第1問 人の主な目的
問: 人の主な目的は何ですか。
答: 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。
Q. 1. What is the chief end of man?
A. Man’s chief end is to glorify God, and to enjoy him forever.
これはウェストミンスター小教理問答の最初の問いです。
人の「主な」目的が何かを問うています。
どうして最初にこの問いがおかれたのでしょうか。
それは本格的な内容に入る前に前提をしっかりさせるためです。
これから歩いていく道があるとして、この問いと答えはその歩いていく方向を示してくれるものです。
どれほど必死になって道を歩いたとしても逆方向へと歩けば、歩いた分だけ無駄になってしまいます。
それを防ぐための問いなのです。
「人の主な目的は何か?」という問いを別の言葉で言いかえるなら「あなたはどうして生きるのか?」となります。
この問いは人の存在価値とアイデンティティを見出すことができるようにする重要なものと言えるのでしょう。
<問について>
ではこれから問いを詳しくみていきます。
この問いには人には「目的」というものがあるという「前提」が隠れています。
「本当に人には目的が必要なのか?」「ただなんとなく生きたらいいだろ?」このような疑問をもつ人もいることでしょう。
しかし「人には目的がある」という前提を受け入れないと次の段階へ歩を進めることはできません。
小教理問答は、目的があればこそ存在する意味があるという前提の上に立っているのです。
✩以下に相反する2つの見解があります。
① 聖書
a見解
絶対的真理は存在する。
b目的
神によってつくられた他の被造物よりも特別な目的と理由があってつくられた。
「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」(伝道の書12:13)
c特徴
絶対的な人生の目的があればその人生には価値がある。
→生きる目的があればこそ、その人生には意味があるといえます。目的がなければ今日を生き生きと生きる根拠もなく、結局虚無感に落ちていくしかありません。人は神によってつくられたときに他の被造物とは違う特別な目的と理由が与えられたとするのが聖書の教えです。私たちはその目的に合わせて、真理を追求して生きていくのです。
旧約聖書の伝道者の書には「人の本分」と表現されています。「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」(伝道の書12:13)。この目的がわからないと、「空の空、空の空、いっさいは空である」(伝道の書1:2)というように、すべての事が一時的で虚しいものになってしまいます。
② 無神論・唯物論
a見解
絶対的真理はない。世はただ存在しているだけ。
b目的
人生の目的は誰かがくれるものではなく、自分が探すものだ。自分の立場からもっともよいものを探すことが目的だ。自分の人生は自分のもの。自分の幸せと満足のためのもの。
c特徴
自分と他の人が違うように存在の目的もちがう。
→この見解は神などいないと考え存在自体に意味があると主張するものです。つまり人には与えられた目的などないという見解です。この立場の人にとって人生の目的とは誰かがくれるものではなく、自分が探すものです。彼らは自分の幸福と満足を追求します。彼らにとっては自分が一番良いと思うものを探し出すことこそ人生の目的なのです。
この考えはどのような結果をもたらすでしょうか。自分にとって良いものだけを探すのだから、自分が好きなものと他の人が好きなものが違うように、存在の目的も人によって違うという相対主義へとつながっていきます。相対主義の人からすれば絶対的な真理など存在しません。自分が考える最善こそが真理となるのです。すなわち世の人々が各々自分だけの真理を持っているということになります。
問には「人の主な目的は何ですか」と記されていますが、どうして「主な(chief )」という言葉が含まれているのでしょうか?
