陥ることがあります。 そういう状態に陥ったとき、人を見ても悲観的な思いが湧いてくるでしょうし、自分もゆるせません。 「あの人はああでなければいけないのに出来ていない。」 「自分はこうでなければいけないのに出来ていない。結果が出せない。」 こういう思いが無限に湧いてきて縛られるのです。 しかしわたしたちは本当はこういう次元で生きなくても良いのです。 神はわたしたちに聖霊を与えくださいました。 最初から何かをわたしたちがすることによって生きているのではないのです。 わたしたちは神に愛され聖霊を受け取ったのです。 そして聖霊によって信仰を得たのです。 その信仰がわたしたちをきよめたのです。 そういうところでわたしたちは生きているのです。 <結び> 教会で起こる問題も、わたしたちの内側で起こる葛藤も、その時は何も良いもののようには思えません。ネガティブな出来事にしか見えないでしょう。 しかしその出来事や葛藤を通して教会や自分の内側の問題に気づくのです。 それが神さまの取られる方法なのです。 わたしたちにはネガティブな事としか見えないことも神には良い事として見えています。 今日の箇所には神が直接語りかけるような場面はありません。 しかしそこに神がたしかにおられ人々を導いておられるのです。 わたしたち個人の歩みも、またこの荒野教会の歩みも、神は共におられて導いておられます。
葛藤と論争のただ中にも神は共におられる
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主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き15章1~21節 タイトル:葛藤と論争のただ中にも神は共におられる 今日のタイトルは葛藤と論争の只中にも神は共におられるとしました。 わたしたちの内側には葛藤が生じることがあります。 それは仕事のことかもしれませんし、家庭のことかもしれません。 またそれは過去に関することかもしれませんし、現在のことかもしれませんし、未来に関することかもしれません。 その葛藤の只中にいる時、人は神が共におられることを忘れてしまいます。 また共同体の中に論争が生じた時もそうです。 神が共におられることがわからなくなるのです。 しかし今日の聖書を見ると、たとえ神が共におられるように思えない出来事であったとしても、そこに確かに神がおられて導いておられることがわかってきます。 今日はそんなところをおさえつつ共に恵みを分かち合いたいと思います。 イエスさまは使徒の働き1章8節でこう言われました。 "しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」" この言葉の通り、福音はエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そしてさらに広域へ異邦人世界へと広がっていきました。 異邦人世界への宣教の働きを担うために立てられたのが、アンテオケ教会です。 そしてそこから派遣されたのがパウロとバルナバでした。 彼らは異邦人世界で多くの働きをし、それを通して多くの異邦人がキリストを信じるようになりました。 そして派遣元であるアンテオケと戻ってきたのです。 そこでどれほど主が働かれて多くのキリスト者が起こされていったのかを報告しました。 アンテオケ教会にとって何よりの知らせであったことでしょう。 しかしそんな喜びに満たされている教会に、ユダヤから人がやってきたことで問題が起こります。 使徒の働き15章1節 ”さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。” アンテオケ教会というのは異邦人(ユダヤ人でない人たち)中心の教会です。 だからユダヤ人たちが守っていたモーセの慣習であるとか、その中に含まれる割礼というものを受けていませんでした。 割礼を受けていようがいまいが救いには全く関係がありません。 しかしユダヤ地方からやってきたある人たちは、アンテオケ教会でモーセの慣習の大切さを唱えたのです。 これに対してパウロとバルナバが立ち上がりました。 2節では「‥パウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じた」とありますように、なかなかの騒ぎに発展したようです。 そしてアンテオケ教会だけでは収集がつかないと思ったのでしょう。 教会の本部といっても良いエルサレムに上って、使徒たちや長老たちと話しあうことになりました。 パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、一緒にエルサレムへと向かいました。 そしてエルサレムに着くとそこでも神がともにいて行われたことを、報告しました。 当然この報告の中には異邦人たちが聖霊を受けてイエスキリストを信じたことなどが含まれます。 しかしこれに対して反対する人たちがいました。 使徒の働き15章5節 ”しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。” 元々パリサイ派だった人で、イエスキリストを信じた人がエルサレム教会にはいたようです。 パリサイ派というのは、モーセの律法を厳格に守るように努めていた人たちです。 この人たちが立ち上がって、異邦人たちであってもモーセの律法を守らせ割礼を受けさせるべきだと言いました。 <ネガティブ?ポジティブ?> アンテオケ教会と同じような出来事がこのエルサレム教会でも起こりました。 アンテオケ教会での争いにしてもエルサレムでの対立にしてもそうですが、いずれも決して良い出来事ではありません。 人間の目からみるとネガティブな出来事でしかありません。 しかしここにも主が共におられたことを心にとどめたいと思います。 そしてこの出来事が最終的に主の御心は何かを求めるところで一致したことを考えると神の目から見れば決してネガティブなものではなかったはずです。 一見ネガティブな出来事でしかないと思えるようなことも、主が共におられることに心を向けていくとポジティブな出来事に見えるようになります。 ネガティブな出来事というのは、実はわたしたちの心を主に向けてくれるきっかけになります。 今回のアンテオケ教会やエルサレム教会での論争しかり、わたしたちの生活の中で起きるあらゆるネガティブな要素はわたしたちを不安にし、不満を募らせるものになりえますが、そこで止まってしまうのではなく、その先を見ていく時に、ポジティブなものに変わりうるのです。 アンテオケ教会やエルサレム教会で起きたことは、それだけを見れば良いことではありません。 