主日礼拝メッセージ
聖書箇所:コリント人への手紙 第一 12章3節タイトル:聖霊のおはたらき
キリスト教には三つの大きなお祭りがあります。
一つ目はクリスマスで、イエス様がこの地に来られたことを記念する祭りです。
二つ目はイースター、イエス様が復活されたことを記念する祭りです。
そして三つ目がペンテコステです。
これは復活されたイエス様が天に昇られたのち、この世界に聖霊が送られたことを記念するお祭りです。
日本ではなかなかクリスチャンの人口が増えませんが、そんな中でもクリスマスはとても大きな存在感を持っています。
もちろんその本当の意味を皆さんがご存知というわけではありませんが、クリスマスを特別な日とする慣習、文化がこの日本でもしっかり根付いています。
ここ数年ではそれに続いてイースターも知られるようになりました。
最近はまた下火になっているように感じますが、それでも以前よりはイースターの認知度は上がったと思います。
これでキリスト教の三大祭りのうちの二つが認知されたことになるわけです。
この波にのってペンテコステもといきたいところだったのですが、キリスト教とは全く関係ないハロウィンの方に流れてしまい残念な状況になっています。
しかしながらこのペンテコステ、本当はとても大切なものです。
なぜならペンテコステの日、私たちに送られた聖霊は、私たちを完全に変えてくれたからです。
聖霊によって私たちはイエス様を救い主と告白できるようになりました。
私たちは聖霊なしにイエス様を信じることはできません。
たとえ自分でイエス様を信じていくと決断したと思っていたとしても、その決断の力をくれたのは聖霊です。
新約聖書のコリント人への手紙 第一 12章3節には“‥聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。”と記されています。
わたしたちは本来聖書を読んでもそれが真実だとは思えない者です。
しかし聖霊がその人のうちに住まわれ、その人の心にイエスを救い主と信じる信仰を与えてくださる時、聖書の御言葉がせまってきます。聖書の御言葉が自分と関係がある言葉だとわかります。聖書に登場する人たちの経験が自分の経験として受けとめられるのです。
ペテロとイエス様の出会いが私とイエス様の出会いであることがわかります。
パウロとイエス様との出会いが私とイエス様との出会いであることがわかるのです。
わたしたちは誰一人として自分の力でイエスを救い主として信じ受け入れたわけではありません。
ただ神様がお送りになった聖霊によって私たちはイエスを救い主と信じ受け入れました。
神様の憐れみによって、恵みによって、私たちは今の私たちになったのです。
ではここから聖霊のお働きを三つに分けて考えて見ます。
聖霊のお働き
一つ目は、
自分が罪人だと自覚させてくれることです。
新約聖書の使徒の働き2章37節には
「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」とあります。
聖霊の力で語り始めたペテロの言葉を聞いて聖霊を受けた人々は心を刺されました。
これは自分たちの罪がわかったということです。
聖霊を受けると自分が罪人だということがわかります。
人類は神に背き堕落しました。その結果、罪人となりました。これを聖霊が自覚させてくださるのです。聖霊が働いてくださらなければ人は自分が一体どんな状態にあるのかがわかりません。自分自身がどれほど悲惨な状態にあるのかを自覚することができないのです。
だから自分には救いなど必要ないと思ってしまいます。自分の罪がわからなければ、そのゆるしの必要性も認識できないのは当然です。
聖霊によって本当に自分の罪が示された人は、ペテロの言葉を聞いて聖霊を受けた人々のようになります。心を刺されて救いを求めるようになるのです。
聖霊は、わたしたちが自分が罪人だとわからせてくれるのです。
続いて聖霊の働きの2つ目です。
それはイエスキリストを理解することができるようになることです。
これは1つ目の罪の自覚と密接につながっているところです。
聖霊は私たちに、自分自身の状態を自覚させられた後、イエスキリストのことがわかるようにしてくださいます。
聖霊が教えてくださらなければ、聖書をどれだけ学んでも理解できません。
聖霊はまずわたしたちの中の罪をさとらせてくださいます。
そしてわたしたちが自らの力では決して救われない存在であることをわかるようにしてくださるのです。
そしてそんな自分を罪から救ってくださる方がいらっしゃることを教えてくださいます。
2000年前に流されたイエス様の血潮の意味を聖霊が理解させてくださり、キリストが「私の」救い主であり、「私を」深く愛し、「私を」守り救って下さる方だという真の知識に至らせてくださいます。
この「私の」というところに大きな意味があるのです。
