主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ローマ人への手紙1章16、17節 タイトル:ただ信仰のみ これまで荒野教会では特に宗教改革を記念して何か特別なことはしてきませんでしたが、プロテスタントの教会で宗教改革記念礼拝なるものがもたれているところは少なくありません。 それは宗教改革が始まったとされる10月31日の前の主日に持たれる特別な礼拝です。 学校の歴史の教科書などにも記されている宗教改革ですが、そのことの意味と現代の私たちに与える教訓は非常に大きなものがあります。 そこで今日は宗教改革に関するお話をしたいと思います。 宗教改革の信仰を表す標語が5つあります。 ただ信仰のみ、ただ聖書のみ、ただ恩恵のみ、ただキリストのみ、ただ神の栄光のみ、以上5つです。 今日はこの中のただ信仰のみに絞ってお話ししたいと思います。 マルチンルター、この名前は大抵の人が聞いたことがあるでしょう。 世界史の教科書にも記されたこの人は1483年にドイツで生まれました。 父親は鉱山労働者でしたが、やがて精錬所を経営し、ルターは若い頃から良い教育を受けることができました。 1501年に大学に入り基礎学科の学びを始め1505年には修士号を取得しました。 そして父親の希望で法律の学びへと歩みを進めたちょうどその年実家のあるマンスフェルトからエアフルトへと向かう途中激しい雷雨におそわれ雷に打たれそうになったそうです。この日より彼の人生は大きく変わります。 わたしは今年の夏、ものすごい雨に降られたことがありました。 ある建物から数十メートル先の車まで向かうだけでしたが、一面水で覆われ、くるぶしあたりまで濡らさないと歩けないほど水が溜まっていました。 雨が降りはじめた頃から大きな雷がなっていたのですが、明らかに近くに落ちたとわかる音と光でビクビクしながら小走りで車まで向かいました。 足が水につかっているものですから、直接自分におちなくても、近くに落ちたら感電して死んでしまいます。そうおもうと一層怖くなって口から自然と「主よ。主よ。」という言葉が出てきました。 近くに建物がたくさんあったので恐怖が少し軽減されましたが、これがもし広い場所であったらと思うとぞっとします。 ルターが当時いた場所は野原でした。 落雷の危険性が跳ね上がる場所だと言えます。 そんな危険な状況の中、彼は「聖アンナ様、お助けください、修道士になります。」と口走ってしまいます。 当時は困難の中で聖人に助けを求めることは一般的でしたが、ルターは真面目な人だったようで、その言葉を守り2週間後には本当に修道士になっていました。 ルターに法律を学ばせたかった父親はカンカンでしたが、それでもルターの決意は変わりませんでした。 修道士になってからもルターは真面目な生活を送りました。 しかし真面目に生きれば生きるほど自分は神の怒りを免れることができるのか、どれぐらい修行を積めば神に喜ばれる人になれるのかルターは悩みました。 カトリック教会では告解という儀式があります。 これは洗礼を受けた後に犯した罪を司祭を通して神に告白し、赦しを請う儀式なのですが、ルターは小さな小さな罪でも一つ一つ司祭の前に告白しました。あまりにもルターが頻繁に来るので、司祭が面倒くさがって「もっとまともな罪を犯してから来なさい」というほどだったそうです。 このように苦しんだルターに手を差し伸べたのは、シュタウビッツという神学教師でした。 彼はルターの助言者となり、キリストの十字架に示される愛に目を向けることを教えました。 またルターに神学博士号を取らせて、大学の聖書講座の後継者に立てました。 ルターの講義は「詩篇」「ローマ人への手紙」「ガラテヤ人への手紙」「ヘブル人への手紙」と続きました。 ルターは苦悩しながらも聖書研究に打ち込みますが、「神の義」という言葉に悩まされ続けます。 しかしある御言葉に目が開かれて「神の義」とは何かを知ることとなるのです。 それが今日の聖書のローマ人への手紙1章16、17節です。 "私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。" ローマ人への手紙 1章16~17節 この聖書はパウロがローマのクリスチャンたちに宛てて書いた手紙です。 パウロは色々なところに宛てて手紙を書いた人ですが、このローマ人への手紙は他とは大きく違うものでした。 何が違うかというと、パウロが書いた手紙の中で唯一行った事のない場所にあてた手紙だという点です。 したがって彼は相手側のことがよくわからない中で書いたと言えます。 そこでパウロは福音の体系的な理解のために綴っています。 中でも今日の箇所は福音とは一体何なのか。そして神の義とは一体どのようにしてあたえられるのかを書いている聖書なのです。 16節でパウロは福音が信じる全てのものに救いを得させる神の力であると言います。 「力」と訳されているギリシャ語はドュナミスと言って、英語のダイナマイトの語源となった言葉で、物事を成し遂げる力や、体力、戦闘力、政治力など包括的な意味がある言葉です。