主日礼拝メッセージ 聖書箇所:マタイ福音書6章19~21節 タイトル:天に宝をたくわえる聖徒 今日は2020年の最初の主日礼拝です。 毎年のことですが、今年も荒野教会の標語とその意味をお伝えする時間にしたいと思います。 今年の標語は、天に宝をたくわえる聖徒です。 今年一年荒野教会のお一人お一人がこの標語を目標に歩まれることを心からお祈りいたします。 ではまず今日の御言葉を共に読みます。 "自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。" マタイの福音書 6章19~21節 ここには地上に宝を蓄えるのをやめなさいと記されています。 「やめなさい」という言葉が示す通り、イエス様の話の相手が今地上に宝を蓄えていることがわかります。 当時イエス様の前にいたのは弟子たちですので、この時その弟子たちが地上に宝を蓄えていることを前提に語られた言葉です。 そして現代の弟子であるわたしたちにもイエスさまは語っておられます。「自分の宝を地上に蓄えるのをやめなさい」と。 この御言葉は字義的に単純に読めば、私たちの財産(宝)をどのように使うかを示す言葉と言えるわけですが、今日はそれだけではなくもう少し宝という言葉の意味を考えてみたいと思います。 宝とは一体何だろうか。財産だけを指しているのだろうか。 それを問うていくと、私たちにとって一番大切なもの最優先のもの、それが宝だという考えに至ります。 みなさんは何を最優先に考えておられるでしょうか。 今それが思い浮かぶという方もいれば良くわからないという方もいるかもしれません。 しかし確かなことは、イエスさまがわたしたちにこのように言っておられるということです。 「今最優先にしているものを捨てて天のものを一番にするように」と。 2020年の最初の主日にまず考えてみたいことは、わたしの最優先事項は一体何かということです。 人は最初生まれた状態のままだと天にあるものを宝とせず、この世のものを宝とするようになっています。 それがわたしたち人間の本性だからです。 たしかにわたしたちはイエスキリストによって救われ新しい人となったので、天のものを求めようとする心もあります。 しかし救われる前の原理もまだわたしたちのうちには残っていて、地上のものを求めようとしてしまいます。 わたしたちの内側ではこの二つが日々衝突するのです。 新しい人と古い人といっても良いこの二つが衝突します。 そんなわたしたちに最善をご存知のイエスさまが言われるのです。 宝を天に蓄えなさいと。 ここでイエスさまが言いたいのは、まず天のものを宝としなさいということです。天に蓄えることができるのは天のものだけだからです。その上でその宝を蓄えなさいと言っておられるのです。 それは誰かに奪われることもないし、傷をつけられることもありません。 ではこの天のものとは何なのでしょうか。 これを考えるためにまず天のものとは逆のものである地上のものを考えてみたいと思います。 言葉の意味を考える時は、それとは真逆のものを考えてみると見えてくることがあります。 そのために律法学者たちが追及していたものを見てみましょう。 彼らこそ地上のものを求めた人の代表です。 "だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。" マタイの福音書 6章2~4節 ここでイエスさまは施しについて語っておられます。 偽善者たち(これは律法学者たちのことですが、)彼らは人に見られるために施しをしており、その報いを受けているとあります。 報いとは自分がしたことに対する結果です。 彼らは人からの賞賛を求めて施しをしていて、その結果、人から賞賛を得ているのです。 それが彼らの報いです。 彼らの宝は人からの賞賛でした。 また祈りについても彼らは神に聞いていただくためではなく、人に祈っている姿を見せるために祈っていました。 "また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。" マタイの福音書 6章5~6節 彼らはその報いを受けてしまっています。 彼らの宝はここでも人からの賞賛でした。 四つ角とは十字路のことで、二本の道が交差する地点ですので、人が一段と多い場所です。人がたくさん通るのでその分賞賛をたくさん受けることができるのです。 彼らはそういうところを選んで祈っているという指摘です。 さらに断食についても次のように語っていました。 "断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。" マタイの福音書 6章16~18節 ここまで施し、祈り、断食に関して見て来ましたが、いずれも律法学者たちは人に知られるようにしていました。これに対してイエス様は他の人に知られないようにしなさいと言っておられます。 どんなことをしても、それが人から認められたいという思いからならば、ただこの世のものを宝とすることだからです。 人から認められることを宝としているのです。 この宝はその人をさらにこの地上に縛り付けます。