たとえこの世の知識を全て得て、聖書の意味するところが知識としてわかったとしても、聖霊によらなければその知識が私のものとはなりません。
他人事なのです。
私の救い主だ。これは私のためのお話だと知るには、聖霊の力が必要なのです。
最後に三つ目です。
聖霊の働きの三つ目は、イエス様に従っていきたいという意志を与えてくれることです。
エゼキエル書36章26、27節には
「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」とあります。
新しい霊とは、聖霊のことです。
聖霊を受けると、わたしたちの石のように硬く神の言葉を聞こうとしない心は、肉のように柔らかく神の言葉を聞き取り従う心に変えられます。
イエス様を救い主として信じて生きていくには、神様の御言葉に従おうという意志が必要です。聖霊はその意志を与えて下さる方なのです。
もしみなさんの中に神に従って生きていきたいという思いがあるならば、それは聖霊が働かれている証拠なのです。
石の心が肉の心に変えられた証拠です。
時にそれは失敗することもあるでしょう。しかしそれでも聖霊が働かれていることに変わりありません。たしかに聖霊がその意志を与えておられるのです。
以上のように
私たちは聖霊によって、罪を自覚し、キリストをより深く知るものになり、神に従いたいという意志を持つものに変えられます。
この三つの事が心に起きているなら、その人の心には聖霊が働いておられるということです。
聖霊が共におられるからといって、いつも神秘的な感動があるとは限りません。
感動を覚えて涙を流すこともあれば、祈っても素直な心でアーメンとは言えないし、説教も全く入ってこないという時もあるのです。
しかしそれでも、そこに聖霊のおはたらきを信じ認めることが大切です。
みなさんはなぜ今こうして教会で礼拝を捧げておられるのですか。聖書のお話を聞こうとされているのですか。
それは自分が罪人だと、ある時に知らされたからではないでしょうか。
そんな罪人である自分を救ってくれるのはイエスさましかいないとわかったからではないでしょうか。
そしてそんなイエスさまに従っていきたいという意志を与えられたからではないでしょうか。
それはすべて聖霊によるのでなければおこらない変化なのです。
先日「視点を変えて見てみれば」という本を読んで考えさせられることがあったので少しシェアして終わろうと思います。
みなさんは、十字架といえばどこに立てられている様子を思い描かれますか。
わたしの思い描くイエスキリストの十字架は山頂にそびえ立つ十字架でした。
苦しみながらもわたしたちのためにしっかりと足を踏みしめて山頂へと登りそこでわたしたちのために死なれたイエスさまです。
そんな彼に憧れて少しでも似たものにされて生きていきたいと思いました。
しかし登っても登っても前に進みません。
理想の自分と現実のギャップがありすぎて、それが苦しくて仕方がありませんでした。
しかしなんとしても登り切りたいと思っていました。
ところが登るどころか、ただ転げ落ちてるだけだということにある時気づかされました。
谷底まで転げ落ちて泥まみれになった顔をあげると、そこには今まで見たこともないようなみすぼらしい十字架にボロボロのイエスさまがかけられていたのです。
暗い谷底に落ちるということは、自分の罪を知るということです。
自分の罪を知るということは、イエスキリストの十字架の意味を知るということです。
十字架は山頂にはありません。
わたしたちの罪の谷底にあるのです。
このことに気づかせてくれるのが聖霊です。
罪の谷底に案内してくれたのも聖霊です。
そこに立っている十字架を見せてくれたのも聖霊です。
みなさんの十字架はどこに立っていますか。
山頂に立っていませんか。
もし山頂に立っているとすると、クリスチャンとして生きていくことに窮屈さを感じておられるかもしれません。
自分の力で山頂に登らなくてはいけないからです。
その人の意識下には神さまがこう言うからこうしないといけないという「〜しなければいけない」がいつもあるはずです。
しかし谷底に転がったことがある人なら、その十字架を見たことがある人なら、「〜しなければならない」からは解放されているはずです。
自分の罪の谷底に転がってそこで死ぬためにイエスさまが来たのだと知ったなら、その愛の大きさに心動かされないわけがないのです。
そして心動かされた人は、神に従わなければいけないではなく、神に従っていきたいという思いに変えられていきます。
みなさん。
どうか自力で登ろうとしないでください。
その先には何もありません。
谷底にある十字架、そこにおられるイエスさまを見てください。
その方はわたしたちの罪のために、その谷底で死なれたのです。
そしてこのことを教えてくださるのも聖霊なのです。
お祈りいたします。