ただダイナマイトのような言葉の語源となったことも勘案するととてつもない力を表現した言葉と言えるでしょう。 ではそのとてつもない力は誰の力なのでしょうか。 それは神の力です。 福音は神の力なのです。 私たち人間の側の力ではありません。 福音は信じるものすべてに救いを得させる神の力です。 私たち人間が自分の力で得るものではないのです。 そしてこの福音の内にこそ神の義が啓示されています。 その義とは一体なんでしょうか。 これこそ十字架です。 あの十字架において、神の裁きと救いが起こったからです。 裁きと救いとは本来対立する概念です。 しかしあの十字架によって私たちは裁かれたと同時に救われたのです。 このことをもっと具体的に説明してくれている箇所があります。 "神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。" ローマ人への手紙 3章25~26節 神は聖なる方です。 しかし人は罪を持っています。 聖なる存在は罪をはじき出します。 この性質を聖書は神の怒りと言うのですが、この怒りをなだめるために、供え物として神の御子イエスキリストが十字架にかかられたのです。 イエスキリストが裁かれたことが、私たちがさばかれたこととしてくださったのです。 そして私たちは救われました。死から命へと移ったわけです。 私たちはこの真実を感謝して受け取る、信じ受け入れることで救われるのです。 この贈り物を受け取り受け入れ続けることこそ信仰に始まり信仰に進ませるということです。 そして義人とはこの十字架による義を受け取っている者のことです。 信仰でもって十字架による義を受け取っている人は救われて生きます。 ここの生きるという言葉の意味は永遠の命に生きるということです。 ルターはどうしたら「神の義」に達することができるのかと悩んでいました。 しかし 「神の義」とは自分が努力して自ら作り出せるものではない。むしろその義を与えるためにこそイエスキリストが来られたのだ。そしてあの十字架こそ神の義がもっともよく表されたものだったのだ。わたしたちが自ら天に上るのではなく、神の側が降りてきてくださったのだ。わたしはそれをただ信じればよいのだ。神の義とはただ信仰によるのだ。 ということをルターは教えられました。 これを信仰義認論といいます。 こうしてルターはローマ・カトリックの神学を離れて「宗教改革的神学」へと転換しました。 そして1517年10月31日、彼はヴィッテンベルク城教会の門の扉に「贖宥の効力をあきらかにするための討論」という文書を貼り付けます。そしてこの出来事が火種となって大きな改革へと繋がっていくことになります。 10月31日が宗教改革記念日と言われる所以です。 ところで贖宥ですが、これは免罪符のことです。 ルターが貼り付けた文書は免罪符の根底にある救いの理解に対する批判でした。 免罪符とは、当時の教会が罪のゆるしのために発行していた札のことで、お金を出してそれを買うことにより教会から罪のゆるしのお墨付きがもらえるというものでした。本当の福音とは真逆のものと言えるでしょう。 私たちは今免罪符をお金を出して買うことはありません。 しかし福音とは真逆の行動、生活を送ることはあるのかもしれません。 どういう意味かというと、福音というのは神から与えられる一方的な贈り物でした。 天から地上へと降って来たものです。 それを受け取れば良いわけです。 しかし何か地上の方から天に向かって登っていこうとする思いや行動というものを私たちはしていることがないかという問いかけなのです。 端的に言えば、こうすべきだ、こういう自分であるべきだという思いとこれを原動力とした行動です。 良い子であろうとする事と言えるかもしれません。 ルターはまさに良い子であろうあろうとした人でした。 良い子でないと神に受け入れられないと思ったのでしょう。 これはある種の律法主義です。 私たちもルターと同じようにいつの間にか自分で作り上げた鎖で自分自身を縛り付けているのかもしれません。 洗礼を受けたクリスチャンであるならば、聖書を読むべきだとか、祈るべきだとか、礼拝に出るべきだとか、奉仕をすべきだとか、献金をすべきだとか、こういうことにいつの間にか縛られているのかもしれません。 もちろんこれらは全て大切なことです。 しかしクリスチャンはこれらを「~すべき」で生きるのではないのです。 「~すべき」で生きるのは律法主義者です。 クリスチャンは、神の愛ゆえに神に望まれることをしたいと考え行動する人のことです。 聖書を読むことをはじめ、祈ること、礼拝に出ること、奉仕をすること、献金することなどはすべて神の愛を深く味わった人が結ぶ実と言うことだってできるのです。 その愛を深く味わうには、神から与えられた贈り物であるイエスキリストを受け入れれば良いのです。 これを信仰といいます。 「ただ信仰のみ」 私たちの側が何かをするからではなく、もうすでに神はイエスキリストにあってしてくださいました。もうすでに神は私たちを受け入れてくださっていることを思い出してください。 そしてその愛の絶頂であり義の絶頂こそ十字架なのです。