人からの評価は変化するからです。だから評価を下げないように必死になります。 そういう人の歩みはこの地上のことに縛られたとても不自由な歩みになります。 しかし本人にはそれがわかりません。 この地上の宝は人の目にはとてもうるわしく素晴らしい物のように見えるからです。 それはまるであの善悪の知識の木の実が美しく見えたようにです。 間違っていないように思います。 正しいことをしているように感じます。 私たちは自分の内側にこの状態から脱する力を見つけることはできません。 だからイエス様はこの大きな話の流れの中で「こう祈りなさい」と言われて主の祈りを教えてくださいました。 それが6章9~13節に記されています。 "だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕" マタイの福音書 6章9~13節 イエス様は、施し、祈り、断食に対する律法学者たちの間違いを指摘する中でこの主の祈りを教えてくださいました。 この祈りこそ天のものを宝とするための祈りであり、天に宝を蓄える者となるための祈りだと言えます。 主の祈りの最初は何についてだったでしょうか。 天におられる父への呼びかけでした。 律法学者たちの祈りとは真逆です。 律法学者たちは、地上に目を向けてそれを追及して祈りました。 しかしイエスさまは弟子たちに天を見上げるように言われるのです。 主の祈りは礼拝の中だけでなく、個人的にも祈って頂きたい祈りです。 主の祈りは私たちの心を天に向けてくれるからです。 それと共に自分の心が地に向かっていたことに気づかせてくれます。 わたしは今日のメッセージの準備をする間にも何度も主の祈りを祈りました。 みなさんは祈りをはじめた時に、色々な考えが湧いてくるという経験をされたことはないですか。 そういう時にも主の祈りというのは大変力を発揮してくれます。 主の祈りを祈ることによってまた真っ直ぐな祈りに戻ることができます。主の祈りによって地上に囚われてしまった心を天に向けることができるのです。 だからここでもう一度強調したいのは主の祈りを祈って頂きたいということです。 私たちには祈りが必要です。しかし正しい祈りがわからなくなることがあるのです。 どう祈ったら良いのだろうかと思うことや、「ああして下さい、こうして下さい。」ばかりの祈りになってしまうこともあるでしょう。あるいは不満ばかりの祈りになってしまうこともあるかもしれません。 しかしそういう時こそ主の祈りを思い出して祈ってみて下さい。 地上に心縛られてしまっている時こそ、天に思いを向けなくてはいけません。 そういう時に主の祈りは心を天に向かわせてくれるのです。 またご自身が今どのような状態にあるかを知るための判断基準についてもお話ししたいと思います。 聖書を読み進めて行くと、25節や27、28節、中でも34節に登場する言葉がありますが、これが一つのキーワードになります。 それは「心配」です。 この一年「おかしいな、心が落ち込んでいるな」と思った時は、心の中に心配がないかを確認してみてください。 それが天を向いているか地上を向いているかの一つの判断基準になります。 "だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。" マタイの福音書 6章34節 結局この世のものを宝としてそれに心を奪われていると、虫がつくかもしれません。サビがつくかもしれません。泥棒に取られるかもしれません。 これらの言葉はこの世のものは変わるということを教えてくれます。 わたしたちはそれが変わらないように必死につかもうとします。 走って逃げる何かを必死に追いかけてそれを止めようとします。 変わらないように、できればもっと良くなるようにと。 それは人からの評判や評価かもしれません。 またお金やその他の物質かもしれません。 それがこの世界に囚われていると、自分の元から逃げていくような、離れてしまうような気持ちになるのです。 こういう思いに支配されると心配で仕方がなくなります。 明日のこと、またさらにその次の日のことが気になってきます。 こういう思いになっている時は、心が地上に向いている時です。 地上のものに縛られている時です。 そんなわたしたちにイエス様は「天を見なさい」と言っておられるのです。 26節以降では空の鳥を見なさいといわれます。 そしてこの鳥たちも養っているのは天の父だと、ここでも天という言葉を使ってわたしたちの心を天に向けてくれます。 わたしたちの必要を神様はよくご存知です。 何を今悩んでいるのか。 どんなことに葛藤し不安に思っているのか。 全てご存知です。 その方が天を見てそれを一番にするようにと言っておられるのです。 そうすれば必要なものはそえて与えられると言われるのです。 だから2020年、天のものを宝とし、天に宝をたくわえるものとして歩んでいきましょう。 それはいつも天を思い、天にまします我らの父の言葉を聞くことです。 そしてその言葉に聞き従い生きることです。 そこから出たすべての思いと行いのことです。 今年も主の祈りを祈りつつ共に歩んでいきましょう。 祝福を祈ります。