主日礼拝メッセージ
聖書箇所:詩篇3篇
タイトル:悩みの中でこそ祈る信仰
今日、主があたえてくださったみことばは詩篇の第3篇です。
3という数字が書いてあるすぐ下に、この詩篇の作者とその人が置かれている状況が書かれてあるのですが、そこには「ダビデがその子アブシャロムから逃れた時の賛歌」とあります。
イスラエルでダビデが王様だった時、その息子アブシャロムがクーデターを起こしました。
アブシャロムとは、アバとシャロームという2つの言葉から出来ている名前です。アバとは父親、シャロームとは平和という意味です。つまり平和の父という意味があるということです。この名前をつけた父ダビデの思いは、平和の父という名前にふさわしく、平和を作り出すような人になってほしいというものであったことでしょう。
しかしそんな父の期待をよそにアブシャロムは父親が統治する国でクーデターを起こしました。しかもそのクーデターを起こす引き金を引いたのはダビデ自身の失敗でした。
このことについてはまたの機会にお話しようとおもいますが、とにかくダビデはその王国から逃げ出さなくてはいけないほど息子に追い詰められていたのです。
その時の祈りが記されているのがこの詩篇第3篇です。
“主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。セラ”
詩篇 3篇1~2節
ここでダビデは、「なんとわたしの敵が増えてきたでしょう。」といいます。
増えてきたというのは、遠くから敵がやってきたことを意味するものではありません。
クーデターというのはもともと味方だった人たちの裏切りから起こります。
つまりここでダビデが言いたいのは、味方であったはずの人間がどんどん裏切って味方が敵になっていく状況なのです。
味方だと思っていた人に裏切られたことがありますか。
裏切りが与えるダメージは大変なものです。
ダビデはこの時多くの人たちに裏切られどんどん敵が増えていき囲い込まれているような状況でした。
しかもその人たちはダビデの最も大切にしている神への信仰に触れます。
彼らはいいました。
ダビデに「神の救いはない。」
彼らは口々にダビデが信頼している神さまがダビデを助けないことを嘲笑っているのです。
神を信じるものにとって信仰に関することを指摘されることは本当に辛いことです。
ダビデは息子のクーデターという大変な局面で今まで自分を支えてきた信仰について敵から嘲られるという状況でした。
おそらくこの時ダビデは大変な失望と恐れの中にいたはずです。
しかしそんなダビデが3節でまず語る言葉は何でしょうか。
“しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。”
詩篇 3篇3節
ダビデは「しかし、主よ。」と語ります。
敵が目の前にたくさんいて、自分のたましいのことで、自分の内面のことで色々なことを言われる中で、ダビデは言うのです。
「しかし、主よ。」と。
人は悩みに囲まれると思い煩います。
考えてもどうしようもないことについて悩みます。
この思い煩いを解消するにはどうしたらよいのか、それをダビデは知っていました。
すべての思い煩いは神に向けて語られる時にのみ解消することができます。
ですから悩みの中におぼれそうになるときに、「しかし主よ」と祈るのです。
この祈りができる人は幸いな人です。
悩みの中に立たされたときに、「しかし主よ」と祈ることができる皆さんでありますようにお祈りいたします。
3節はさらに続きます。
「わたしのかしらを高く上げてくださる」とは、気持ちが落ち込みどうしても抜け出せない状態にある時に、そこから引き上げてくれることです。
絶望から希望へと導いてくださることです。
わたしは韓国にいた時よく聞いた賛美があります。
神様のお考えというタイトルの賛美です。
歌詞を少し紹介します。
神様はあなたを造られた方
あなたを最もよく知っておられる方
神様はあなたを造られた方
あなたを最も深く理解してくださる方
神様はあなたを守られる方
あなたを絶対に離さない方
神様はあなたを守られる方
あなたを絶えず見守られる方
神様のお考えは計り知れず
その慈しみは無限であり
その誠実さは毎日新しくされ
その愛は絶えない
この賛美をよく聞くようになったきっかけがありました。
神学校の課題がなかなか進まず、気分転換のために夜散歩に出かけた時でした。
イヤホンをつけて音楽を聴きながら出かけました。
周りの人たちはどんどん課題を終えていく中、わたしはどうしてもそのスピードについていけず、いつも夜他のルームメートが寝ても一人で課題に取り組んでいました。
賛美が入っているMP3プレーヤーを聴きながら歩き始めると、何曲目かで先程お話しした「神さまのお考え」という曲が流れ始めました。
自分のことを神さまは最もよくご存知で、絶対に見放すことがない。
とても単純で基本的なことを繰り返す曲ですが、妙にその時のわたしにはささりました。「そうやったな。僕が信じている神さまはそういう方やった。」目がさめるような思いでした。神学校に入学して1年が過ぎていましたが、それまでこの夜ほど足取りが軽い時はありませんでした。