人が生きていく上で持つべき最も重要な目的、人生で追求すべき最善で最高のものを意味する言葉として「主な」という言葉が記されています。
わたしたちが得ることのできる他の目的よりも優先され、究極的で、主要な目的があるということを表現するための言葉です。
<答について>
第一問の答えには「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」とあります。
これは①神の栄光をあらわすことと、②神を永遠に喜ぶことの二つに分けることができます。
①神の栄光をあらわすこと(コリントⅠ10:31、ローマ書11:36)
「神の栄光をあらわす」とは自分の人生の全領域において神を証ししあらわしていくことです。
私という存在、命、思考、言動など、すべてにおいてその根拠を神におき、神をみとめることです。
また神が喜ばれることは何なのかを最優先にすることです。
これは神が自分の創造主だということを万物をとおして認識し、被造物として自分の創造主である神をみとめ、ただその御名だけを呼び、賛美し、感謝し、その方だけを愛し、その御心に従うことです。
これは何をするにしても神をみとめ恐れ敬うことを意味します。
息をすること、食べること、寝ること、仕事をすること。
それら全ては神の恵みがあってこそ可能なのだと認めることです。
この答の特徴は関心事の中心が神だということです。
自分の関心事の中心が自分ではなく神なのです。
問では「人の」目的を問うていますが、答では「神の」栄光を語ります。
自分中心の本性をもっている人類からみると的外れな答えかもしれません。
人は自己中心であり、自分の人生は自分のものだと自然と考えるものです。
クリスチャンも人間なので同じです。
しかし自己中心になりそうな時、そのたびに「違う。すべてのことは神が下さったものだ!」と再度確認し、全てのことにおいて神をあらわして生きるものとなりたいと思います。
選択の基準は「神は何を好まれるか」です。このことを心にとめて生きることが「人の目的」に合った生き方であり、信仰者の生き方なのです。
「どうしたら家族が喜ぶか。」「どんな利益があるか。」「どうしたら楽に生きることができるか。」
このようなことが基準になるのではありません。
どんな基準を持つかが神の民と世の人々とを分けるのです。
「自分さえ良ければ良い。」という考えが蔓延する現代において、私たちにもそのような考え方が抵抗感なく入ってきます。
しかし小教理問答はそれにNOというのです。小教理問答の重点は神にあるからです。
世の宗教が追求する「勧善懲悪」(=善を勧め、悪を懲らしめる)も真理にはなりえません。
なぜならその「善」とはなにかと問うたとき、文化や地域によって違うからです。
しかし私たちの答えはそのような一時的で可変的なものではない永遠不変の神にあります。
②永遠に神を喜ぶこと(詩篇73篇25−28節)
第1問の2つ目の答えは、人の主な目的は神を永遠に喜ぶことだと教えます。一見すると無茶苦茶な答えにも見えます。そこでまず「神を喜ぶ」という表現はどういう意味なのか考えて見ます。
「神を喜ぶ」とは神の御心とはたらきを期待し望み、どのような状況の中でもその御心に積極的に自発的に従うことをいいます。また自分の気分のままに一時的にするのではなく、自分の人生において神に従うことです。
自分が心から愛する人を思い浮かべれば、このことを理解するのに助けになります。ここでの「喜ぶこと」をほかの言葉でいうと「愛すること」です。愛すれば喜びがうまれます。愛する対象がいれば、その人を考えるだけでも心がうれしくなり、喜びがあふれ、いつもその人のとなりにいたいと思うようになるでしょう。そしてその人が望むことをしてあげたいし、その人の心を知りたいと思うはずです。
ですから神を喜ぶとは、神を愛し神とともにいたいと思うことです。私たちが神を心から愛するとき感じることのできる感情を「喜ぶ」という言葉で表現しているのです。
神を愛するとは神が何かしてくれたからそれへのお返しとして愛するということではありません。人間同士であっても同じです。真実の愛とはその人をそのまま好きになることであって、その人のもっているお金や背景や社会的な条件を好きになることではありません。同じように神を愛するとは神がくれる贈り物や、祝福や自分が手に入れたいものに目をむけることではありません。神自身を喜ぶことです。
心をつくして神自身を知っていくことを喜び、神の言葉に従順することを喜び、神の言葉が成就することを喜び、神を愛するように隣人を愛すること、これが神を喜ぶ人の姿です。
次に人にこのような目的を与えた理由はなんなのかを考えてみましょう。それは神の愛のためです。神は私たちに無駄な規則を与える方ではありません。善であり慈しみ深い神はご自分の被造物である人間にご自分とお互いに愛し合う関係となろうと言ってくださっているのです。神は最高の栄光に満ちた存在であるにもかかわらず被造物でしかない人間に近づき、まるで対等な存在であるかのようにお互い愛し合おうと言われるのです。
私たちはどのような試練にあっても、その試練に倒れるようなことがあったとしても、完全に挫折したり絶望することはありません。神とのこの関係に立てばもう一度立ち上がることができるのです。