主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ヨハネの黙示録7章1~8節 タイトル:裁きを待たれる主 私たちは普段生活していると見えるものだけで判断し行動しようとしてしまうものです。そしてその結果失敗したり落ち込んだりすることもあります。 しかし聖書を読むと目に見えることが全てではないということがわかります。いやむしろ目に見えないことの方が実は重要なのだという思いにも導かれていきます。 今日の聖書も私たちの肉眼では見えない出来事が記されていますが、確かに起きていることです。 今日はそのことに目を注いでみたいと思います。 今日の聖書は終末における神のしもべたちの様子について記されています。 どうして終末について見ようと考えたかというと、今日から始まるアドベントと関係しています。 アドベント(Advent)とはラテン語Adventusが語源でその意味は来臨、到来です。 来臨、到来にはさらに二重の意味があります。 一つは旧約聖書で約束されていた救い主、メシアが世に来られることです。この第一の到来を祝うのがクリスマスです。アドベントはこの第一の到来を想いその意味を黙想しつつクリスマスの準備をする時だと言えます。 そしてもう一つは、天に昇られたメシアが再びこの地に来られることです。この出来事はこれから起きることです。アドベントはこの第二の到来を待ち望みつつ備える日でもあります。 今日はこの二つ目のメシアが再び来られることを待ち望むことについて語るために以前黙示録を6章まで見ていたことも鑑みて7章を見ようと思います。 "この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。" ヨハネの黙示録 7章1節 ここで風と言われるのは神の最後の審判のことです。 神の審判を表す風を四人の御使いたちが押さえることで地と海が守られている様子が記されています。 四人の御使いや、地の四隅、そして地の四方の風など4という数字が何度も出てきましたが、これは被造物あるいはこの世界を象徴する数字です。 このことから地と海とはこの世界のことだと言えます。 この世界ですので、私たち人間もこの中に含まれています。 今この世界があるのは、御使いがその裁きの風を押さえているからというわけです。 これが目に見えない世界で起きていることなのです。 では続いて2節3節を読みます。 "また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」" ヨハネの黙示録 7章2~3節 他の御使いがこの審判を行う四人の御使いに大きな声で命令します。 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」 この御言葉から、神の最後の審判がまだ執行されないのは、神の主権によるところであることがわかります。 まだ神のご計画された人たちが救われていないので、その数が満ちるまで神は最後の審判を執行されないということを示しています。 印とは印鑑のことです。 古代の中東の印鑑、特に王様の印鑑は指輪と一体でした。 ヨハネが見た印鑑もそのようなものではなかったででしょうか。 印鑑は①所有権と②保護を意味します。 手紙などの封に判を押すことがありますね。 映画なので見たこともある方もいるのではないでしょうか。 封筒の封の部分にとけたロウを垂らして、その上から印をつくことで厳重に封がされます。 また③事実の証明のためにも印は用います。書類の最後にハンコをおすことをイメージしていただけたら良いと思います。 神に印をおしてもらうということは、これら三つの意味があります。 神の所有であることと、神の守りを受けるということと、そのことの証明のしるしなのです。 エゼキエル9章4~6節には、神様がバビロンを使ってエルサレムを審判された時に、額に印のついた者だけがその審判から逃れられるという記述があります。 そのことを背景にして黙示録でも最後の審判について語られているのです。 続いて4~8節を読みます。 "それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、 アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、 シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、 ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。" ヨハネの黙示録 7章4~8節 4節には印を押されたものの数が記されています。 この数は黙示録14章と合わせて見ると意味がわかるところです。 "彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。" ヨハネの黙示録 14章3節 ここには地上から贖われた14万4千人と記されています。 つまり14万4千人とは文字通りイスラエルの人々をさすのではなく、今までに主に贖われ救われた人々や、これから救われる人々全てを指している象徴的な数字なのです。 だからその全ての人が救われるまでという意味で、御使いは印が押されるまで神の審判を意味する風をこの世界に吹かせてはいけないと命令しました。 世界に審判の風を吹かせないように御使いが留めている姿は主が私たちを待っておられる姿に見えます。 主に選ばれた全ての人が主の救いを受け取るまで、審判を待っておられるのです。 私たちは主が来られることを待ち望めているでしょうか。 明日終わるかもしれないこの世界のことに囚われて、本当に見るべきものが見えていないのではないでしょうか。 来年の目標をたてたり、長期計画を練ることを否定しているわけではありません。 「一番大切なことは何なのかを思い出しませんか。」 と言いたいのです。 最近水曜礼拝で学びをしているハイデルベルク信仰問答というものがあります。 1563年にドイツのハイデルベルクという町で生まれた信仰問答です。 聖書の案内役をしてくれるよい書物です。 この信仰問答の第一問には次のような問答があります。 問 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。 また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。 実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。 この信仰問答は慰めという言葉をキーワードにして進めていくものですが、慰めはドイツ語で拠り所や信頼という意味もあります。 つまり生きるにも死ぬにもただ一つの拠り所となるのは何かという質問なのです。 それに対して私が私自身のものではなく、主イエスキリストのものであることだと答えています。 生きるにも死ぬにも拠り所となるのはイエスキリストだけです! 自分の思い、自分の計画、自分の夢の実現を拠り所としても生きている間のほんのひとときの拠り所にしかなりません。 生きるにも死ぬにも永遠に拠り所となるのは、イエスキリストだけです。 この世での命などあっという間に終わります。 永遠の命の方に目を向けて生きていきましょう。 それを心からオススメしたいと思います。 ただそうは言っても、そんなにすぐに人は変われるものではないことも事実です。 だからこそ主はそんな私たちを、主を待ち望めない私たちを待っていてくださるのです。 主をしっかり見上げて待ち望めるようになることがこのメッセージの到達点のつもりで準備をしていましたが、主を待ち望めるようにと願った私たちをすでにはるか昔から主が待ってくださっていたことに気づかされます。 御使いたちに命じて、裁きの風をとどめておかれる姿はそのような姿なのです。 「あなたが本当の意味で気付くまで、私しかいないことに気づくまで、私はこうして待ち続けよう。」 このように主は言っておられるようです。 風が吹いているということはいつ裁きの時がきてもおかしくないのです。 しかし主が私たちのために待ってくださっている。 今までもそうだったように、これからも待っていてくださる。 そのことを覚えたいと思います。 このアドベントの期間に、もう一度主のおとずれを思い巡らし、私たちのただ一つの拠り所であり希望であるイエスキリストに目を向けるみなさんでありますように。