主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き13章4~12節 タイトル:今も広がり続ける福音 今日も使徒の働きを共に見ていきます。 使徒の働きを見る時にいつも念頭に置いていただきたい言葉があります。 それは使徒の働き 1章8節の "‥聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」"という言葉です。 イエスキリストの弟子たちに聖霊が臨みエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土まで福音は伝えられ、いよいよこれから本格的に地の果てにまで福音を伝えるためにアンテオケ教会が立てられて、そこからバルナバとサウロが派遣される出来事を見ていますが、これらはあくまでイエスキリストが弟子たちに語られた約束の成就なのです。 今日もその視点を持ったまま聞いていただけたらと思います。 <本論> 1 バルナバとサウロ(4−5節) 二人は聖霊の御声に従いアンテオケ教会から出て約26キロ離れたセルキヤへ下りました。 そしてセルキヤから船に乗って96キロ離れたキプロス島の東、サラミスに到着します。サラミスはキプロス島の東側を統括する行政府がある町です。 アンテオケ教会から出ることはバルナバとサウロの意志ではありませんでした。 ある日聖霊が語りかけられ教会はその言葉に従ったのです。 こうしてバルナバとサウロは宣教の旅に出ました。 そしてまずこのサラミスという町でユダヤ人たちの会堂を探しそこで福音を伝えました。 「諸会堂」と書いていますので、ここから二つ以上の会堂が存在していたことと、バルナバとサウロが二つ以上の会堂を回って語ったことがうかがえます。 異邦人への宣教もこの時は問題なくできるようになっていたので、会堂だけではなく他の場所でも宣べ伝えたはずです。 彼らはそのようにして色々な場所で福音を語りました。 こうして東の町サラミスから145キロ南西のキプロス島の行政府がある町パポスまでやって来ました。 パポスはキプロス島全土を統括する行政府の所在地でしたので、キプロス島で最も重要な町だと言えます。 ここではパピアンと呼ばれる女神が崇められていました。 ギリシャの女神アフロディーテと同一視される神でした。 そのような異教宗教の盛んな町にバルナバとサウロは聖霊の導きでやってきました。 たしかにバルナバの故郷の島ではありますが、決して簡単な場所ではないことがお分かりいただけると思います。 まさに異教の地へと彼らは足を踏み入れて宣教活動をしていたわけです。 日本は宣教が難しいと言われますが、田舎にいけばもっと大変です。 わたしの伯母は愛媛の田舎で農業をしてくらしていますが、クリスチャンだとわかる文面で手紙を送ったところ、やめてほしいと言われたことがあります。周囲の目が気になるのでしょう。 宗教の影響力が強い場所で伝道活動するのはとても大変なことだと教えられた出来事でした。 しかしこのように大変な地域に赴いて伝道しようとする人たちが今でもいます。世界各地に散らばっている宣教師はもちろんですが、日本国内でも福音があまり伝えられていない地域、特に田舎で神社やお寺との関わりが深いところへいって伝道する人たちがいます。 関西聖書学院で出会ったAさんは、LINEでよく宣教活動の報告と祈りの要請をしてくださいます。 その兄弟は京都の教会の方なのですが、関西聖書学院の学生さんたちと一緒に田舎伝道をしていました。 京都のある地域で伝道をしたところ出会った人の中で信仰告白をする方もいたという報告をいただきました。 バルナバやサウロも伝道がほとんどなされていない場所へと聖霊の導きでやってきて人々に福音を伝えましたが、そのような働きが実は今も行われていて福音は広がり続けているということを今日は一つ心に留めていただきたいと思います。 そしてそこで終わってしまうのではなくて、自分自身はその置かれた場所でどのようにイエスキストの福音を伝えていくことができるのかを一度思い巡らしてみてください。 そのこともまた聖霊の働きなくしてできませんし、何より今日知っていただきたいのはAさんの働きはもちろんですが、わたしやみなさんがどうやって福音を証するものとして生きていけるかと考えることも、イエス様の約束とつながっているものです。 2 バルイエス(6−8節) この町で二人はバルイエスという人物に出会いました。 彼は偽預言者であったと聖書には記されています。 偽預言者とは、神から言葉を受け取ることなどできないのに、神様がこう言っていると語る者のことです。 それをあたかも本当に神様から受け取っているかのように見せることができる人だったので、そういう意味で魔術師だとルカは表現しているのでしょう。 バルイエスは自称預言者で魔術師でした。 バルイエスは地方総督つまりキプロス島の行政のトップのもとにいました。 「もとにいた」と翻訳されているギリシャ語「エン」が継続と反復を意味する形で書かれているので、バルイエスが総督の相談役のようにいつもぴったりくっついていたことが想像できます。 側近として仕えていたということです。 バルナバとサウロはこの地方総督に対して福音を語ろうとします。 しかしバルイエスがそれに反対しました。 なぜバルイエスはバルナバとサウロが語る福音をきかせないようにしたのでしょうか。 バルイエスは自称預言者でした。 神の言葉を本当は聞けないのに、聞けると総督に嘘をついていたのです。 総督はそれを信じて、「バルイエスは神の声が聞こえるのだ」と思っていたわけです。 そこに本当の預言者であり教師であるバルナバとサウロがあらわれて総督に語ろうとしたのです。 