しかしこの出来事を通して、彼らは主の御心を求めるところで一致していくのです。 <エルサレム会議> 続いてエルサレムでの会議の中身に入っていきます。 “そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。” 使徒の働き15章6~12節 まず「激しい論争が」あったことに注目したいと思います。 エルサレム教会でペテロやヤコブが影響をもっていたことは確かですが、他の人たちが意見を言えないような共同体ではありませんでした。だからここでもしっかりと激しい論争になるほどに他の人たちも自分の意見を言っています。 非常に民主的な会議がなされていたと言えるでしょう。 そしてそれに続くペテロの言葉も非常に興味深いものがあります。 この議論の論点は何だったでしょうか。 割礼を受けるべきか否かでした。 しかしペテロはこの言葉の中で割礼を受けるべきだとも受けるべきでないとも言っていないのです。 それよりももっと本質的で根本的なところを語ります。 ペテロのこの言葉によって議論がやみ、静かになります。 割礼をすべきだと言ったら、すべきでないと思っている人たちが異論を唱えたでしょう。 割礼をしなくても良いといえば、割礼賛成派がだまっていなかったでしょう。 ではペテロはなんと言ったのでしょうか。 この中で彼は、自分自身が異邦人に福音を伝えるために遣わされた体験を語ります。 そしてその意味するところとして、異邦人にも聖霊を与えられたこと、そして信仰を与えられたこと、神が割礼を受けている自分たちユダヤ人と差別されなかったことを語ったのです。 当然この言葉の裏には割礼は必要ないというペテロの心があります。 しかし彼は自分の意見に注目させるのではなく、神がここまでどのように導いてこられたのか。それに注目できるようにしたのです。 人の意見に注目していては教会はまとまりません。 神は一体どのように思っておられるのか、この教会に対する神のご計画は何かというところに注目していくときに、教会は一つになれるのです。 ペテロのこの言葉によって静まった後、アンテオケからやってきたパウロとバルナバが異邦人の間でなされた神のわざについて語りました。 彼らの言葉の主語も神です。 パウロがどう思うか、バルナバがどう思うかではないのです。 神がどう思われるかが大事なのです。 そこに注目することで教会は静かになります。 さらにこの議論に終止符を打ったのが、ヤコブの言葉でした。 "ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。 大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』" 使徒の働き 15章13~18節 シメオンが説明した通りだと言っていますが、これはペテロのことです。 そして預言者たちもこの言葉に一致していると言って、御言葉の裏づけをしてさらに説得力を与えています。 この預言者たちの言葉とは、旧約聖書の預言書をさしていて、主にアモス書のことです。 ヤコブは御言葉による裏づけをここで与えて教会の人々に語りかけています。 聖書は神の言葉ですので、ヤコブも人ではなく神の言葉に耳を傾けるようにしています。 そうして神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけないと語り、割礼を強要することに反対します。 ただユダヤ人クリスチャンたちにも配慮しユダヤ人と異邦人たちが共に信仰共同体として歩んでいるように語ります。 この会議の中で一貫しているのは、誰かの意見に合わせようとしないことです。 ただ神が望んでおられることは何かを考えながら意見を出し合っています。 クリスチャン同士でも意見が合わないことはあります。 その時に誰かの意見に合わせるのではなく、あるいは自分の意見に誘導するようなまねをするのではなく、神はどのような思いを持っておられるのかを追求したいと思います。この思いで一致することが大切です。 エルサレム教会の会議もまさにその通りでした。 予め結論を誰かが決めて根回しをして恣意的にまとめられたものではありません。 最初に激しい論争があったというように、出席者たちは思い思いの意見を述べたのでしょう。 しかし最終的に神の御思いに心を向けてそこで一致していきました。 <律法主義> ところでこの問題の始まりは何だったか今一度思い出してみたいと思います。 それは異邦人中心のアンテオケ教会にユダヤから人がやってきて、「割礼を受けなければ救われない」と言ったことでした。 現代に生きるわたしたちにこの言葉は何の関係もないかのように思えるかもしれません。 しかし「~しなければいけない」「~でなければいけない」という言葉に置き換えると、わたしたちの中にも存在する思いではないでしょうか。 これは律法主義です。 そもそも日本の社会そのものがある意味で律法主義的です。 そういう中で育ってきたので無意識下に律法主義的な考え方が潜んでいるのです。 この考え方は今日の聖書にあったように人を裁きます。 そして自分自身も裁きます。 そういう思いに支配されるとその人個人も生きることが辛くなるはずです。そして教会はとてもしんどい場所に変わっていくことでしょう。その人にとっても周りの人々にとっても苦しい空間になっていくことでしょう。 わたしたちはこういう心の状態に陥ることがあります。 そういう状態に陥ったとき、人を見ても悲観的な思いが湧いてくるでしょうし、自分もゆるせません。 「あの人はああでなければいけないのに出来ていない。」 「自分はこうでなければいけないのに出来ていない。結果が出せない。」 こういう思いが無限に湧いてきて縛られるのです。 しかしわたしたちは本当はこういう次元で生きなくても良いのです。 神はわたしたちに聖霊を与えくださいました。 最初から何かをわたしたちがすることによって生きているのではないのです。 わたしたちは神に愛され聖霊を受け取ったのです。 そして聖霊によって信仰を得たのです。 その信仰がわたしたちをきよめたのです。 そういうところでわたしたちは生きているのです。 <結び> 教会で起こる問題も、わたしたちの内側で起こる葛藤も、その時は何も良いもののようには思えません。ネガティブな出来事にしか見えないでしょう。 しかしその出来事や葛藤を通して教会や自分の内側の問題に気づくのです。 それが神さまの取られる方法なのです。 わたしたちにはネガティブな事としか見えないことも神には良い事として見えています。 今日の箇所には神が直接語りかけるような場面はありません。 しかしそこに神がたしかにおられ人々を導いておられるのです。 わたしたち個人の歩みも、またこの荒野教会の歩みも、神は共におられて導いておられます。