主はわたしたちを絶望のふちから引き上げて希望の道を歩むようにされます。
主はわたしたちのかしらを高く上げてくださる方です。
“私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ”
詩篇 3篇4節
ダビデは自分のかしらを上げてくれる主に呼ばわりました。
これは声を上げて祈ったということです。
みなさん、神さまにお祈りしてらっしゃいますか。
神さまは必ずその祈りに答えてくださる方です。
助けを求めれば必ず答えてくださいます。
この世界ではどれだけ助けを求めても誰にも届かないということがあります。
あるいは助けを呼べないということがあります。
そんな時わたしたちは自分が一人ぼっちだと思うのです。
周囲に人がいないわけではありません。
家に帰れば家族がいます。
職場、学校、教会にいけばそこにも人がいます。
それなのに、一人ぼっちだと思う時があるのです。
しかし主はわたしたちのこの叫びに耳を傾け答えてくださる方です。
あなたは一人じゃない。
どんな時もわたしはあなたのその叫びを聞いている。
だから話を聞かせてほしいと主は語りかけてくださる方です。
わたしたちが少しでも祈ろうと思うとき、それはすでに神さまの方から語りかけがあったしるしです。
「あなたと話がしたい」と神様の方から言ってくださっているからこそ、わたしたちは祈ることができるのです。
“私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。”
詩篇 3篇5~6節
次の日になるのが嫌で動画や深夜番組ばかり見ているなんてことはないでしょうか。
明日も朝早くに起きないといけないのに、なかなか布団に入れない。
それは明日のことを思うと不安で仕方がないからではないでしょうか。
できることなら明日が来なければ良いのに。。。
そんな思いに支配されて、なかなか眠れないということがあります。
特に自分がひとりぼっちだと思う時、だれも助けてくれないと思う時、誰も自分のことなんてわかってくれないと思う時、その孤独感は不安を倍増させます。
しかし5節のダビデはどうでしょうか。
「わたしは身を横たえて、眠る。わたしはまた目をさます。」とあります。
彼の周囲は敵だらけです。彼は孤独でした。しかも敵のトップは自分の愛する息子でした。自分のとなりにいた愛する息子でした。自分が何度も抱き上げたあの息子でした。どれほどつらいでしょうか。どれほど苦しいでしょうか。それなのにダビデは眠ることができました。つまり彼には平安があったということです。
どうしてでしょうか。
その理由も彼は語っています。
「主がささえてくださるから」だと。
ダビデはひとりぼっちではないのです。
ひとりぼっちではないことを知っているのです。
主がどんな時も支えてくださることを知っているのです。
だから幾万という敵に取り囲まれようと恐れることがないと大胆に宣言します。
“主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ”
詩篇 3篇7~8節
「すべての敵の頰をうち、悪者の歯を打ち砕」くという表現は過激すぎる気がしますが、あくまでこれは詩です。
だから1つの表現方法とご理解ください。
ダビデは実際に息子の頰をたたいて歯をくだきたいわけではありません。
彼はただこの戦いに勝利し、敵軍を追い払うことを目指していました。
そして王宮にもどることを考えていたのです。
それこそダビデにとっての救いでした。
そしてこの詩篇は「救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。神さまのその祝福が神さまの民の上にあるように」と祈って結んでいます。
7節までは個人的な祈りのように聞こえる書き方がされていました。
しかし8節では個人的なものでなくなります。
ダビデは祝福を祈りますが、その対象が自分を含めた選ばれた民全員に及ぶのです。
このダビデの詩篇は、「主の祈り」の精神に一致します。
主の祈りも天にますます我の父ではなく、「我らの父よ」と呼びかけて始まります。
祈りは神さまと一対一でするものであると同時に、このように「我ら」という共同体として祈っていくものなのです。
最初は自分の個人的な悩み苦しみのために祈っていても最終的には自分を含めた教会の人たちのため、家族のため、職場の人々のため、学校の友人のためにと祝福が及ぶ範囲が広がっていきます。
この詩篇を書いたダビデはとてつもない苦しみの中にいました。
しかしその中でただ思い煩うことに終始するのではなく、神さまに祈り求めました。
そして彼はその祈りのなかですでに敵に勝利し、自分だけではなくすべての民のために祝福を祈り、この詩篇を結んでいるのです
みなさんにも、このダビデのような信仰があたえられますように。
今もし少しでも祈ってみようと思われたならそれはもうすでに主からの語りかけがあった証拠です。
どうか思い煩いを主に委ねてください。
そうして教会の人々のため家族のため周囲にいる人々のための祈りで結ぶことができるみなさんでありますように、お祈りいたします。