自分が嘘つきで偽物だと知っているのは誰よりバルイエス自身だったことでしょう。 だからその嘘が総督にバレないように本物を聞かさないようにしたのだと思います。 もし自分が偽物だということがバレたら彼は即刻クビになるからです。 伝道しようとするとそれを邪魔する存在が現れます。 教会の悪口を言ったり他の宗教に誘ったり、宗教全般を嫌って軽蔑したりする人がわたしたちの伝道対象者の側で邪魔をすることがあります。 その時にわたしたち教会はどのように対抗するべきでしょうか。 邪魔をしている人に「邪魔をするな」と言うのでしょうか。 そんなことをしたらこちらがおかしい人になってしまうでしょう。 ここでわたしたちが適用すべきことはサウロが聖霊に満たされたようにわたしたちも聖霊に満たされることです。 そのためにはみことばを蓄えることと祈りが不可欠です。 世の人々のように自分で考えた策略でもってなんとか引っ張ってこようとするのではなく、聖霊に満たされて行動し生きることです。 その先にサウロのように激しく大胆に語るような機会もあるかもしれませんし、そういうことはないかもしれません。 しかしいずれにしても、大切なのは聖霊に満たされることです。 そのために日々御言葉に教えられその言葉を心に蓄える必要があります。 そうすれば私たちの心は自分の経験や判断を神の前に置くことができるのです。 神の御言葉が心を支配すれば自分の考えが支配することはありません。 心を空っぽにすることはできません。 聖霊に満たされて主導権を握っていいただくか、自分の心でいっぱいにして自分で何かをしようとするかのどちらかなのです 聖霊に満たされれば勝利があります。 またもう一点押さえておきたいことは、バルイエスが目が見えなくなったことについてです。 バルイエスが一時目が見えなくなったと記されているのは、サウロ自身に起きた回心を思い起こさせるためではないかと思います。 サウロはキリスト教徒を迫害するものでした。 しかし天上のイエスキリストと出会って目が見えなくなり直接声を聞いて回心しました。その後アナニヤが主に遣わされサウロのために祈ると彼は目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになったのです。 サウロが目が見えなかったのは一時的なものでした。 この出来事をわたしたちに思い出させてバルイエスも救われる可能性を少し匂わせて退場させているように見えます。 何が言いたいかというと、わたしたちが伝道する時に必ずと言って良いほどそれを妨害する人が現れると思いますが、その人すらも救われるかもしれないことを教えてくださっていると思うのです。 みなさんは最近伝道している方がいますか。 その伝道を阻もうとする人はいませんか。 もしいるとしても悲観する必要はありません。 このバルイエスのように、何よりあのサウロのように、主はその敵すらもその手で覆って信仰者に変えてしまわれる方だからです。 だからその人のために祈りましょう。 そして御言葉を蓄えましょう。 自分ではなく聖霊に働いていただきましょう。 3 地方総督セルギオ・パウロ(9−12節) バルイエスはヨシュアの子、つまり救いの子という意味の名前でした。 しかしサウロは聖霊に満たされバルイエスに向かって悪魔の子だと語ります。 バルイエスは主のまっすぐな道を曲げていました。 彼は主の言葉だと語りながら自分の言葉を語り王宮から報酬を得ていました。 バルイエスはサウロの言葉によって一時目が見えなくなりましたが、この出来事を通して総督は主の教えに驚嘆しました。 ここで注意したいのは、バルイエスが目が見えなくなったことに驚嘆したのではないことです。 彼はこの出来事を見て主の教えに驚嘆しました。 総督は自分には主の教えが必要だと悟ったのです。 当時はまだキリスト教が公認されるはるか前でした。 地方総督がそれを信じるのはそんなに簡単なことではありません。 ローマの皇帝を崇めなくてはいけない立場にある人だったからです。 出世コースが閉じられるのはもちろん、今の立場すらも危ないかもしれません。 しかしそれでも信じたことに注目したいです。 彼は自分の得た何かやこれから得られる何かよりもイエスさまが大事だと思ったということだからです。 彼はバルナバとサウロが来るまで本物の預言者と偽物の預言者の区別がつかない人でした。それなのに聖書は彼を懸命な人だったと言っています。 ここに違和感を持った方も少なくないのではと思います。 しかし彼は求めていました。自分に必要な何かを求めていたのです。 以前より彼は心の奥底の渇きに気づいていたのでしょう。 だから偽物にせよ預言者を近くに置いていたのではないでしょうか。 目に見えるものだけでは幸せは図れないと知っていた人でした。 そういう意味で聖書は彼を懸命な人だったと言っているのではないでしょうか。 そして最終的に求めていたものの方からやって来ました。 彼は本物をみて今までそばに置いていたものが偽物だと知りました。 偽物とはバルイエスだけのことを言っているのではありません。 彼は本当に賢明な人でした。 <結び> メッセージの最初に使徒の働きを読む上で心に留めていただきたいこととして、1章8節の御言葉をあげました。 "‥聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」"という御言葉です。 エルサレム、ユダヤとサマリアの全土に福音は及び、これから本格的に地の果てへと進み出していくその行程をわたしたちは今日も見ました。 その中で強調したかったことがあります。 それは今もこの福音は広がり続け動き続けているということです。 そしてその動きの中にわたしたちは今生かされているのです。 どうかそのことを今日心に留めてください。 祝福を祈ります。